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荒川堤の桜
 江北村事今の足立区江北では、荒川(今の隅田川)の堤防の改修工事を明治18年(1885年)に行うことになるのですが、この改修工事の際、村人が桜を植えたいという要望を出したのです。
 理由は、夏の日陰がほしい事。強い堤防になってほしい事。洪水時に船を繋げる杭になるモノがほしい事。この様なニーズに応えたのが、里桜だったのです。
 里桜を選んだ理由は、根株が広がり、堤防の固定強化に役立つこと、木が余り大きくならないので、風で倒れてるリスクが少なく、風倒があっても、堤防を破壊しにくいことで採用されました。
 要望を出した翌年には、植林されました。



 
五色桜の由来
 荒川堤の桜並木は、五色桜と呼ばれます。濃紅色、紅色、淡紅色、黄色、白と様々な色が霞のように見えたのを、新聞記者が呼んだからだとか。
 せっかく桜を植えるのだから、紫桜、白妙、鬱金、関山、墨染等を植えたんです。咲く時期も違い、色も違う事を楽しんだのです。記録に寄れば、78品種3,000本の里桜を植えたそうです。



海を渡った里桜、また海を渡る
 荒川堤の里桜は、明治45年(1,912年)に、ポトマック河畔に日米親善のため、海を渡ります。
 ワシントンDCでの桜祭りは有名で、毎年花を咲かせています。その一方で、送り出した荒川堤では、自動車の排ガス、工場からの有害物質などで、無残な姿になってしまうのです。
 その惨状を回復するにも、多種多様な里桜を集めるのは容易ではなく、昭和27年(1952年)に東京都と足立区がお願いして、アメリカに根付いた桜の苗木を贈ってもらうのです。
 そして、再植林。

品種名 明治時代 荒川→米国 米国→荒川
天の川 存在 里帰り
アメリカ
Akebono
移住
嵐山  存在 − 
一葉 存在 渡米
糸括 存在
鬱金 存在 里帰り
薄墨 存在
江戸 存在 里帰り
江戸彼岸 存在
大島桜 存在
大山桜 −  − 
寒桜 存在
関山 存在  渡米 里帰り
寒緋桜 存在
御衣黄 存在  渡米 里帰り
江北匂 存在 
苔清水 存在 
御座の間匂 存在 
枝垂れ桜
十月桜 存在 里帰り
朱雀 存在
松月 存在 里帰り
白妙 存在 里帰り
駿河台匂 存在 渡米
千里香 存在 里帰り
染井吉野 存在  渡米 里帰り
泰山府君 存在
太白 存在 英国から
手弱女 存在 里帰り
高砂 存在
手毬 存在
日暮 存在 里帰り
鵯桜
福禄寿 存在 渡米
普賢象 存在 渡米 里帰り
冬桜
紅豊
弁殿 存在
北斎 里帰り
細川匂 存在
マノガ 里帰り
御車返し 存在 渡米
八重紅大島
八重紅枝垂
八重紫桜 存在
山桜
楊貴妃 存在
早生都 里帰り
ワビヒト −  −  里帰り 
都市農業公園「荒川堤の五色桜について」より


梅ヶ丘or埋ヶ丘
東京で有名な梅園のある梅ヶ丘。その名の由来は、駅を誘致した人の家紋が、梅鉢だったので、梅ヶ丘になった説。
古墳にちなんで埋ヶ丘が転じて、梅ヶ丘になった説。
元々は、北沢窪という地名だったので、埋めてつくった丘といことで、梅ヶ丘になったのだと思います。大坂の梅田が、埋め田から来ているのと同じかも。ということで、液状化の恐れありで、住まない方が良い場所かも

羽根木公園に梅林があります。紅梅270本、白梅380本の650本が咲き乱れるとのこと。

世田谷梅祭り
http://setagaya-umematsuri.com/

船乗りのための神田明神
今は、海から神田明神を見ることが出来ませんが、埋めても一部で、高層ビルのなかった江戸時代は、神田明神の大きなイチョウの木が、船乗りのためのサインだったんです。

海抜20m高台に位置し、遠くから見付けることが出来たそうで、房総半島を横目に、江戸を目指した船乗りからは、神田明神の大銀杏を目指して船を進めたそうです。



伊豆大島の家は熊野産木材
 江戸時代の話ですが、伊豆大島の家は、三重・和歌山産の熊野材で出来ていたんです。
理由は、大雨で山が崩れたり、増水して丸太が流され、その後、黒潮に乗って流れ着いたから。

 通常は、熊野林業で生まれた木材は、筏師によって、新宮の川原で伐出業者や問屋、山持ちの木主に渡されるのです。でも、増水の結果、流木とか、流難材と呼ばれる人の手から逃げていくのです。

 江戸時代は、勝手に処分することは許されておらず、村役人に届けて処分していました。明治時代は、地元の材木業者、昭和に入ると木材協同組合や、地元の流木防止協会が対応したとのこと。川の湾局部に、富士蔓と丸太を長く繋いで、材木を留めていたそうです。その後は、ワイヤーロープになるのですが。

 丸太には、刻印が打っているので、そこで確認していたのです。しかし、海に流れた丸太は回収できずに流れるのですが、木主の名を受けた担当者は、刻印を持って伊豆大島に渡ります。

 海岸に流れ着いた丸太にある刻印を確認して、現場で売却していたのです。経費はかかるので、利益は通常の3〜5割ほどだったそうです。

 流木を拾って家を建てていたんです。もちろん、お金を払ってです。もちろん、刻印のないのは、持ち主が証明できないので、無料で使うことにはなるんですけど。

木でも耐えられません
文化4年(1807年)8月19日に起きた悲劇は、江戸深川の富岡八幡宮で行われる祭礼日に、江戸っ子が大集合。なんせ、12年ぶりとのこと。

この時、永代橋が、群集の重みに耐えられず、崩落事故を起こしたのです。死者、行方不明者が1400人を超えた大惨事だったのです。

満潮時に水面から3m以上もあり、長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)の大きさ。当時においては最大級の木造構造物の木橋だったのです。1200m2に、1400人以上と言うことで、満員電車並みの混雑だったと思います。