鹿児島県
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Cinnamomum camphora
県木:カイコウズ
Erythrina crista-galli
県花:ミヤマキリシマ
Rhododendron kiusianum
杜(森)の話    
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薩摩半島南端開聞町川尻の船おろし
船霊ごめ
船が新たに出来ると、進水式を普通行います。
船と森の関係は、材料を山から木材を得るため密接です。最初に、山の神さんに感謝して、ついで海の神さまに祈るそうです。
船材を提供してくれた山の神に感謝し、これから活動する海に安全を祈願します。



山の神は開聞岳?
開聞神社(ひらきき)がすぐ近くにあり、ここには、玉手箱が。竜宮伝説(琉球)もあります。何か関連も?


 





数本の高木
実は数年前までこんな木ばかりだったのです。
松食い虫のせいで壊滅に

吹上浜の管理、大変です。

吹上浜の歴史
日本の砂丘の一つ
日本三大砂丘の一つとして有名な吹上浜

ここの歴史を紹介します。
個人的には、管理費をケチったことで、その後莫大な費用がかかるというのを証明してくれる貴重な森と思っています。

元禄元年
1688年
砂垣見回り、防砂垣の工事や植林を春秋の2回行い、砂場には馬を入れてはならず、植生を維持させてきた。
安政元年
1854年
藩主島津侯が吹上浜の災害を視察し、田布施を視察後、郡奉行を呼びだし災害対策を話し合う
1861年〜
1870年
宮内善左衛門が潟見回り役をかってでて木場三太郎外、数戸と塩屋堀潟に移住し私費300貫を投じ、荒廃地数十町歩を開墾。
砂防垣工事と併せて、砂丘にマツを植林。数年後に、マツを移植することに成功し、数百haが緑に。
1862年 藩命を受けた側御用人、中村新助が臨検、宮内善左衛門は、薩摩藩より内幣金を下賜され、藩費助成で植林が始まる。
明治4年
1871年
廃藩置県
藩から県に移っても助成金は続く
明治10年
1877年
西南の役
砂防移植の事業が中止され、荒廃が進みひどい状況になっていく
明治19年
1866年
再び県費の補助により砂防植栽事業が開始
明治24年
1891年
2月宮内善左衛門没(75歳)
明治26年
1893年
4月大林区署制発布によって鹿児島大林区署、鹿児島小林区署、知覧小林区署が設置される。
(大林区署制発布は明治19年)
明治30年
1897年
吹上浜一帯が農商務省に所管が移る。
飛砂防止及び潮害防備保安林となり鹿児島大林区署で管理する。総面積1800ha中クロマツ(Pinus thunbergii )の老齢木 700ha、地元村民・県で植栽の造林地 100ha砂地 1000ha
大正15年
1926年
阿多高橋村(現在のウトラ地区の民地)の寺尾庄兵衛外3名は農商務省より7年間無料貸渡、開墾成功の上、払い下げの指令を受け、同村内の原野約100町歩に多くの資金を投入
芝柵を構築、土砂を止め、植栽して風潮を防ぎ、開墾に努めた。
1899年〜
1933年
知覧小林区署及び鹿児島営林署
(大正13年12月営林局署官制公布)において906haの砂防事業を実行、完了する。
造林樹種
上木:クロマツ・リキダマツ(Pinus rigida)
下木:グミ(Elaeagnus spp)、ネムノキ(Albizia julibrissin )、ニセアカシア(Robinia pseudoacacia )ヤシャブシ(Alnus firma)・マテバシイ
(Lithocarpus edulis)・ナダルパーク(アカシアモリシマ:Acacia mollissima)

1945年〜
1963年
この間、さらに保安林事業としてマツを植林(58ha)
昭和28年
1953年
吹上浜が県立公園に指定
昭和32年
1957年
国有林の一部が県立公園特別地域に指定
平成に入ると松食い虫にやられる。 
マツの材線虫に強い木を植える 
鹿児島営林署の資料を参照

被害状況

年度 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年 11年 12年
被害量 2.4 3.0 4.9 11.0 8.0 14.4 6.1 1.4 0.2 0.06 0 0.01
指数 100 125 204 458 338 600 254 58 8 17 0 2
平成3年頃からマツノザイセン虫の被害が急激に拡大
吹上浜南部より中央部にかけてのマツは全滅

この浜は、悲しいことに、昭和53年(1978年)8月12日に市川修一さんと増元るみ子さんが、北朝鮮に拉致されたところです。一刻も早い帰国を願っています。


桜島の治山
観光を、桜島大根を影で支えている一つが治山。目に見えにくいところでコツコツ行っている事業です。まさに縁の下の力持ち

火山灰や溶岩、噴石がいつ土石流として襲うか分からない。それを未然に防ぐのが、砂防ダム。そしてそのまわりには、崩れるのを防ぐために植物の根でブロックしようと植林しています。

