永遠へのあこがれ 人間避けて通ることが出来ない死。そしてその死を表すのがお墓。ここは山西省の黄土高原の中。
墓標の代わりに木を植えています。
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マツが花を付けないわけ マツの雄花、雌花はあまり目立ちません。しかしかつては白い花だったそうです。 そんな白い花がなぜつかなくなったのか。
それは、黒竜江省に伝わる伝説からヒントがあります。
蓮
花湖というそれは美しい蓮の花が咲き乱れる湖が、黒竜江省にありました。いつの頃からか、小白竜という獰猛な水中怪獣が住み着いたのです。(今でも時々出
現するらしい:イトウの巨大魚?:宇宙からの生き物?:パイク、黑斑狗魚?)もちろん蓮の花は枯れ、魚や海など湖の生き物は食い散らかされたんです。
日本海(黄海?)を治めていた竜王は、これは一大事と大黒竜を使いに出し、小白竜を戒めようとしました。しかし大黒竜が捕まえようと湖に潜ると、真っ黒に濁ってしまい2年かかっても捕まえることが出来なかったんです。
2
年目の夏、松の花が一斉に咲いたのです。しかも白い花。その花びらが湖面に落ちると、あら不思議。それまで濁っていた水が、澄んでしまったのです。こうな
ると、大黒竜の目に留まり、懲らしめたのです。大黒竜は、その後、何を思ったのか、バラバラに置かれていた山河を並べ替えたんです。結果的には3本の川が
誕生します。それが、黒竜江、ウスリー江、松花江なんです。それまで、白い花を咲かせていた松の木が、それ以降花をつけなくなったんです。そして今に至っ
ています。
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木の鳶(とんび) 木で出来たトンビ(鳥)。 これは立派な兵器なのです。今で言う偵察機?、爆撃機?に相当する物。今の言葉で凧。
春秋戦国時代(紀元前770年から470年)には戦場で使われていたそうです。また四面楚歌の舞台でも活躍したとか。韓信は、牛の皮を使って作った凧に3人の笛吹を乗せて包囲網を築き、楚の曲を合奏させ、項羽を倒したそうです。
漢の時代に製紙技術か開発されてからは、紙の凧になったそうです。
風箒(中国語で凧)と呼ばれる様になったのは、五代(10世紀頃)のこ路、宮廷にいた人が凧にタケの笛をつけて遊んだことが起源らしいです。
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仏像の素材 河南省の開封(カイファン)にある相国寺の八角堂にある「千手千眼観音菩薩」(乾隆年間 )は、銀杏の大木を使用。
相国寺は南北朝時代の555年に創建。当時は建国寺と呼ばれ、唐の時代712年に改称。弘法大師が訪れたことのあるお寺でもあります。
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中国の玉露と水 中国のお茶の一つ緑茶。世間一般で飲まれるお茶がこのお茶で8割を占めるとか。
浙江省の杭州(ハンチョウ)の西湖の西南に位置する龍井産の「龍井茶」。上等な物は日本の玉露に似ているとか。上海の人がわざわざ買いに来ると言うくらいのお茶だそうです。 そのお茶を最高な状態で飲むには、虎ホウ泉(ホウは足+包)の水とのこと。この泉は、唐の時代に創建された大慈山定慧寺の境内にあります。
この泉は中国3大泉の一つだそうです。
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Made In Japan 日本製としてメイドインジャパンは、良い意味で使われていますが、昭和初期は不良品が多くて良い意味ではありませんでした。そこには、先人の努力のおかげで先進国に入ったんです。
でも、昔もあったんです。高級品のメイドインジャパンが。それは、乾物。アワビに、ナマコ、貝柱、スルメなどの海産物と一緒に干しシイタケ。
曹洞宗の開祖、道元和尚(正治2年~建長5年:1200年から1253年)が留学のために中国。貞応2年(1223年)に宋(明州慶元府、今の中国浙江省寧波)に渡ったんです。その時、中国の港に着いた時、一人の老人が道元に寄ってきて一言「干しシイタケが欲しい」と。
当時から日本の輸出品でもあったそうで、乾物は最高品だったそうです。
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達磨大師から生まれた木 日本でもなじみのある有名なお坊さん。 達磨大師が修行の時に睡魔に襲われた時のことでした。このままではいかんと、自分のまぶたを切り落として捨てたんだそうです。
そこから生えてきたのが、お茶の木だったそうです。
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燃える山?
北京にある景山公園。故宮の神武門の真北にある山です。92mの高さがあるそうです。
景山と呼ばれるその山には、別名もあって、煤山、万歳山、青山ともいわれます。なぜ、煤山と呼ばれるか。それは、石炭があるからというのが理由。実は、人工の山なんです。今でいう石油備蓄基地みたいなもの。
元のフビライがいざというときに備えて作らせたそうです。(本当は不明)。風水に従って、近くに作った池(湖)の残土で作ったという説もあり。まぁ、故宮を一望できるという点では、後の観光客のためにいいものを作ってくれたものです。
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お茶を守る
中国茶の中でも有名な龍井茶(ロンジンチャ)。お茶の保存は、湿気との戦い。いかに湿気から茶葉を守るか。
杭州の茶の製造者達は、瓶の下に石灰を入れて、お茶そのものは紙に包むんだそうです。石灰は時々取り替えます。
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海軍の練習用だった沈まない石船。
これが海軍の強化のために造られた施設。
日本もなめられたものです。
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シシャモ?(柳の葉)にビビッた西太后
中国の没落と日本の繁栄。そのターニングポイントになったのが明治27年(1894年)の日清戦争。
貧国日本が強国清に勝てたのは、軍事力を象徴とする産業の強化だったんです。特に、黄海海戦をはじめとする海軍の増強が日本を戦勝に導き、アジアの中心から中国を引きずりおろす決定打になったんです。
そして、そんな清国にしたのが、西太后(第二夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)の我が儘な政治だったんです。頣和園(いわえん:summer place)と呼ばれる北京郊外にある避暑地を海軍のお金を使って(流用して)整備したからなんです。
西太后は、その政敵に対する残虐な仕打ちで有名であったんですが、そんな西太后も怖いものがあったんです。
この頣和園の海軍のための練習所(名目上)の近くに架かる橋に獅子像があるんですが、これは、西太后が月見の時に、水面に映ったエビの大群を見て橋を渡る
ことが出来ず、エビよけに4体の獅子像を置くように命じたからなんです。で、そのエビというのが、川面に映った柳だったんです。
ここにライオンではなく獅子像が、エビ(柳の葉)対策に作られたものです。橋の左手奥に石船が見えています。
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