県木:モミジ Acer palmatum |
県花:モミジ Acer palmatum |
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市町村花見 | 杓子はホオノキ | 琴の福山 | ||||
山のフグ | 厳島神社の大鳥居を支えるアカマツ | |||||
ツゲでイカ釣り | ||||||
シンメイというドント | ||||||
広島県の山火事の原因 | ||||||
やっぱり禿げ山だった | ||||||
ヤナギin広島 | ||||||
西インドから長い道のり | ||||||
厳島のアカマツは放火の跡 塩と下駄 |
杓子はホオノキ 広島の応援団といえば杓子 杓子の産地として有名なのが安芸の宮島 1790年から1800年(寛政年間)に島に来た光明院の修行僧誓真が島民に教えたとか あの形は、弁財天様の持っている楽器。琵琶から来ているとか。それまではどんな形だったのでしょうかね 肝心の木はホオノキ(Magnolia hypoleuca)で、木の目なりに割って使います。そうすることによって香りが付かない、お米が付かない曲がらないという特徴があります ちなみに、宮島のしゃもじには、「敵を召し捕る」という意味があって日清戦争の時に全国から集まった兵隊が、広島の宇品港から出征する際に縁起を担いだのが、全国的に有名になったきっかけとか ちなみにこのシャモジ これにも権利が名付けてシャモジ権。これは火の管理する者の持つ権利だったとか。 火の管理=台所 ということで妻であり、母親の権利。飢饉になっても、少ない食べ物をよそおうのが母親。しかも公平に出来る立場 嫁と姑問題、シャモジ権がはっきりしていれば問題なとか?すなわち、台所の主導権がはっきりしていればいいとか。海外では焼いた肉を配るのは父親の仕事。シャモジ権は、フォークとナイフなんです。 |
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山のフグ 広島県の有名な食べ物は、カキ 海の牡蛎に山の柿 そしてフグ それも、魚のフグではなく山のフグ。通称山フグ 湯来温泉が有名。(全国の山間部で呼ばれているみたいです) その正体はコンニャクなんです。山フグはコンニャクの刺身なんです。歯ざわりと透き通るような白さがフグに似ているからフグと呼ばれるようになったとか ちなみに秋田県では山フグはナマズ料理。村おこしに使っているとか。 山鯨はイノシシと中国山地では呼んでいるとか |
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ツゲでイカ釣り イカを取る漁の中にイカかご漁(イカしば漁)という漁があります。直径90センチ、高さ30〜60センチほどの円柱の籠(竹製)にコウイカを呼び込むというか、産卵時期の習性を利用した方法なんです。 この円柱の籠の真ん中に木の枝を束ねてくくりつけて海底に沈めます。木の束を海草と見間違えるんです。良いところに産卵場所があると、籠に入るんです。も ちろん雌のイカです。籠の中に雌のイカ。すると雄のイカもナンパしようと籠の中に。一つの籠に2匹イカが入ることも。漁師は、それを引き上げて食卓へ。 籠と籠との間隔は、12〜15ひろ(18〜20m)です。籠の数は30〜60個。。 でこの木の枝がツゲ(Buxus microphylla var. japonica)かイヌツゲ(ヤマツゲ:Ilex crenata)で出来ているんです。産卵床なんです。ツゲの木は丈夫な木なので利用されているということでしょうかね。 注)地方によっては籠の入り口に木の束をくくりつけます。 |
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シンメイというドント 三原では、旧暦の1月14日(小正月)頃に、神明御山と呼ばれるタケを柱にした御山を作ります。 正月4日に作り始め、9間(約20m)もあるタケを芯にして、松や山草、藁を巻き付けるんです。 |
広島県の山火事の原因 (平成7年から13年)
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やっぱり禿げ山だった 広島と言えば、禿げ山のイメージ。広島だけで無く、瀬戸内海一帯のイメージ。明治42年の西条駅の様子 享保11年(1726年)に、この西条盆地にある正力村では、すでに、はげ山の記載(賀茂郡各村御山腰林帳)があったそうです。これでも、少しは緑が戻ってきたということなんでしょうね。 せっかく緑化したのに、今度はマツクイムシの被害が。 でも、他の樹種もあるので、考え方によっては、選手交代とも言えるかもしれません。 |
拡大すると
ヤナギin広島 薬効成分があり、細工物にも使われる柳ですが、場所によっていろいろな伝承があります。 ◎屋敷内に柳の木を、植えるのは縁起が悪いと忌み嫌っている。(場所不明) |
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西インドから長い道のり 広島レモンは、元々インド北東部のヒマラヤ出身。12世紀にアラビア人がスペインに持ち込み、十字軍が追い出した後に、ヨーロッパに広まり、明治時代に日本に来たものだそうです。 生口島が、国産レモン発祥地といわれています。 |
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厳島のアカマツは放火の跡 厳島神社の後ろに見えるアカマツの一斉林は、放火の跡。住民による放火の結果、枯損木を払い下げた跡に一斉林になったとのこと。 |
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塩と下駄 松永下駄という大衆用の下駄がありました(過去形)。普通は、下駄=桐=会津となるのですが、桐下駄は高級で、一般庶民にはなかなか手が届きません。桐は軽い木なので、負担が掛からないので、高いのです。でも、一般人向けの下駄がありました。それが、福山市松永地区で作られていた松永下駄です。 元々、松永地区は、本荘重政によって製塩業、入浜式製塩が万冶3年(1660年)が始まります。松永塩田と呼ばれ、福山藩の貴重な税源となります。製塩所の近くには、燃料の集積も不可欠です。このため、松永地区は、製塩だけでなく、製塩業の燃料集積地としても、江戸時代に発展します。あちこちから、塩を煮詰めるための燃料となる木材を集めることが重要でした。当時の瀬戸内海には、各藩がこぞって製塩業を行い、当時でいえば外貨獲得に動いていたため、めぼしい木材は海岸周辺には残っておらず、禿げ山だらけだったのです。 明治10年(1877年)に、下駄屋の丸山茂助が、燃料木を運んできた船が戻る際、空荷になっていることに目を付け、雑木で作った下駄を船に売りつけます。船主も空荷にするよりもマシと、帰りの船に下駄を積んでは運び、地元で売るを繰り返します。 松永地区では、高級下駄を作る必要は無かったので、安くすることが重要であり、分業制と機械化の導入でコスト削減を図ります。また、材料となる木は、燃料にならないスカスカの木ということで、山の人も使い用の無かった木です。 西日本原産のアブラギリ(Vernicia cordata)から始まり、やがて材料不足になれば、北海道のドロノキ(Populus suaveolens)、さらには、満州やサハリン、アメリカのコットンウッド(Populus deltoides)へと材料を求めるようになったとのこと。 なお、アブラギリなど早生樹は、燃料にするにはカロリーが弱く、使い勝手が悪かったため、燃料として使うには嫌われていたのです。しかし、燃料木として運ばれ(多分、かさ増用に混入)、目の前の木材はそこそこの大きさがある。この使えない木をどう活用するのから生まれたのが下駄だったという説もあります。 |