岡山県
県木:アカマツ
Pinusdensiflora
県花:モモ
Amygdaluspersica
森を作った人・守った人
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熊沢蕃山
 明暦元年(1655年)に藩主池田光政に治山治水の要を進言し、岡山周辺の禿げ山に藩の費用で植林や砂防工事を行った。翌年には、藩内にマツを植えるよう指導します。

 貞享3年(1686年)には今までの経験を書にまとめ、「集義外書」という山林の荒廃の原因は、製塩・製陶の増加、仏教隆盛による建築ラッシュ。加えて、民衆の経済的困窮と分析し、翌年に「大学或問」を書き上げ、山林の重要性は、経済的価値ではなく治山治水といった生活環境の保険として必要であると世に訴えた思想家です。

 この人は荒廃した山を緑にするために、鳥を使ったことがあります。鳥の糞には木の種が含まれているので、種をまいてくれる非常に便利な道具?ということで雑穀を地面にまいて、鳥を集めたんです。
 しかし、鳥は雑穀を食べただけで、糞も落とさず飛んでいったので失敗

 その反省を活かし、雑穀の上に藁を敷いて、鳥が餌を探す手間をかけさせるようにして、その場に糞を落とすようにしたんです。
この方法は、この間コスタリカで、牧場跡地を緑に変えるプロジェクトの紹介が、テレビで放映されていたのですが、そこで、そのプロジェクトの責任者の博士は、同じように鳥を用いる方法で緑化しようとしていました。種をまくのではなく、果樹をつかって、木になる果物に釣られて鳥を集めるという方法です。結構、その博士が自慢していたのには笑いました。だって、同じ事を300年以上も昔に熊沢蕃山は実践していたから昔の日本がひどかったのか、同じ状況では人間の発想は同じなのか、どうなんでしょうかね。

 なお、陽明学を基本にしていたため、江戸幕府の朱子学とは、相反する学問です。このため、幕府に睨まれ、明暦3年(1657年)に岡山藩を去ります。その後、40歳になった万治元年(1658年)京都に移ります。そこで、私塾を開くのです。有名人ですから、色々な人が来ました。中には、豊後国岡藩主中川久清から土木工事の技術指導にと、竹田に呼ばれます。万治3年(1660年)のことです。
 京都で活躍するも、幕府からは目をつけられているため、寛文7年(1667年)には大和国吉野山、続いて、山城国鹿背山に移り住みます。しかし、幕府の監視網からは逃れることが出来ず、51歳の寛文9年(1669年)に、神戸市西区にある太山寺に幽閉されます。播磨国明石藩主松平信之の預かりとなったのです。
 この時、一生懸命、これまでの成果をまとめました。寛文12年(1672年)に、「集義和書」、延宝7年(1679年)に、「集義外書」を刊行します。
 松平信之の大和郡山藩への転封に伴い、大和国矢田山に移ります。そして、幕府に睨まれているにもかかわらず、天和3年(1683年)には、大老堀田正俊の招聘が会ったそうです。結果は、辞退するのです。
 貞享4年(1687年)に「大学或問」が徳川幕府のやり方を非難したとして、松平信之の嫡子である下総国古河藩主松平忠之の下に預けられます。鎖国の無駄、金食い虫の参勤交代などが癪に障ったようです。
 古河藩に幽閉されるのですが、土木工事の技術者として、藩内を治水治山技術を教えていたとのこと。湧き水を一度集め、暖めてから田畑に配分する「蕃山溜」という溜池が茨城県古河市関戸に残っています。また、埼玉県加須市柏戸の出流神社(いずる)に、蕃山堤があります。渡良瀬川と思川が合流する付近は、洪水多発地であり、溢れた水が村々を襲わないように、湿地帯に誘導するために低い堤防を設置しました。
 元禄4年(1691年)に73歳で死去。藩主松平忠之公に手厚く鮭延寺に葬られました。
 

宇野円三郎
熊沢山番の思想を受け継いだ人