大阪府  
  府木:イチョウ
Ginkgo biloba
府花:ウメ
Prunus mume)
府花:サクラソウ
Primula sieboldii
 
森を作った人・守った人    
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  河村瑞軒       
  紀伊国屋文兵衛・新屋利兵衛      
  中山勘兵衛清光      
  吉田屋藤七      
  大久保利通      
                
治水は治山にあり
河村瑞軒(河村瑞賢)
1618年(元和4年)に伊勢の国度会郡東宮村で、長男として生まれた希代のアイデアマン。13歳の時に国を出て江戸で車力で生計。17才の時に一発当て るために大阪に向かう途中で小田原の宿で江戸の可能性を諭され江戸に引き返しました。その途中、東京の品川で、精霊流しのウリやナスをみて、漬け物にして 小儲け、商売を開始。1655年(明暦3年)の江戸の大火事の際、木曽ヒノキに投資、ここで大儲け。
江戸の大火にあうと、我が家を振り返らず、なけなしのお金を持って木曽に走ったんです。そこで、宿の子供に、火鉢で小判に穴をあけて紙のこよりで結んだおもちゃを作ってあげたんです。
すると宿の主人は大金持ちと思い、信用取引をしたんです。木材に河村瑞軒の刻印を打ったんです。

一足遅れた江戸の木材商人は、瑞軒から木を買う羽目に。ここで、巨額の富を得たんです。

その後、色々と幕府に頼まれ、東回り航路、西回り航路の開発

1683年(天和3年)に淀川流域を調査するうちに、その水源となる山地が禿げ山状態に驚き、「治水は治山にあり」と、山林の保護にも努めたのです。
大阪の洪水の原因は、平城京や東大寺を作ったりした時に木を切り尽くし、放置され禿げ山になった瀬田川上流。構造物の木材、瓦を焼くための燃料と森を荒らしたんです。
瀬田川の上流に原因があり、幕府に提言したんです。
ヒメヤシャブシやクロマツを禿げ山に植える必要があると当時の若年寄稲葉石見守正休に大阪の洪水を防ぐ手立てを聞かれ答えたのです。

また、大阪の発展のため、洪水対策に安治川を開設。このとき、お金を渋った幕府に変わって商人が資金を治水は農業のためと労働力を農民がボランティア

このときにすくった土砂で作ったのが瑞軒山。そこにマツを植えたので、船の目印=灯台の代わり。目印山と呼ばれたそうです。

150年後に大川浚いが行われ、このときの土砂で作ったのが天保山
1831年(天保2年)だったので天保山
今は、海遊館があります。

1698年(元禄11年)に功績が認められ旗本に名は、平太夫義通に、1699年(元禄12年)6月16日82才で永眠
鎌倉建長寺に眠っています。

 
国益のために植林を
紀伊国屋文兵衛・新屋利兵衛
大阪の豪商達、売り上げの一部を
国益のためにと、尾鷲のあちこちにハゼの木を植えたのです。
 
ハゼの木からは、木蝋の原料が採れるため、備荒貯蓄という視点からの植林だったんでしょうね

日本のバブルの時、同じようなことをした人はどのくらいいたのだろうか。昔の人はゴッキな人が多かったんでしょうね
 
中山勘兵衛清光
茶道に必要な池田炭を完成した人
1574年(天正2年)の頃のこと
ただし、池田一帯では昔から炭を焼いていたみたいで、その中で炭焼きを改良した一人のようです。その底辺には、無名の炭焼き職人が沢山いたんでしょう

炭材にクヌギを使うことにし、それまで窯外消火だった炭焼きを窯内消火にしたのが中山氏といわれています。
おかげでか、池田に嫁ぐ際にはクヌギの苗を持っていったとか


 
吉田屋藤七
大阪の交野市出身の町人
淀川の支流の天の川が天井川になっているのを子供の頃から見ていたので(父親から教えられたとか)山に木がないと洪水が起こるという因果関係を理解していたそうです。

江戸時代中期、天明8年(1788年)に淀川を管理していた土砂留奉行に対し、砂防事業に対する意見書を出したんです。星田山(府民の森ほしだ園地周辺)のことだそうです。

洪水対策の根本は、堤防を高くするのではなく、土砂を川に流さないこと。禿げ山を緑にすることです。星田村生まれで、子供の頃から見ていた天野川が天井川であり、堤防をいくら高くしても、洪水はなくならない、はっきり言えば、解決しないということ。

これ以外に洪水対策はないと申し上げたんです。

禿げ山になるのは土地利用が原因
林地の破壊が原因
それは共有地や私有林での過剰な下枝下草の乱伐に落葉の取りすぎ(農地への肥料)

山を緑化するためにそれまでの利用をシャットアウト。農民の生活を奪うことに(肥料のない農業は悲惨なので)(薪がなければ煮炊きが出来ない。暖房も)それを避けることに、代替地を与えてから森林の立ち入りを禁止すること訴えたのです。

これは、明治5年から始まった日本最初の国営砂防工事でも、裏付けられることになったんです。
























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「交野郷土史かるた」の「よ」に紹介されています。
 
大久保利通
浜寺の松林を守った人は、明治維新の功労者、近代国家の父といえる大久保利通候なのです。

明治元年(1868年)に、田安藩は、農地拡大のため、松林を伐採することを決めます。しかし、松林の効能を知っている農民からは、反対の声が。農民は、署名を集めて嘆願します。結果、農地開発の計画は一時頓挫します。

しかし、明治2年(1870年)に明治政府から松林の売却命令が起きます。署名運動ではっかいけつで着なかったため、農民は、払い下げてもらいます。署名ではなく、お金をかき集め、2500両を田安藩に納めたのです。

田安藩から、堺県に行政が変わります。廃藩置県です。堺県は、農民にお金を返還し、再び松林を官有地にしました。しかも、伐採禁止です。

しかし、失業した士族をどのように養うかは、政府の頭の痛いところです。失業者が増えれば、不安定な社会になります。明治5年(1973年)には、せっかくの禁伐であった官有地を、士族のために払い下げます。結果、南北にあった松林は丸裸に。

そこに、大久保利通候が、明治6年(1974年)に通りかかったのです。元亨年間(1321〜1324年)に、後醍醐天皇の勅命により、三光国師を開基として高石浜に大雄寺が建立されます。これが、「浜の寺」→浜寺につながります。万葉の時代から松林の美しい浜と呼ばれていたそうです。『小倉百人一首』で祐子内親王家紀伊は「音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ」と詠んでいます。この名勝の松林が消失するのを嘆き、伐採中止を命令したんです。
そのときに詠んだのが、「音に聞く 高師の浜のはま松も、世のあだ波はのがれざりけり」です。

大久保卿に駄目出しを喰らえば、堺県の知事は公園にすることを決定。浜寺公園になったのは、このような経緯からなのです。

公園内には、惜松碑があるとのこと