資源保護って、本当はどうなんでしょうか。まだまだ割り箸の誤解が....
割り箸の話
近所の総菜屋で、「割り箸いりません」というと、資源の保護にありがとうございますといってクーポンをくれます。(クーポンがたまると200円引きしてくれるのでせっせと集めていますが)
でも、ちょっと待ってといいたいのです。
割り箸は、日本の木材利用の中で無駄なく利用するために生まれた知恵なんだと思うのですが・・
丸太から板を取った残り(端材)を、利用してきた物です。自然からの恵みを無駄にしなかった、無駄に出来なかった生活の知恵だと思うのです。箸を通じて、食への感謝、その食を作り出した自然への感謝、使った箸に取り付いた神を地に返すために、手放す風習(折って捨てると言うこと)日本人の美徳だと思います。無駄を生まないという、自然に感謝するという表現の一つの姿が割り箸なんです。吉野の人々の生活の知恵だったんです。
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最近思うのですが、割り箸が資源の無駄という人は、何故、家の解体時に出る材木を非難しないのか。(全く利用されていないわけでなく、リサイクルされてはいますが量は僅かです)。人が一生使う割り箸の量より1軒(2階建て)の家の柱の方が多いような気がしますが、どう思われますか。しかも、30年もすればダメになるような家が多いのになぜ非難しないのでしょうか。ちゃんと木を使うべきなのに、これこそ使い捨ての家、問題だと思います。割り箸の日本の木材消費量としては0.2%とか0.4%と僅かなんです。
1990年頃、割り箸論争があって、割り箸ではなく、自分の箸を持つことが流行ったことがあります。一部生きた化石を見かけるという話を聞きますが(^^;
携帯用の箸まであるとか。
割り箸の利用は、資源の無駄使いだとか、熱帯林の破壊であるというどうしてそうなったか分からないけど。熱帯林の破壊と結びつけた、新聞が売れればいいと言う無責任な妄想が、林業と箸というすばらしい文化を消そうとしたんです。でも、熱帯材で割り箸はちょっとね。ざっとした経緯は、1984年に放火され、1989年のWWF(プロレス団体じゃないよ)が日本の割り箸が熱帯林を破壊しているというデマで燻りだし、読売新聞社が油を注ぐんです。一挙に発火。そしてマスコミやエセ環境保護団体、エセ文化人に飛び火。誰も手を付けれなくなった時に、数字が登場。定量的な話が出ればあっという間に鎮火。焼かれてしまった日本各地(特に北海道)の零細割り箸業者は火災保険に入っていなかったようで焼かれ損になってしまったんです。(緑の字の箇所は、情報は錯綜しているので間違っていたらごめんなさい。1984年に大阪で発行された記事が読みたいです。)
放火役のその新聞社は、西表島の珊瑚礁が破壊されているという記事を書くためにわざわざ珊瑚礁を傷つけるような会社ですが、なぜか、影響力があるんですね。自然を守る記事を書くためには、自然を破壊してネタを仕込んでから、正義を訴えるんです。新聞のネタがないから(見向きもしないから)、でっち上げしていいんですかね。公共事業は悪だと言って取材もせずに?記事にするんです。http://www.mlit.go.jp/river/topics/mado/ ここのお役人さんは凄いです。インターネットで駆使して、きちんと記者さんに説明しようとしているんですから。国民の生命と財産を守るために頑張っているんです。だから真剣なんです。新聞の記事しか見ていない人は疑うことはなく、未だに建設省は嘘つきと思っているんだろうな。
所詮は、新聞は社会正義のためではなく、社員が生活するため、社主が儲けるためのモノなのに、自社をアピールしたい広告主のためのモノなのに正義面するんです。立場の弱い人を喰いモノにするんです。世界を支配しようとするんです。影響力を高めようとするんです。売り上げのばすために、入試問題でよく使われるからとアピールするんです。(記事でアピールするには自信がないから、社説は常軌を逸しているから?)。割り箸に限ってみても、癌が体を蝕むように、社会に嘘を垂れ流しているのです。読者を装って、読者欄には新聞社の意向を読者に刷り込ませているんです。
当時、本当に問題だったのは、コンクリートの型枠(コンパネ)に使われた熱帯材だったのです。バブル景気の建築ラッシュが熱帯林の破壊に一役を買ったことは当時は報じられませんでした。建築業(ゼネコン)は大きなスポンサーだったからでしょうか。割り箸業界がもし大口の広告主(スポンサー)なら、割り箸叩きは起きなかったでしょう。(とある地方自治体は、熱帯林破壊がコンクリートパネルの原因と分かったあと、熱帯材を使用しないことを公共工事の受注業者に通達したんです。良くやっているところも悪い所もひっくるめて)
コンパネ用に木を伐っているだけなら森林面積は減りません。森の質は落ちますが。ラワンという木を伐るために造った林道を伝って都市部で溢れた人が森には行って手当たり次第、農業を始めたので、農地が拡大。それで森林面積が減少したんです。だから割り箸とは全然関係ないというか、そんな記事が書けたのか不思議です。少なくとは、伐採現場に行っていないことは確かです。
ここに、マスコミの怖さがあると思います。熱帯林の減少が日本のせいという自称環境保護団体の登場でにわかに熱帯林問題が脚光を浴びるようになるんです。環境問題の盛り上がりに対して、そのマスコミはスケープゴートを捜し、割り箸を犠牲にしたんです。小規模な事業者をやり玉に挙げたんです。今は、不景気で力がないため、ゼネコンはマスコミに叩かれます。(広告を出さないから?)
