京都府    
  府木:北山スギ
Cryptomeria japonica
府花:シダレザクラ
Prunus spachiana
 
杜(森)の話    
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  コルセット林業   濁ってはいけない。  
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  松風は兵糧から?      
  木簡から扇子      
  京の三職      
  急斜面の美
滅び行く京都の美
     
伏見稲荷神社のスギと占い
伏見の稲荷神社
山城国風土記によれば、秦伊侶具は、豊作に感謝して、モチに的にして、矢を放って見事命中。すると白鳥になって山の峰に飛んでいって何故か稲になってそうです。
イネがイナリになったそうですが、秦氏の子孫が、稲荷神社のスギを抜いては家に植えたそうです。
 
根が付けば、幸福を得、枯れれば、不幸になると信じて祈ったそうです。
このスギを験(しるし)のスギというそうです。
志るしのすぎともいいます。

500円と3000円で販売中







伏見稲荷大社
http://www.inari.jp/


 






北山杉資料館

場所:北区小野下ノ町101  電話075-406-2241
交通:JR「京都」駅よりJRバス「周山」行
   「北山グリーンガーデン前」バス停前



松文商店
http://www.hitoni-plus.jp



コルセット林業
京都市の北にある一大林業地、北山林業
床柱のためにプラスチックを当てて木に凹凸を付けています。キタヤマスギは、床の間にあるただ見せるだけの柱。しかし、その生産にかける情熱は、こんな林業を生み出すとは。

遺伝的に、凸凹のあるスギの木は、台杉といって、ぼう芽更新を行いながら、何本も収穫します。樹齢数百年の木もあるそうで
 
そうした凹凸のある木は、植えて30年後に切ります。だいたい1haに4千本(?)も植えて、一度も間伐しません。そして、切った木は、皮を剥いだ後、山の砂で磨くのです。山の砂は、手を荒らさないそうですが、床柱1本にも沢山の手が掛かっているんです。
 
ちなみに、この北山林業は、応永年間(1394〜1427年)頃から始まったとか。室町時代の茶の湯の流行で、茶室の建築に用いられるようになって、木材 生産基地としての基盤を作りました。天正年間に仙洞御所の茶室に用いられてからは、朝廷御用達になって名声を確立したんです。

北山杉には台杉と丸太仕立て。
台杉は1本の親杉から何本もの垂木をとるモノ。一方の丸太仕立ては、一代限りで。床柱に仕立てられるんです。造林技術を園芸林業と言われています。


嵐山の風情が・・・・
京都の観光地の一つ 嵐山。ここのマツが枯れ初めて大問題。京都に都が出来て以来、変わらない松林の風景。しかし、そのマツが枯れてサクラやカエデが出現中とか。

理由は、人が森で落ち葉かきをしなくなって、土が良くなってきたから。マツ以外の植物も生育できる条件が整ってきたとか。やっと、山の地力が回復したということでしょう。


ウルシin京都
京漆器
平安時代初期に始まり、唐の技法を基にして、独自の技法を確立。茶道の発展と共に、光悦といった名工も生み出しました。

洗練された高度な技術をもち、多様な技法を用いて高水準の漆器を作っています。


盗んでもOK
芋名月こと、中秋の名月
古来の風習の生き残りでもあり、里芋に感謝

このときだけで、他人の畑から盗んでも良いと。ただし、畔から、片足が入るところまで。また、子供たちが細長い竹棒の先に釘をつけ団子や、芋を盗んで歩いてもOKだったとか。(ただし教育上?良くないと言うことでつぶされたとか)

このお芋様への感謝は、北野天満宮の瑞饋祭(ずいきまつり)が有名です。ズイキとは里芋の茎。このズイキで御輿を葺くからという理由だそうです。里芋は焼畑(今は廃れたけど)の農作物だったんです。盗んでいいというのは、昔の共同体の名残かも













北野天満宮
http://www.kitanotenmangu.or.jp/
星の民俗館
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/starlore/
松風は兵糧から?
和菓子で有名な松風。
織田信長と石山本願寺との戦いで、兵糧不足から松の皮を食べた本願寺側。戦の後、その松の皮を食べたのを思い出して作ったのが松風とか?

宗教キチガイ集団のトップであった顕如は、それを懐かしく思い詠んだ詩「わすれては 波のおとかと おもうなり 枕に近き 庭の松風」から命名したとか。


木簡から扇子
団扇は、古代エジプトや中国など、文明の発祥地で誕生していました。しかも、自分で扇ぐタイプではありません。扇いでもらうのです。
平安時代に、木簡を束ねては扇いでいた人がいたそうです。誰も扇いでくれないので、自分で扇ぐしか無いということ。

なお、分かっている範囲での、最古の扇子は、檜扇(ひおうぎ)というヒノキ(Chamaecyparis obtusa)で作られたもので、、元慶元年(877年)のもの。当時の千手観音様が持っていたそうです。

能で有名な「敦盛」の奥方である玉織姫が、菩提を弔うために出家し、お寺で扇子を作成していたとのこと。その扇子は、「阿古女扇(あこめおうぎ)」と呼ばれていたそうです。嵯峨天皇が病気の時、住職が念を入れて送ったところ、病気が回復し、そこから一躍扇子が有名になったとのこと。この出来事が、京扇子の始まりと言われているそうです。天長年間(824〜833年)になるそうです。

ただ、平安時代は、まだまだ紙や木片は貴重な時代であったこともあり、一般の人が使えるものではなかったそうです。
僧侶か貴族だけのもの。

その後、鎌倉時代に、扇子は中国に輸出され、唐扇として、逆に日本に戻ってきます。片面が紙だった日本の扇子は、唐扇の影響で、両面に紙が貼られるようになりました。


京の三職
江戸時代に、江戸が栄える中、京都においては、都の意地もあり、伝統産業が振興されます。その中でも、冠、烏帽子、扇子が朝廷の保護の元、盛んに作られます。
そして、一般の人にも渡るようになりました。

材料となるタケは、琵琶湖近くの安曇川の水防林から調達です。

扇子は、87手を介して作られるそうです。それだけ多くの職人がいた京都であったからこそ、分業によって大量生産が出来たのです。


急斜面の美

享和元年(1801年)の天竜寺からの入札図書には、嵐山でお茶屋を出す業者は、空いた空間に2、3本の桜を植えることが義務づけられていたんです。





東山魁夷 冬の花



滅び行く京都の美

東山魁夷の「冬の花」という絵画に描かれた滅び行くよう京都の美。川端康成が、今ある貴重な風景を記録として残すように進言したとのこと。

滅び行く美とは、北山杉のこと。北山杉は、台杉として利用されているのですが、とがっておらず、丸っこいのが特徴。



赤く囲んでいるのが、丸っこい杉です。これが失いつつある京都の美のこと。
川端康成が薬中で倒れて入院しているところに、持ち込んだ作品です。お見舞いの絵です。