山口県    
  県木:アカマツ
Pinus densiflora
県花:ナツミカン
Citrus natsudaidai
 
森を作った人・守った人    
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  松永周甫       
  山内広通      
  吉川広正      
         
    
荒れ山を治療した医者
松永周甫
文化13年(1816年)に藩医の家に生まれ、医術を学び藩の採薬医となります。珍しい植物を集め、薬草園を今の山口市梅の木に作りました。
しかし、350種ものせっかく集めた薬草が、大雨による禿げ山からの土砂崩れによって壊滅。

その後、薬草園を復活させるため、禿げ山にアカマツを中心に植林に挑戦するのですが、医者が人診ずに山診てどうするんだと、まわりからは冷たい目で見られ気が狂ったかと非難されるが、何度も挑戦し、治山造林技術を開発しました。
 
その技術は、雨水が地表が流れて土砂を流さないように斜面に水をためる溝を作り、地中に沢山の石を一直線に敷いた水道を作ったのです。

一種の水抜きです。

余分な水が、地表を流れることなく、水道に沿って麓まで流れるようにしました。植林方法も、俵に土と泥炭と肥料を入れて、そこに苗木を植えるという方法で 17年もの歳月をかけ、安政4年(1857年)に禿げ山の治療が終わりました。はげ山には栄養が乏しいから、人と一緒で毛髪力ではなく発根力を高めたんで す。

山の植林によって、薬草園が完成し、ついでに麓の農地まで守ることになりました。

ようこそ 鋳銭司へ
http://www.c-able.ne.jp/~u-yozo/
「鋳銭司の観光」に石碑が紹介されています。
山口市
http://www.city.yamaguchi.yamaguchi.jp/
 松永周甫薬園跡と遺存植物
山口市立鋳銭司小学校
http://www.yamaguchi-ygc.ed.jp/suzenji-e/
 すぜんじまっぷ 
 
山内広通(ひろみち)
元禄元年(1688年)生まれ
萩藩では17世紀から財政難が表面化。そして、17世紀後半には資源難へ。売り払って無理矢理お金を捻出していたツケからなんだが、

享保4年(1719年)に、宰判という行政区ごとに藩有林を20分割。1年に1区分ずつに入札による立木販売という方法で20年で一巡。「二十割の仕法」という輪伐法だったんです。寛永3年(1626年)に導入という話あり

でも、うまく機能していなかったため、「弐拾番山御書付」を寛保3年(1743年)にまとめて発表。
伐採と造林による計画的な資源管理を行った。
結果的には、造林がネックとなりうまくいかなかった。

延享4年(1747年)没

吉川広正
錦川の下流、万治2年(1959年)、今の楠町の堤防強化のために、クスノキやムクノキを植林した殿様。
吉川藩は、貧しい藩であったため、知恵と工夫で乗り切る必要がありました。理由は、頻繁な錦川の洪水と、山がちであること。そして、関ヶ原の合戦の毛利家の尻拭いをしたのに、毛利家からは冷たい仕打ちを受けていたこともあります。毛利家からは、岩国領として長州藩の一支藩という扱いなのですが、江戸幕府からは参勤交代のある岩国藩として外様大名扱いという歪なことでも有名です。

このため、岩国藩を豊かになるには、錦川のデルタ地帯の干拓を進め、水田開発を進めるしか有りません。さらに、紙も専売にして、藩の財政の基盤を作りました。

今、有名な錦帯橋の元になる橋を作ります。錦帯橋を作った吉川広嘉の父です。なお、錦帯橋の下が石畳に見えるのは、洗掘を恐れていたから。洗掘で土砂が流れると、橋の土台も壊れていますからです。

さらに、植林を行いました。錦帯橋は、ケヤキや松、スギ、ヒノキで構成されています。洪水時には壊れるのが前提ですので、材料の確保は必須。このため、木谷山や倉谷山を備蓄林にしました。倉谷山では、ケヤキを計画的に植林したそうです。このうち、倉谷山は、岩国市の市有林に、木谷山は、吉川林産興業株式会社が引き継いでいます。

寛文元年(1661年)に、隠居してデルタ地域に住み始めた新居を守るために、万治の堤防を強化するために植えたそうです。別の説として、延宝4年(1678年)に、中津の庄屋が植えたとの声もあるそうですが、毛利家との確執の中、洪水と向き合った結果といえます。