税金で助けようとすると、他の産業も苦しいのにと...公共事業は税金の無駄遣いと、バッシングします。ゼネコンに落ちた公共事業のお金は、すべて土建屋さんに行くのではないんです。他の産業にも流れるんです。ゼネコンはその象徴なのにゼネコンを叩けば、他にもしわ寄せがいくのに、経済(民を救う)の足を引っ張ることしかしないんです。もし、不良債権を抱えているゼネコンが新聞に全面広告を出せば、道路公団が広告を出せば、別の業界(力の弱い)をいじめるのです。きっと。
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割り箸に使っている木はどんな木なんでしょうか?家の柱や家具になる木なんでしょうか?東南アジアから輸入されているメルクシマツは、松ヤニを取って利用価値が終わった木。グバスはマッチの軸に使われていたのを、マッチが売れない状況で割り箸に転向したんです。どっちにしても建築用材には向いていない木です。もちろん、日本のスギ、アカマツなどは端材と呼ばれる余った部分。柱として利用した残りの部分です。そして北海道は成長の早いシラカバ、シナノキなんです。
余り物で、割り箸やまな板にしているんです。柱の部分をまな板にして売るととんでもない価格になるとか。
木の先端部分は、柱に使うには細すぎます。ということで、適当な大きさに輪切りにして、沸騰したお湯に入れて灰汁(樹脂など)を抜いてからワリバシにするんだそうです。
北海道ですぐ腐る木、箸にも棒にもならない木であるシラカバ。こんな木だからこそ、割り箸に利用することが出来るんです。使えない木をいかにして使ってきたかです。これこそ、資源の有効利用、山村の振興だったんです。カナダでも住宅や家具、チップ、紙パルプに使えない木を割り箸として日本に輸出したんですよ。
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日本の場合:柱の部分も活用しています |
国営テレビのアナウンサー(NHK)は、割り箸を使わなければたくさん家が建つといったそうです。でも、割り箸に使う木(ポプラとか軽い木)で家を建てても、住めないんですけどね。強度が保てない。屋根をつけると折れてしまう可能性があるんです。風が吹くと飛んでしまうような家には誰も住みません。また住みたくないです。マッチの軸のような木の柱、そんな家ほしがりますか?
