石川県  
  県木:アテ
Thujopsis dolabrata
県花:クロユリ
Fritillaria camschatcensis
 
森を作った人・守った人    
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  小塚藤十郎       
  泉兵右衛門      
  谷光五助      
  権十郎親子      
  岡部七左衛門      
  銭屋五兵衛      
  松田権六      
         
         
砂丘に植林した人は、沢山いたんです。
小塚藤十郎
大聖寺藩によって18世紀に海岸の砂丘の拡大を防ぐために、マツの植林を行ってきましたが、マツの生長速度を超え砂丘の形成が、ことごとく植林を失敗させてきました。

植林方法(技術)の開発無くしては、この植林、防風、防砂林の成功はあり得ないと、大聖寺藩は、一人の男に大役を与えました。

それが、植物方奉行の小塚藤十郎です。

その技術の完成は、1766年のことだそうです。
命じられてから、約40年かかったとか

大聖寺川の河口東側にある松林(約4キロ、幅500〜1000m)を今に残しています。

大聖寺藩は、明治維新までこの松林を大切に維持管理し、その後、国の事業として今も海岸の保全に役立っています。

 
輪島塗の影にこの人が
泉兵右衛門
天正12年(1584年)奥州旅行にアテの苗木を持ち帰って、庭に植えたそうです。

これが、加賀藩のアテの母樹となり、漆器の木地として輪島塗をはじめとする加賀藩の貴重な収入源となるアテの人工造林の始まりのお話でした。

谷光五助
宝達山(ほうだつさん:標高637m)は、石川県中部にある山。入会地であったが、明治時代に荒れた(?)せいで、天井川ができるほど、洪水の多発地帯に。

明治24年(1891年)の大洪水で氾濫して下流の田畑が土砂で埋没したことがきっかけで、明治30年(1897年)以降、樹木の伐採が禁止された。

その山に植林したらしい。

ちなみに、昔は宝達山で金がとれていたとか


権十郎親子
河北潟を植林した農民の親子
この植林は、1652年に始まり今に続いていること。黒松、ネム、アカシアを植林したんです。

あまり資料が無くてすみません

岡部七左衛門
1766年から1924年まで羽昨の砂丘に植林した最初の人です。マツ、ハマグミ、ネム、アカシアを使用したそうです。藩の命令で植林したんでしょう(多分)

あまり資料が無くてすみません

銭屋五兵衛
安永2年(1773年)宮腰町上越前町に生まれた豪商
加賀藩のご用金を用意したり、密貿易(??)したりと、江戸時代を代表する商人の一人
天保の大飢饉の時、藩の財政も苦しくなり、それを打開するため藩政をの中心人物、奥村栄実に起用され、藩の財政建てなおしに貢献しました。

投資とはこういうことかと思うのですが、地元の農業の発展にも力をつくしました。
宮腰から粟崎一帯の砂丘にマツを植えさせて、農地を保護しました。

120キロにわたり、植林し、石川県の森林の2割以上を植えたとか

最期は、奥村栄実が亡くなった後、反対勢力に消されてしまうのですが、嘉永5年(1852年)11月21日獄中で無念のまま、80年の生涯を閉じたのです。

晩年、精力を傾けた河北潟干拓事業という新田開発にかける情熱は、昭和になって実を結んだそうです。

ウルシの評価を高めた明治の偉人で漆聖と呼ばれた人
松田権六
ウルシ=japan
明治政府の誕生は、江戸時代の終焉
それは、武士社会を支えていた技術者にとっても、仕事を失うと言うより技術の継承が終わるという意味で、伝統が消失するところだったんです。

そこを救った人の一人が、松田権六
国会議事堂に、漆を使わなくしてjapanとはいえんやろと、漆を使った装飾をしたんです。

漆の普及には、いろいろ武勇伝があるんです。一つが、パイロットの万年筆(並木製作所の頃)というより、ダンヒルの万年筆の蒔絵ヴァージョンを造ったりし て有名。この蒔絵の万年筆が、1930年(昭和5年)のロンドンで行われた海軍軍縮条約の調印式で、各国の全県代表者の署名に使われたとか。
また、1928年(昭和3)には、ヨーロッパ行きの豪華貨客船新造を計画しているところに、アポも取らずに乗り込んで、「船の内装にぜひ蒔絵を使って欲しい」と直訴したとか。

こういった人がいなければ、漆産業は廃れたかもしれませんし、漆の木も姿を消したかもしれません。