滋賀県    
  県木:モミジ
Acer palmatum 
県花:シャクナゲ
Rhododendron metternichii  
 
森を作った人・守った人    
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  加藤九蔵      
  龍池藤兵衛
西川作平
祐寛上人、長谷川玄斎
     
    
餅3升で江戸まで飲まず食わずで歩いた男?
加藤九蔵
1769年に本多康伴のもと、大津の膳所の水源林を作った人。このおかげで、大津市内に新田が次々とできたそうです。

伝説によると、餅が大好きで、「モチ九蔵」と呼ばれ、伊勢講で伊勢詣りの時、モチ2升を平らげ、3日で伊勢までいって帰ってきたという。大変なモチ好きであったとか





こちらに詳しい内容があります。

近江の森林・滋賀の国有林

滋賀 人との森の歴史のコーナー
餅九蔵(もちくぞう)と木ノ下谷国有林


 
龍池藤兵衛
「ハゲシバリと龍池藤兵衛」
西川作平と並んでヒメヤシャブシの苗木の増産、普及に努めたのが、甲賀郡岩根村の戸長を長く務めた龍池藤兵衛(たついけとうべい)です。龍池も、若い頃から砂防に熱心でした。1840年生まれで、1896年没。
明治13年(1880)からヒメヤシャブシ(Alnus pendula)の播種培養(はしゅばいよう)を試み、300ヘクタールの禿げ山(菩提寺山、繖山(きぬがさやま))を緑化していきました。父親の意志を継いだそうです。明治16年(1883年)から本格的な植林となり、改良を重ねてついに完成しました。苗木を自村の山に植えるばかりでなく、広く他村に販売もしました。

また、ヒメヤシャブシの別名、ハゲシバリの命名者とも言われています。

( 琵琶湖工事事務所に教えていただきました)




西川作平
滋賀県愛荘町出身の徳林家。
愛荘町の禿げ山に、ヒメヤシャブシを移植して、緑化に成功した人

祐寛上人、長谷川玄斎
琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ)に竹の水害防備林を作った人達。江戸時代が、長谷川玄斎です。生まれは不明ですが、寛永21年(1644年)に没。
さらに、この竹を産業として生かしたのが、戸島忠兵衛で、彼は扇骨を製品化し、高島扇骨として現金収入の道を開きました。安曇川は、洪水多発地であるため、農作物の収入だけでは食べていけない現実があったのです。なので、水害防備林である竹を資材に、現金収入の種にしました。戸島自身、販路拡大で市場開拓していったそうです。
なお、玄斎が作った竹藪は、「玄斎藪」と呼ばれています。

この地域での竹の栽培は、鎌倉時代初期(1190年頃)には、祐寛上人によって行われているなど、古い歴史があります。水害防備林として植えたかは不明ですが、その可能性も否定は出来ません。

これらの竹は、近江扇子を支えています。
なお、昭和28年の台風13号では、竹林の無い場所や不良竹藪の箇所は、見事なぐらい堤防が決壊しました。