すぐ傷が付くんですよ。腐りやすいし。
そして、多くの人が誤解したまま生活しているのです。職場に来る小中学校の先生からの質問で、割り箸による熱帯林の破壊はどうすればいいですか、というような質問が届きます。 |
確かに、たくさんの割り箸を世界中から輸入していますが、成長の早い木を使います。早生樹(先駆樹)と呼ばれる木で、20年もしない木やタケを使います。20年たつと腐って枯れてしまう木がほとんどなんです。森作りの牽引役で20年で姿を消す木なんです。次に来る木の露払い的存在なのです。後から来た陰樹とか呼ばれる木が大きくなると姿が消える(日が当たらなくなり枯れる)のです。チークやマホガニーといった高級な木で家具を作らずに、使い捨ての割り箸を作るなんて考えられません。木にも値段があって、1m3が0円から天井知らずと利用目的によって値段が違うのです。
割り箸の話は、資源の有効利用と森を残すという関係は、非常に密接だからです。木材は、鉄やアルミと違って、時間が経てば再生可能な資源なのです。森としての価値が無くなったとき、農地に、牧場に替えられます。木を切らないことが自然保護という話がありますが、木を切らなければ、その森は価値(富を産むという意味で)がないんです。木を伐るというより木材として利用するといった方が正しいのですが。
割り箸の話ついでに余談ですが、中国の森林が割り箸のためになくなっているとか。だから、割り箸を使うことは森林破壊だという論調が見られます。長江の洪水は日本の割り箸の為に乱伐されたからとか。中国国内の割り箸の需要拡大と日本への輸出(お陰で、中国国内の感染症の激減=それまで不衛生な水で箸を洗っていたので)等の理由で。でも、ちょっと待ってほしいのです。割り箸と洪水の関わりあいにも無理が。それは長江の上流にある木では割り箸は作っていません。満州と呼ばれた中国東北部では作っていますが。場所が全然違うのです。ましてや計画経済の中国で、どうして問題が発生するんでしょうかね。
割り箸で消えた森は、元々森林=農業の出来ない場所=牧畜の出来ない場所
経済的価値が無くて森として残っていたのです。利用できなかったという意味で、利用できれば、農地に変わっていたはずです。使えなかったから手が入らず、人がおらず森だったのです。そして、生産力が低いため貧困地帯。お金を得る手段が今まで無かったのです。
貧乏地帯=森林地帯なんです。悲しいですが事実です。
また森が残っていたのは、利用価値のない木ばかりだったともいえるんです。もし使える木があれば、木が無くなっていたはずです。だから、今まで使われていなかった木に経済的価値を与えて事になるんです。だから貧困地帯でお金が回るようになったんです。そして木無しでは生計が無理なので、木を植えることに。伐っては植え、植えては伐るの連続。森として生き残っていきます。あとは持続的に回転してくれればいいのですが。
木を伐って森が無くなっても、他に使いようがないそんな土地なんです。割り箸用に木を伐って森が無くなったら、割り箸の原料不足に。こうなると、民族移動が出来ない今日(国境のため)では、資源を増やす方向に。すなわち、植林が始まるのです。植林する事で土地を利用することがお金になるからです。今まで見向きもされなかった森に経済価値が生まれるのです。(そうやって、日本では急峻なところが植林され今にいたっているんです)
無駄にされていた森林を利用する(本当の意味で、生きていくために)。こうなると、森は残ります。一時的に破壊されても森として利用するしかないので。ただ、長期的視野で経営が出来るか、7年という時間を待つことが出来るか。そこが問題なんですけどね。無理っぽそうな気がしますが・・・・
需要があれば、金儲けに走る中国人。どうなるんでしょうかね。森を割り箸のために切って果樹園にしている話もありますが。貧しいところに仕事が生まれれば、経済的自立の可能性も生まれます。雇用の場が生まれます。貧困から脱却できるんです。貧困から脱却できれば、環境破壊も歯止めがかかるんです。出稼ぎ強盗も減るかもしれません。日本の治安だって良くなると思います。ただ、伐採後は、農場になっているというのが現実らしいが、今まで農業していなかった土地で農業をしても、失敗することは明らかなんですけど。植林して林業するしかお金は稼げませんよと言いたい。一林業家としては。
もしかしたら割り箸の原料が木よりも竹になるかも。そうなると竹の豊富な南部地域の方が割り箸の一大生産地になる可能性が高いです。タケは1年で収穫できますから(3年あれば十分地力も回復するでしょう)。今主流の北部地域の割り箸業は没落するかもしれないです。竹に発生するカビの問題が克服されれば本当に主流になると思います。北部のポプラなどの木は7年や10年と時間がかかるから。でも、木を伐って放置するのは能がありません。利用しないというほど余裕はないと思います 。林業しかできない土地では林業をするしかないのです。木を伐り、利用し、植林し、また利用するといった具合に。
