県木:ケヤキ Zelkova serrata |
県花:ネモトシャクナゲ Rhododendron brachycarpum var.nemotoanum |
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種まきサクラ | ほれほれチンチン | 市町村花見 | ||||
姥捨て山 | 江戸時代の建物に遭う場所 | |||||
千匹万匹千匹万匹 | 新築物件に鶴亀 | |||||
オオカミ信仰 | 山賊退治はお殿様お願い | |||||
シダミ餅 | 金の木(きんのき) | |||||
木幡山の儀式 | ||||||
ウルシin福島 | ||||||
境界の松林 | ||||||
屋敷林in福島 | ||||||
伐るブナは200年以上 | ||||||
ほれほれチンチン 山の神は女神の化身といわれています。山は生み出すところ。南会津郡下郷町白岩の場合は、ライ病にかかった若い気だての良い娘が、みるみるうちに顔が壊れ ていくので、両親が山に捨てたんだそうです。しばらくは岩穴にすんでいたそうですが、いつしか姿が消えて山の神になったそうです。 山で物がなくなった時、山の神にお願いするんです。なくした物が見つかりますようにと。で、どうするかといえば、山の神が喜ぶように前を開けてチンチンを見せるんだそうです。そうすると女性である山の神は喜んで、一生懸命探してくれるんだそうです。 また、お正月に1年の山仕事の無事を祈願する時も、山の神に喜んでもらうためにチンチンを振りふりするんだそうです。 この山の入りに昆布と尾頭付きの小魚、小さく切った餅をつけた注連縄(ヤマイリという)を集落から山の入り口に当たる三辻(山と里の境界)にある木に掛けるんだそうです。 |
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江戸時代の建物に遭う場所 江戸時代にタイムスリップするには、大内宿に行くしかありません。もともとは、下野街道の宿場町として、江戸時代初期は参勤交代の大名の休息地だったところです。しかし、街道が他の方に移るなどして一時は廃れるのですが、享保8年(1723年)に再び復活。 しかし、天和3年(1683年)の日光地震による途中の街道の土砂災害や、明治時代に建設された鉄道等の影響により、街道として栄えることは無くなります。交通の要所では無くなったため、今にタイムスリップしたとも言える場所です。まぁ、紆余曲折があったものの、よく保存していただいていると感心する次第です。 本陣と脇本陣以外の一般家屋は、屋敷地95坪(314m2)で、家屋の建坪40坪(132m2)と規定されています。 同じ間口で奥に細長い形になっているのが特徴です。 なお、明治11年(1878年)にイザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊したそうです。 |
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新築物件に鶴亀 「山だし」とは、家を建てるための用材を山から切り出す行為のことです。山で、柱にする木や梁にする木を選んでは伐採し、その場で「木取り」を行います。木取り後に、地鎮祭を行い、土台を固める「どうつき」。たてまえ、棟上げと作業を進めます。 最初の柱は、「乾の柱」といい、家の北西の角から立てるのです。柱を立てた後、桁、梁を渡して棟木を上げます。これが「棟上げの儀式」です。 この棟上げ式で、桑折町では、棟木の下の束柱の下に、板を渡すのですが、この板に鶴亀の絵を描くのです。また、1間あまりの矢竹(1.8mぐらい)に角材を打ち付け、青竹に縄を張って矢羽根を作り、束柱に縛り付けます。矢羽根の元には、三本の白い扇を広げて、日輪(太陽)に見立てるのだそうです。 ちなみに、矢の方向は、家を建てた年の丑寅の方角に向かって立てることが重要です。 そして、横緒を切った藁草履に、麻糸、鏡、櫛、紅、白粉の化粧道具と、機織りの筬の女性の仕事道具、その家の主婦の髪の毛を水引で来るんで、中央に縛り付けるのです。 これで家内安全というわけでは無く、五色の吹き流しを立てて、祭壇を設け、108コのまき餅と紙に包んだ銅銭、御神酒をお供えします。これらは、式の後に蒔きます。幸せを分け合うという行為です。 開示が怖いところでは、この祭壇に木製の男根を火伏せと称して祭ります。 |
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山賊退治はお殿様お願い 猪苗代町には、昔々も木地師がいたのですが、山賊に悩まされています。文明年間(1469〜1487年頃)鋸とですが、木地師は、自力で退治することが出来なかったので、会津黒川城主の蘆名氏に、討伐の陳情をしていたと、檜原軍記に、記載されていたとのことです。 |
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金の木(きんのき) 会津地方では、桐のことを、「きんのき」と予備、桐畑には、むやみやたらに入ってはいけないという忌み嫌う風習があったそうです。会津の只見川や阿賀川流域は、女の子が生まれると、桐を植えるという風習があり、桐箪笥にして送り出すということもありましたが、婚礼の費用捻出のための換金作物として、重要な物だったのです。だから、「きんのき」。 また、会津藩は、藩の収入源としても桐栽培を積極的に薦めます。慶安2年(1649年)には、会津藩の「要七木」の一つに指定します。しかし、産業造林へは難しかったようで、天保13年(1842年)に、西会津町(耶麻郡笹川村)の蓮沼重左衛門に命じて、実生からの苗作りを試みさせるのですが、失敗に終わります。 しかし、幕末から明治には三島町(滝谷組西方村)の小松中正と、佐久間忠吉が考案したと言われる分根法育苗が、成功して、会津桐の基礎を作ったそうです。 |
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弘法大師の17日間 弘法大師が、塩がなくて困っている老婆を見て、 元々海だった日本列島の |
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