愛媛県    
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    クロマツ(Pinus thunbergii)
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Citrus unshiu
 
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屋根付き木橋


(田丸橋・弓削神社の太鼓橋)
 
京都高雄の伊呂波紅葉
大洲市の紅葉の名所、稲荷山公園の伊呂波紅葉は、初代伊予新谷藩の初代藩主加藤直泰(元和元年(1615年)-天和2年1月5日(1682年2月12日))が、江戸からの帰国の際に、立ち寄った京都での紅葉を見て、感動したんです。
そこで、楓の苗を持ち帰り、稲荷山に植栽。
今では3000本を超える楓やモミジがあり、県内有数の紅葉の名所として有名です。

このため、200年を超える伊呂波紅葉があります。

部落有林の割合
藩政時代は、藩有林、農用入会林、私有林に分けていたが、明治6年(1873年)官民有区分では、藩有林は官有林=国有林も。農民が集団的・総有的に占有利用していた農用入会林は、村落共同体が管理する公有林になった。

明治23年(1890年)に町村制が実施されると、農用入会林=公有林は、一部が町村有林になります。大部分は、部落意識を維持すると言うことで、入会採草地として、薪炭材の採取地として、部落有林野として、整理します。
部落有林野は、その後市町村有林、財産区有林、事務組合有林と管理する対象が異なった森林になっていくのでした。
なお。部落有林が多く分布する地域は、肥草用の採草地として。林よりは林野として利用されていたため、水田の多い地域に広く分布していたのです。
 水田で働く牛の餌場が必要だったからです。

明治44年(1911年)の林野所有形態
地域 国有林 公有林 社寺有林 私有林 部落有林 昭和14年までに整理された面積
宇摩郡 8,509 7,463 97 15,401 31,470 4,808 3,767
新居郡 4,810 4,947 148 16,806 26,711 4,845 3,430
周桑郡 202 7,583 107 6,173 14,065 7,313 7,086
越智郡 1,209 3,734 285 19,853 25,081 2,238 1,677
温泉郡 1,054 6,309 253 18,449 26,065 5,693 4,499
上浮穴郡 11,908 2,993 73 16,935 31,909 3,293 3,191
伊予郡 512 2,622 114 11,657 14,905 1,339 311
喜多郡 - 1,173 157 16,832 18,162 742 512
西宇和郡 - 487 43 6,945 7,475 400 243
東宇和郡 - 5,474 196 18,817 24,487 5,389 4,706
北宇和郡 8,554 8,451 155 26,811 43,971 8,818 6,280
南宇和郡 2,764 2,275 248 136,162 18,899 1,584 2,120
合計 39,526 53,516 1,882 188,296 283,200 46,468 37,828
単位は町(だいたいha)

西条藩(加茂川流域)、宇和島藩(鬼ヶ城山系)が林制を行い、木材生産していたため、明治時代に国有林に編入
荒れ地だらけの愛媛県
 県内の林野面積のうち、森林は99.9%、草地は0.1%で、ほとんど森林となっているが、大正5年(1916年)の時点で、針葉樹林33.7%、広葉樹林17.7%、混交林31.3%、竹林0.6%、木が無い無立木地が16.7%の割合だったのです。

とくに、無立木地は言い換えれば草山のことで、入会採草地で有り、公有林に多かった。

穀倉地帯であった宇摩平野、周桑・西条平野、宇和盆地、鬼北盆地の周辺に草山(荒廃地)として存在。一方、国有地は森林がある場所を押さえています。

大正時代になると、金肥が普及することで、採草地の経済的価値が低下し、部落の住民に私有林として分割され、植林地に姿を変えていったのです。

焼畑ネタ
 自給作物を栽培する焼畑は、20〜30年の休閑期間を設けて、焼畑を行いました。ヒエを育てる焼畑地は、春焼きの山とよび、蕎麦を育てる焼畑地は、夏焼きの山と呼んだ。(銅山川流域)
 昭和30年代から植林が盛んになるにつれて、焼畑はスギやヒノキの造林地として消失。
 森と畑が交替することで「切替畑」と呼んでいる。「切畑」と言う場合もある。
 小田町では「ひらき」、柳谷村と面河村では「あら地」

 南斜面は、常畑として利用。「さえんば」(自給用の野菜の栽培地という意味)、「こやし」(人糞や刈草を入れる場所という意味)と呼ばれ、焼畑はその周辺で実施。二期作が基本で、自家消費用の野菜の他、夏は、トウモロコシとキビ、冬はジャガイモと麦を栽培。