日本みたいに宅地開発やゴルフ場にする事はないでしょうから。資源不足になって割り箸の値段が上がれば、人工造林してもペイできるとなれば、人の欲望(資金)は、利用するための森作りに投資することになると思います。結果的に森が存在し、森を生き残すために環境に生態系に配慮する事が生まれます。決して木を使うことで森が無くなるのではないのです。逆に増えるかもしれません。
先進国の人にとってみれば、自然保護、環境保護といった意味での価値はあるでしょうけど、そこで生活している人にとってみれば、無価値なんです。言葉が悪いと、「エコ」というより、「エゴ」といえます。自己満足の世界なんです。
「木を切るな、木を使うな」が森を殺しているんです。一つが、管理できずに、脆弱な森になるんです。木を使われないと、木が売れない。売れない山を管理するメリットは経済的には無です。もう一つが森以外の利用として農地や牧場、ゴルフ場に森が消えるのです。新聞に自然を守れとアピールするわりには、ゴルフ会員権の広告が結構、目につきます。マスコミのエゴに振り回されるのはいい加減にして欲しいです。
最近よく目につくのが、「地球環境のため紙の使用を控えます。通知は電子メールで、WEBサイトで」。木を使った紙は、地球環境破壊の先兵のようなことを書いています。でも、本当は、コスト削減したいからではないのではないでしょうか。通信費を削減したいとか、印刷費をケチりたいだけなのに。コスト削減だと、イメージが悪いということで、環境に優しいという訳のわからない言葉で、イメージアップをしているとしか思えません。製紙業界は土地を酷使して放棄された牧場跡地に木を植えています。紙のために。何を持って環境にいい、悪いなんでしょうか。
ケナフを使って環境教育といって小学校に植えさせているバカもいます。本当は環境破壊(日本では外来植物)、生態系破壊なんです。それなら、コウゾやミツマタを使うべきです。日本の文化を支えてきた植物だからです。スギと一緒に植えて、3年後に換金した、農民の生活を支えてきた植物なんです。
もしケナフを使うなら同じ仲間の麻を使うべきなんです。麻あっての今の日本があるわけだし。ちなみにケナフは麻と同じ仲間なんです。そして、森は農業の出来ないところ。ケナフは農業の出来るところで栽培。だから、ケナフを栽培せずに、そこで食べるものを作るべきなんです。(お金になるなら別ですけど)。そして物事には時間がかかる物があるということも教えなければいけないんです。早ければ何でもいいんでしょうか。
木で出来た紙はダメで、ケナフで出来た紙は環境に優しいのでしょうか。土地の無駄遣いをしている(一部のエゴの人のために)のはいいことなんでしょうか。まぁ、木材を使うこと=森林破壊と思っている人には何を言っても馬に念仏ですから。ケナフで出来た紙を使って自慢している人を見れば、無知の怖さを認識してください。
大企業(製紙会社)=資本主義の象徴=悪←エゴイスト(自称環境保護団体)
天然林の曲がった古くなった木を使うと、自然破壊といわれるんです。人工林の場合でも、モノカルチャーとか生態系に配慮していないと非難するんです。農業は叩かれず、畜産もあまり叩かれません。なのに林業は叩かれるんです。林業は資源的には循環しているんですけどね。持続的なんですけど。資源保護を行っているんです。どんな形であれ、木を植え森を作ること=資源保護につながるんです。
日本の場合だと、鎮守の森とか、洪水防止とか、様々な経験から重要性を知るようになりました。そしてあちこちに神が宿る森(杜)が残っています。信仰による森が残っています。先人が苦労して造った海岸の防風林に、社を建てて、神を呼んだりしているんです。結界を作って、農業を守るため、森を切らせなくしたんです。心理的効果で。しかし、世界に目を向けると、森の重要性が分かっている人々は、経済的・社会的に立場の弱い先住民や、自然崇拝(アニミズム)を信仰している人たちです。先祖の森や神が宿るという意味で森を残していました。
心にタブーというバリアを張ることによって、手を付けないようにしました。
そのような理由を付けて、生活環境を維持しようとしたのかも知れません。 |
私(作者)は思うのですが、もう、このような信仰にたよる森の維持は難しいと感じています。
なぜなら、世界の流れは、イスラム教とキリスト教の分捕り合戦になってきているからです。どちらも、砂漠(草原)からの宗教で、自然保護といっても、森に囲まれた日本人とは違う発想に思われます。しかも発想は同じユダヤ教から。どうでも良いけど身内の争い、兄弟げんかは解決しないといいます。モスクの後ろにも、教会の後ろにも緑の森を見ることはありません。見たことないです。どちらかというと、森を利用しないということで森を残そうとしているような気します。もちろん、南欧やドイツ、北欧など、もともとキリスト教が入るまで森への信仰があったところは違うと思いますが・・・・
