石川県    
  県木:アテ
Thujopsis dolabrata
県花:クロユリ
Fritillaria camschatcensis
 
杜(森)の話    
杜(森)の話
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  ユズリハで神さまに感謝       
  焼き畑するところにハンノキ      
  ウルシin石川      
  ブリ起こしとタケ      
  奥能登の生活リズム      
  木を伐らせろ。いや駄目だ
ハゲを縛る木
欲を出したばかりに
     
 
ユズリハで神様に感謝
ユズリハ(Daphniphyllum macropodum)は、12月9日の山祭の前後に、焼畑での収穫を感謝する「ナギカエシ」の儀式で、収穫された、アワ、キビ、ヒエの穂を入れた輪蔵(りんぞう)にユズリハの枝を3本さして神座に供えたそうです。

石川県小松市小原の話


 
焼き畑するところにハンノキ
白峰村の話
焼き畑に適した土地には、ハンノキが生えている所
焼き畑が出来なくなると、スギを植林するんですが、そこに、ハンノキがあると残すように努めたそうで

山を肥沃にするには、ハンノキの窒素固定の能力を利用しないといけないという山の人の知恵です。


ウルシin石川
輪島塗
11世紀の初め頃から始まったといわれており、アテ(アスナロ)、ケヤキ、カツラ、ホオノキを原木として、優美な沈金、蒔絵の技術は日本を代表する漆器です。

山中漆器
16世紀の終わりに始まったといわれています。
この地域に豊富な、ケヤキ、ミズメサクラ、トチノキ、マツを原木として利用。轆轤技術の高さで有名。


金沢漆器
17世紀前半に藩主が名工を招いたことが発端とか。美術工芸な漆器として有名です。貴族文化に武家文化が一緒になった金沢漆器は、別名「加賀蒔絵」ともいわれます。


ブリ起こしとタケ
寒ブリ漁の幕開けとなるブリ起こし。
11月下旬にカミナリと共に北西の季節風が家を襲います。

能登半島の海に面している家では、家を守るため、タケで編んだ垣根で風や飛び散る潮から守っているんです。

このタケで編んだ垣根を「間垣」と呼んでいます。

奥能登の生活リズム
奥能登の海岸沿いでは、田植えと稲刈りの間に製塩。冬は炭焼きというのが一般的な生活リズム

12月5日に、「あえのこと」という田の神様(何故か夫婦)に感謝するお祭りがあるんです。目の不自由な神様を丁寧に家主が声かけながら家に招いて、食事を提供したり、お風呂に入れたりして、越年。

食事の際には、家主自身が作った栗の箸を用意するのだそうです。多分、やりくり出来るようにという意味があるんでしょうね。

収穫に感謝するお祭りで、2月9日には、送り出すのだそうです。

木を伐らせろ。いや駄目だ
輪島市打越を流れる尾山用水は、樋ノ口山の水持林(水源林)を水源としている農業用水です。加賀藩が100万石を維持するため、新田開発を行います。密貿易も行いましたが、新田開発も不可欠でした。お金があっても食べるものがなければ困るからです。このため、新田開発とともに、あちこちに用水路が作られます。この尾山用水の水源林である樋ノ口山を利用したい=山の木を伐ろうとする惣領と、水持林を水源とする尾山用水で農業を行っている打越や明崎等の集落間で水争いが明治時代まで続きました。

樋ノ口山が水源林では無い惣領は、深見川から大江用水を引いていたため、尾山用水がどうなろうと知っちゃこっちゃ無かったのです。

寛保2年(1742年)から明治に至るまで、水争いが起きていたため=殺し合い、用水路ごとに地元の結束が固く、少しでもルールを破る物なら、細かい罰則に基づいて処分していたそうです。

この様に、自然を最大限虐める収奪をする中で、水不足(過剰な生産活動)も招いていたのです。食べ物か、水の確保かで揺れ動く中、食べ物の確保が優先されたのです。世界農業遺産でもある白米千枚田もその自然破壊の成果です。そこまで自然を破壊しないと、厳密には森林を破壊して、農地にしなければ加賀藩は維持出来なかったということです。


ハゲを縛る木
はげ山を縛るという意味で、ヤシャブシのこと。珠洲郡松波町秋吉周辺は、はげ山だらけ。そこでは、はげ山に、ヤシャブシ(Alnus firma)を植えることで、林地を回復していきました。

はげ山を縛ることで、ハゲシバという方言が生まれました。
場所によっては、ハゲシバリとも言うそうです。


欲を出したばかりに
過度な開発は駄目という事例。
慶長年間(1596〜1615年)に、現白山市の川内町下折では、焼き畑のために、村の上にあった森を伐ったため、春先に大雪崩が発生して、村を吹っ飛ばしたそうです。300名ほどの死者を出したとのこと。積雪6mの豪雪だったそうです。そのため、雪崩防雪林として、止林を作ります。2段防御と言うことで、上の止林、下の止林ができます。
 大正元年(1912年)に、下の止林を伐採してしまいます。300年近く被害が無かったからです。しかし、伐採から6年後、大正7年(1918年)1月に、数十年来の大雪となります。その結果、集落は雪崩に巻き込まれ、住民19名が犠牲になりました。その後は、水上谷に止山を設置し、禁伐としました。