20ミリを越えると、土石流が発生するとのこと。命がけの作業をされています。


自然にとけ込むように、環境省の要請で、目立たないように治山ダムの表面に、岩のタイルを貼っています。

個人的には、アピールするために芸術家に、キャンパスとして提供したらいいのにと思うのですが、存在をアピールすることで、治山の意義を多くの人に知ってもらえると思うのですが

もう、縁の下の力持ちではなく、アピールした方がいいと思うのですけどね

ちなみに、この工事は通常の1割り増しになるそうです。たかだが景観のためだけなんですけどね




植物の種を吹き付けて緑化しています。
また、昔マツが植えられた跡もあります。

また、山の上の方は、火山ガスと植物の上への侵攻との闘いです。火山ガスに晒されながらも、植物は上へ上へ進むのです。




遊びで庭木に
道と家の境界

家と家の境界

防風垣
海岸に近い家では、イヌマキ(Podocarpus macrophyllus)が主流
台風に備えて、2階建てでも低いです。
山の灰は金の灰
江戸時代に書かれた農業法(汾陽四郎兵衛)によれば、田に入れる肥料の中で、人糞、馬糞、小便に草などを紹介されている中、堆肥に普通の灰を混ぜるのはもちろんのこと、山の灰を混ぜると、害虫が発生してもその田畑だけは、虫が付かないとのこと。山灰はぜひ作るべきと書かれていた。

農業書は、日置郡日吉町で書かれた本?農業指導書であります。汾陽(かわみなみ)四郎兵衛は1700年代の人らしいです。


西郷隆盛、森を消す、そして征韓へ
西南戦争
日本最期?の内戦
このとき、資金難になった反乱軍は、魚付き林を伐採して軍資金に変えたんです。あきらめが悪いというかバカ

結果は、世界の潮流に乗れなかった方が負け。西郷隆盛の死でもって終結。しかし、切ってしまった森は戻りません。漁をするにも魚がいない。

仕方がないので、鹿児島の漁師はサバを求めて朝鮮半島近くまで漁に出たとか

ある意味征韓論??
貧乏になった漁民は朝鮮の沖まで魚を捕りにいく羽目になったんです。まぁ、西郷丼が征韓論を唱えたというのは??なんですけどね。


ヤクスギの歴史
屋久島といえばヤクスギ。
ヤクスギは樹齢1000年以上のスギを指します。屋久島では天然のスギは標高600mから1800m付近で分布(屋久島は1935mの宮之浦岳が最高峰)。でヤクスギの多く分布スしているのは1000m前後なんです。

何故、そんな1000年以上の木が伐られなかったか
それは島民が屋久島の山々を霊山として崇め、そこにある屋久杉は、ご神木=伐れない。という関係だったそうです。しかし、17世紀になって財政難の薩摩藩が伐り始めたんだそうです。奥岳周辺の杉が最初だったとか。
屋久島出身の儒学者であった泊如竹(とまりじょちく:1570〜1655)の献策。貧しい(多分取り立てが厳しかったためか)島民の生活を良くしようと、年貢として、平木(油を含んでいるので防水加工済みの良い屋根材になるんです)を納めるようにしたんです。
屈原ではなく孟宗
5月5日は「子供の日」。ではなく端午節句。一緒ですね。この日は中国の偉大な政治家、屈原にあやかったお祭りなんです。屈原みたいな人になるようにと。

楚の国の政治家(前340頃〜前278頃)。世を憂いで、汨羅の川に入水自殺した屈原。

衆人皆酔い我独り醒む(楚辞)

入水自殺した屈原は、楚の国の国民にとっては有り難い政治家。だから魚に食べられないように、チマキを投げ込んだんです。だから、チマキを食べるんです。(関東は柏餅)。で、ここ鹿児島では、あくまきを食べるんです。

あくまきというのは、灰汁につけた餅米を孟宗竹(モウソウチク:Phyllostachys pubescens)の皮で包んで茹でたモノなんです。アルカリ性の灰汁は餅米を溶かし、琥珀色の餅になります。
非常によい食べ物ということで、薩摩藩の携帯食としても重宝されたとか。あと、田植えをする時の保存食という使われ方もあったんだとか。
悪を払うという意味もあるそうです。

ちなみに、孟宗竹は、孟宗という親孝行にかけて付けられた名前なんです。

余談ですが、入水した屈原を救おうと急いで駆けつけたことがきっかけで生まれたのが、ドラゴンボート。龍船のことです。

水防林in鹿児島
大隅半島の肝属川(志布志湾に流れ込む川)の支流である高山川両岸には、竹や木を植えて堤防を洪水時に崩壊・洗掘しないように、水防林を江戸時代に作成(?)。
シラス台地を流れる川なので、堤防も、通常の水+研磨剤が流れるため、削られてしまって、堤防決壊。被害甚大ということになるんです。

高山川の上流に一部竹林が残っているそうです。