 上浮穴郡の焼畑の主な栽培作物には、とうもろこし・そば・あわ・きび・ひえ・麦・大豆・小豆・茶・三椏。小豆・茶・三椏は商品作物。

 トウモロコシは明治時代になってから主要な栽培作物に、それ以前はヒエ。ヒエは麦と混ぜたヒエ飯として主食。トウモロコシが主流になるとトウモロコシが主食に。乾燥して臼で挽きワリし、トウキビ飯や粉にしてきび団子として食した。入って粉に挽いたものは「はったい粉」として表皮。トウキビ飯は、トウモロコシ8合に米2合の割合。きび団子は、汁に入れて食べたり、囲炉裏の端で焼いて食べた。ちなみに、上浮穴郡で米が主食になったのは、昭和3538年のこと。

 キビ・アワは、キビ餅、あわ餅として食する。麦には12割の米を入れて麦飯、粉に挽いて掛け蕎麦、蕎麦団子として食した。
 大豆は、溝、醤油、豆腐として自家消費。
 小豆は、キビ餅やアワ餅の餡子として利用。


種類 火入れまで 栽培
春焼き
(キビ山)
10月頃に広葉樹を葉が着いているうちに伐採
そのまま貼るまで乾燥
3〜5月に火入れ
山火事防止として防火線(肥道)を2m作る。
火入れ当日は、山の神に安全と豊作を願って御神酒を捧げる。火の走りが分かるため、夕方から夜にかけて行うことが多かった。
20〜30年の休閑期間
4月下旬から5月上旬にトウモロコシを80sm間隔で播種。その間に大豆と小豆を間作。播種後の手入れは除草と土寄せ
(面河村・柳谷村)
上浮穴郡では、トウモロコシ(トウキビ)を3〜4年栽培するため、「きび山」と呼ぶ。冬期は利用無し。

独特の匂いで獣よけになることから、三椏を導入。苗畑で作られた苗木を2〜3年目に3〜4月に植栽。植栽本数は、3万本/ha。
初年目は中耕・除草、2年目は除草。
2年目の冬、3年目の春に初収穫。これを「初刈り」。2年目で全部刈り取る「全刈り」か、「抜切り」があり、抜刈りの場合は、15〜20年かけて収穫する。一般的には10年前後で収穫を放棄。
夏焼き
(蕎麦山)
8月中旬に火入れ
伐採は、火入れの数週間前
土地生産性の低い山で実施
火入れ後に蕎麦を播種。75日で収穫
冬期は休閑。翌年に大豆や小豆、次の年は粟を栽培。その後放棄
秋焼き
(麦山)
夏から初秋にかけて伐採。
9〜10月に火入れ
日当たりの良い山で実施
火入れ後、麦を播種。
播種後、複後を兼ねて耕起するが、収穫まで手入れはしない。
6月中下旬に収穫。翌年は7月頃に小豆を播種。次の年はトウモロコシ(上浮穴郡)
 商品作物のお茶は、伊予松山藩祖の松平定行が宇治から種を持ち込んだものが広がり、火に強いことで、焼畑でも枯れなかったことから、定着した。
 5月に新芽を摘み、鎌で蒸した茶の葉を、炭火の上で特製の和紙に乗せて煎る方法の「ほいろ茶」。特製の和紙のことをホイロ紙と呼んだため。焙炉(ほいろ)
 同様に鎌で蒸した茶葉を手揉みや足で踏んで揉み上げ、天日乾燥させる釜煎り茶があった。

 三椏は、自生種があったが、明治10年頃に静岡県の赤木種が導入されて盛んに。
燃料木ネタ
クヌギの薪をニブ木という(肱川流域)。火持ちが良いと言うことで大坂で重宝。伊予の切炭としてクヌギの木炭も重宝

