県木:アカマツ(Pinus densiflora) クロマツ(Pinus thunbergii) ゴヨウマツ(Pinus parviflora) |
県花:ミカン Citrus unshiu |
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井部栄範 | ||||
山家清兵衛と緒方惟忠 | ||||
林太源兵衛 | ||||
足立重信 | ||||
曽我部右吉 | ||||
松平定行 | ||||
宗教家の植林は珍しいと思うのだが 井部栄範(1842〜1914) 和歌山県から四国霊場44番札所「菅生山大宝寺」の坊さんとして久万に赴任してきて来たが、あまりにも荒廃している村民を目の前にして、明治5年(1872年)からまわりを巻き込んで植林を開始。 明治6年(1873年)に寺のまわりに1万本 明治7年(1874年)に大宝寺が焼失するのを機に、還俗し、その後は大宝寺復興のために植林事業に専念します。 植林をして、木材を売って、寺の財源にしようとしていたみたいですが、何せ村民の興味が沸かない。 そこで、一案 村の中に、1年間に200本以上植えれば、150世帯で植えて、3万本、10年間で30万本。そして、切って植えて、植えて切ればお金ざくざく・ハッピィー・ハッピィー。 しかし、今せっかく植えた木も道がなければ運べないし、売れない。 大阪などの市場に出すにも、山から港までの道が無くその道を作るため明治19年に県会議員になり、明治23年に道が完成。あの三坂峠(国道33号)を開設した人でもあるのです。 それまでの坊さんは何をしていたのか |
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林業はやはり、失業者対策?山村振興の起爆剤か? 山家清兵衛と緒方惟忠 宇和島藩の家老と、野村町の庄屋 宇和島の水飢饉を防ぐため、水源地に植林を行ったのが、家老の山家清兵衛 そして、その家老に、荒れた山に植林し、水源の確保、 山村の雇用機会の創立。そして、城の背後の守りを提言したのが、庄屋の緒方惟忠 スギやヒノキを植林し、時には家老自ら植林したといわれています。その森は、山家造林地といわれ、現在、須賀ダムの水源林として宇和島市の水源涵養保安林として、今に至っています。 この家老は、非業を死を遂げるのですが、詳細は別の機会に |
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林太源兵衛 元禄元年(1688年)に大三島町の宮浦に土砂流亡防止のために松林を造成する。 |
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足立重信 松山市の北にある北条市岩川の「土手松」 江戸時代中期に、加藤嘉明の家臣である足立重信によって、水防林として立岩川の水防林として河口から上流4キロにかけて植栽されたモノ このお陰で、地域の住民や田畑を救っていました。 有名な話は、昭和51年に台風17号の時。昔から伝わる「木流し水制工法」で堤防決壊を防いだのです。 出身は美濃の国。 |
土井中照のモンドえひめ http://www.dokidoki.ne.jp/home2/doinaka/ 川に名を残す足立重信 http://www.dokidoki.ne.jp/home2/doinaka/mq/ten-h/t08-2.html |
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曽我部右吉 人食い川と呼ばれた蒼社川。氾濫するたびに、多くの犠牲者を出した川です。その川の上流に植林し、水源涵養林を作り、洪水を抑え、「緑化の父」とも呼ばれています。 元治元年(年)に越智郡与和木村(玉川町)の庄屋、武出弥平太の三男として生まれ、明治13年(年)に、叔父の曽我部に養子いり。 明治17年、19年の豪雨で洪水が発生、多くの被害が出る中、上流域の緑化に注目。雨が降れば洪水、晴れれば渇水。山に保水能力が欠如していたんです。官有林の払い下げを県を通じて申請し、明治24年11月に無償で払い下げを受けるのです。その時、13の町村の組合林としてです。 入り会いの山を官有林のままでは、自由に使えなくなるので、慣習権を守るために働きかけたというのが、本当のところでしょう。草刈り山として利用していたが、明治26年(年)10月の豪雨で、多大な被害が発生したため、腰を据えて緑化に取り組みます。官有林であったため、植林して洪水を防ごうと思ったが、植林できなかった可能性もあります。 愛媛県では、「山林植樹費補助規定」が制定されたため、これを使って植林をすることにしました。しかし、植林技術は、林業戦地である奈良の吉野林業地から仕入れます。これまでは、大苗(2メートル近い)を植えていたのですが、土倉庄三郎氏に教えを請うて、ちっちゃい苗を、植える方法で活着率を高める(若いから)方法で、緑化していくのです。 明治31年(年)の時、県会議員に在職。このときには、治山治水の大切さを訴え、愛媛県に山林技師を設置することになります。林務課の誕生です。 |
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松平定行 久万地域に宇治からお茶の種を持ち込んで、山間地域の貧しい地域の換金作物として導入。 焼畑を行っても、火に強く、燃えて無くなることがないため、重宝された。 |
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