東京都    
  都木:イチョウ
Ginkgo biloba
都花:ソメイヨシノ
Prunus × yedoensis
 
森を作った人・守った人    
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  本多静六       
  尾崎行雄      
  成島柳北&大倉喜八郎      
  徳川吉宗&松下専助      
  川崎平右衛門      
 
本多静六
多摩川上流の水源地が荒廃していたので、その保護をしに訴えた人。お金がないとの理由で見送られるが、8200町歩の御料林を払い下げてもらい、その経営を一手に引き受けた人。
最終的には、尾崎行雄が東京市長になっていくのですが、この人なしでは、今の東京はどうなっていたんでしょうか?

ちなみにこの方は、日比谷公園、明治神宮、大宮公園を作った人で、日比谷公園の「首かけイチョウ」は、道の拡張工事でイチョウを切る切らないと大もめ、切って薪にしてやるという役人に対し、移植してやると買い言葉

この首をかけて、移植したんです。
約450mを25日かけて、レールを使って移動させ、意地でイチョウの大木を移植した人でもあります。






日比谷公園の首かけ銀杏(松本楼の横)
 
尾崎行雄
いわずと知れた東京市長、そして憲政の神さまと呼ばれています。
1903年に東京市長(今の知事)に就任。その時の、桜の苗木三千本を東京市からワシントンに贈った話は有名です。

そんな彼が、多摩川の水源地である上流(山梨県)の森を買い取ったのです。(正確には、山梨県の土地に東京都が土地を管理しているということ)。江戸時代は、江戸の水需要を守るため、お留め山として、伐採を禁止し、人の命より木の命を重要視する政策を採っていました。木を切れば即首が飛ぶという厳しいものでした。

しかし、明治維新で、その締め付けがとれたのか、急速な経済の変動で、貧しい人が山で生活の糧を求めたのか、開墾や、焼き畑によって山が荒れ、多摩川の上流部は草原化としてしまったのです。結果は、洪水、濁水、水不足と良いこと無し。そんな中、市長になった尾崎行雄は、「水源地経営方針」を打ち出し、土地を確保して、都民のための水源を確保したのです。しかも、自らの足で現場を見回ったそうです。
すごいの一言

裏を返せば、山梨県人を信用していなかったのでしょうか?今は、東京都水道局が管理しています。管理している6割が山梨県の土地だとか。(うる覚えでごめんなさい)
 

国際河川を巡る水資源の争いをしているエジプトとエチオピア(ナイル川)、イラクとトルコ(チグリス・ユーフラテス川)の他、水源地を確保するためにゴラン高原を占拠しているイスラエルの政治家に見習って欲しいです。
水が必要だったら、土地を買えと作者はいいたいです。





関連のHPはこちらです。

 東京都水道局
 尾崎行雄記念財団

多摩川については、京浜工事事務所の多摩川を参照してください。
ここの多摩川誌は一読の価値ありと思います。


大正11年(1922年)の甲州市塩山笠取山の様子。

水道局の植えた場所です。大正9年(1920年)

昭和30年(1955年)頃の様子
参考写真:よみがえる国土 ―写真で見る治山事業100年の歩み―
成島柳北&大倉喜八郎
隅田川の桜並木の基礎を作った風流人。もともと、徳川吉宗の、向島堤に桜を植えたのが始まりだとか。

明治16年に隅田堤に1000本桜を植えたんだそうです。

成島柳北(なるしまりゅうほく:天保8年〜明治17年(1837年〜1884年)は、明治期の代表的な新聞の一つ「朝野新聞」の社長で、向島に居を構えて、当時有名な風流人。


徳川吉宗&松下専助
飛鳥山、隅田川、品川の御殿山、中野といった江戸城を中心とした周辺部に計画された公園。今では花の名所であるところが結構あります。
これらは吉宗公による公園政策。江戸市民の憩いの場の提供だったんです。
小納戸役の松下専助(葛飾区の浄光寺(木下川薬師)にお墓があります。)に吹上御苑にて桜や楓の苗木作りを命じたんです。その苗木を飛鳥山や隅田川(墨田堤)に植林。飛鳥山は亨保5年(1720年)から植え始め。桜1270本、楓100本、松100本の植林。桜の名所は、飛鳥山、墨田堤、御殿山。中野は桃園。
中野村への植樹は元文元年(1736年)〜3年にかけて行われ、緋桃50本、そばに白桃を元年。3年後には750本の紅白の桃園になるんです。

それから、公園内に近郊の農民に茶店を出させるんです。花より団子の江戸っ子のためにというより村おこし政策です。

都市近郊の公園開発。近郊農民の所得アップ。
エコツーリズムの原型?かも


江戸名所道戯尽 五 飛鳥山の花見
広重

飛鳥山の花見風景
川崎平右衛門
船津静作