久万林業のおこり
 久万林業
昭和53年までは、農業より林業の方が所得が多く、林業地帯だった。
地質は、北側が新第三紀層の安山岩が広く分布し、凝灰岩、礫岩が分布。南側は長瀞変成岩に属する緑色片岩、黒色片岩が分布。秩父古生層の輝緑凝灰岩、粘板岩、珪岩がその南側に分布。これらの風化土が地味良好となっており、年降水量が2000mm以上で、スギ・ヒノキの生育に最適。
藩政時代の久万山郷は松山藩領であった。その大部分の山地は焼畑用地今入会採草地であったが、一部は、藩用材として、部分的なスギ・ヒノキの人工林を持っていた。
 久万林業としての歴史は明治に入ってから、井部栄範の登場で、集落1戸につき200本の植林を奨励。苗木代が払えない人には、無償で渡し、植える土地のない村人には、村の共有林を林木一代として貸し出したのです。借地制度です。土地は村人のもの。植えた木は植えた人の物。賃料を支払うことで成り立つ制度で、吉野林業を参考にしたとか。
 最初は、苗木の調達を広島や奈良の吉野から。明治20年頃
からは、自前で苗木栽培を始めます。植栽本数は、吉野林業に奈良って、6〜7000本/町(ha)の密植方法。これの方法の植林は菅生村から、川瀬村、明神村、父二峰村、弘形村に拡大します。これが久万林業の基礎になったんです。井部栄範地震も、500haに400万本ものスギ、ヒノキ、松を植林。
 植えた木を出荷するため、三坂峠に道を作る、酷道ではなく高知-松山間の国道作りにも専念。国道が出来るまでは、駄馬による搬出で微々たる量しか出荷できなかったのです。国道が出来たことで、馬車で大量に搬出が可能に。
 久万林業の特徴は、篤林家の存在も大きく、久万町中野村の秋本富十郎・半次郎父子、下畑野川の岡小八、二名の竹内新太郎の存在がある。篤林家がいたことで一発屋でなく、長続きした裏付けになった。秋本家は枝打ちを、酒造家で樽丸や桶用材として林業経営を行った竹内家は、二段林施業を始めます。これらの技術を地元住民に普及していったことも久万林業の特徴。
 なお、枝打ちは、材価が高くなる電柱材や無節柱材に、二段林は、節税対策として間伐を頻繁に行い、その空間に植栽したのが起源とか。主伐の所得税が高く、間伐材はすごく低かったという税制の仕組みをうまく使って回避するためだったとか
 昭和25〜40年代の拡大木に、焼きは立ちや採草地が姿を消し、人工林となった。
 ただ、特に地域林業としての方針が決まっておらず、昭和38年(1963年)に愛媛大学農学部に将来の指針を依頼し、当時の状況から@均質で優良な小径木丸太の大量生産、A形質の良い体系牧の生産を方針として定めます。

 施業方法は、スギの場合5500本/haの.植栽間隔で、3月上旬から下旬に植えること。下刈りは5年以内に、全刈り、壷刈り、筋刈りなどの方法で実施。雪起こしは、植栽5年目まで実施。下刈り労働の軽減、伐期の短縮、病虫害の抵抗性増大を目指して、幼齢林施肥、林地肥培も特徴の一つ。
 これと入った特徴ある施業はなく、11年目に林内の被圧木、曲がり木、二叉木、病中被害木を対象に、haあたり500本程度の除伐。間伐は14、17,20年目の3回実施。稲架け、足場材の需要が高いこともあっての施業体系だった。しかし、コンバインの普及で、需要消失。
 二段林は、熊野林業発祥の施業。強度の間伐跡地に植栽する方法で、皆伐による道修浸食防止、間伐材収入を得ながら大径木の育成という説明がされるけど、本当は税対策。後付け説明。

新参者の小田林業
 小田林業は、「ひらき」で有名な焼畑が盛んで、民有林は雑木林で構成されていたところで、蕎麦やトウモロコシの栽培と、商品作物として木蝋のハゼを栽培。
 雑木山から製炭原料として、クヌギ炭、木炭などを生産。
 昭和25年頃から拡大造林、雑木林をスギ、ヒノキへ樹種転換していきます。
 久万林業との違いは、造林の歴史が浅いことと同時に、森林所有者自身による森林経営ではなく。森林組合を通じての施業も特徴となっている。

 歴史がないため、他の先進地に学びに吉野や北山に行きます。そこで、磨き丸太生産にも参入します。

 国道沿いに立て看板を設置したり、テレビ・ラジオでPRするなど、販路拡大に力を入れてきたことでも有名。

伊予簾
 枕草子の「にくきもの」の段に登場する伊予簾。
 材料の笹は、久万町露ノ峰の標高700〜750mの山腹に自生している篠竹を利用。