木に対して敬意を払うということは、崇めるという行為につながります。それは、一神教としての絶対神という存在理由が嘘になるからです。木を崇めれば、太陽や大地、水に感謝する自然を崇拝する思想が発生するからです。
そして、世界最大の人口を有する中国。ここにも森を信仰する人達は少数民族を除いてほとんどいません。かつてあった長江文明では神樹を有し、木を森を大事にしていたそうです。でも森を崇めていた人達も、黄河文明というか草原からの民族の南下によって散り散りに。秦の統一です。今いる多くの中国人の遺伝子には、勇敢な遊牧民の血が濃く反映されているのか、森林を大切にしようとしません。力無きモノへの残虐な仕打ち(近年でも、天安門虐殺、文化大革命、日本との関わりでは尼港事件、通州事件、通化事件etc)や他国(チベット、ベトナム、台湾、旧ソ連、インド、日本、フィリピンetc)へ攻め込むのは大好きみたいですけど。
日本は、積極的に森を利用することで、逆に森の価値を高め、これほど森が残ったのと思います。また、木を植え、山を荒らしませんでした。また、荒れるのを防ごうとしました。山を荒らさないことが持続した生活を保証することを経験的に学んだんだと思います。戦中、戦後のお金のない時代でさえ、木を植えました。
もちろん、一部では、明治時代に森が荒廃した時もありましたが、全国レベルではなく局所的。東京市長の尾崎行雄の多摩川上流の植林(山梨県側)、足尾銅山等がありましたので。
隣の朝鮮半島は、土地利用方法が持続的ではなく、手っ取り早くお金を取ろうということで、山を焼いて焼畑(火田)をさせて、土地利用分を徴収するという方法を採用したのです。しかも両班と呼ばれる特権階級の懐に消えたとか。国民(多くは農民・貧民)は、生きる空間が山しか無く、納める税金のために山が燃やされました。山が燃えれば燃えるほど、働かない両班の懐を暖めたのです。そして国土が荒廃していったのです。日本に併合されるまでは国(行政)を挙げての植林は行われなかったそうです。併合当時の日本資本は朝鮮半島では、育林費の話しかないみたいですから。洪水が多発するので、農業が出来ない。だから植林をする羽目になったというわけです。
(韓国の火田研究では何でもかんでも日帝のセイにしていますが、それ以前からひどかったみたいです。ヨーロッパ人の紀行文など韓国人は読んだことがないのか、理解できないみたいです。まあ、本当のことを書くと韓国国内で生きてゆけないでしょうからしょうがないのかもしれませんけど)
また、中国でも植林というのは最近までは行われなかったのです。鉄道を砂から守るために防砂林を作ったのが最初だとか。共産党による統一後です。多分ソビエトの影響でしょう。
この違いは何なんでしょうかね
大躍進の時に、毛沢東の一言(質より量で鉄生産の世界一という見栄)でたくさんの木が切られ、鉄作りの燃料に大量に伐られました。また食糧増産という目標のために、古老の忠告を聞かずに開墾して失敗。そのつけが今日の洪水を招いたり、砂漠(沙漠)の拡大を招いています。最近、やっと植林が始まりました。ODAという形で、私たちの税金も中国の森作りに注ぎ込まれています。中国は国を挙げて植林(封山育林)をしています。焼畑をやめさせ、その地域を緑に戻しています。お金が続く限りでしょうけど。しかし、森のない怖さを体験した時間が短いので、理解できているかは不明です。金の切れ目が縁の切れ目ということで、今の努力が無に帰す可能性だってあります。
なんでそうなったのか分からないですが、森と共に生きてきた私たちです。少なくとも、神社に行けば杜を見ますし、木材に囲まれて生活しています。森について、木について、目を向ければ、分からなかったことに気付くかも知れません。今は、逆に森が緑が近すぎてそのありがたみに気づかないのかもしれません
林学会で、偉い先生がいっていました。「木を使いましょう。その時は少なくとも炭素は固定されているから」地球温暖化防止のためにも、炭素を固定した木材を使えば、炭素はとどまっています。伐ったところには植林します。木の生長は炭素の吸収を意味します。温暖化の原因の一つCO2を空気中から削減するからです。もっと、もっと木を使ってください。出来れば国産材を・・・・・
木や森が金を生み出すと分かれば、木を植えますし、価値があれば残しますので。空気を作るとか、ダムとして水を蓄え、洪水を起きにくくするとかいう分かったような分からない話ではなく、植えて、伐ればこれだけ儲かるという目に見える価値、話です。だから、木をもっと使う方向であって欲しいのですが・・
結果的には、木を伐って使うことが木を植え、森に経済的価値を与えることが自然保護につながると信じています。
木を使ってください。作者からのささやかな願いです。 |
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