県木:ヒノキ Chamaecyparis obtusa |
県花:雲仙ツツジ Rhododendron serpyllifolium |
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陶山訥庵 | ||||
松倉重成 | ||||
イノシシに恨みを買った対馬の聖人 陶山訥庵(すやまとつあん) (1657年〜1732年6月14日)75才。対馬の聖人と呼ばれた対馬藩の農業大臣。財政再建が急務であり、そのために自給自足を目指した農地改革を行ったのですが、せっかくの農作物を、人が食べる前に食べるのがイノシシ&シカ。憎きイノシシを撲滅することが、限られた対馬における農業で自立する手段ということで、シシ退治をした人で有名。 1657年(明暦3年)に、儒医の陶山玄育の長子として誕生、名前を存(ながろう)、幼名を五一郎、そして庄右衛門といって、訥庵は号、そのほかに、鈍翁、西丘老人、海隅小生(かいぐうしょうせい)ともいったそうです。11才の時に江戸に出て、木下順庵の下で、勉強、17才の時に対馬に戻って、1680年(延宝8年)に父親の隠居によって跡を継いだ。 1690年(元禄3年)に病弱ということで、家業の医者をやめて、1699年(元禄12年)に農業大臣にあたる郡奉行に就任。同役の平田類右衛門と一緒に、翌年からイノシシ狩り。殲猪令(せんちょれい)を出し、冬から春にかけての農閑期に、島内の農民を総動員して、シシ狩りを島を9分割し、境界を土の壁、さらに仕切垣を作って、イノシシとシカを追いつめ、鉄砲でズドン。1年に一区画ということで、9年かけて8万頭あまりのイノシシを撲滅したんです。そして、イノシシの居ないところで安心して農業が出来るように、農民すべてに農地を再分配、農地改革を行ったのです。 すると、イノシシに襲われていたために収穫が芳しくなかったのに、敵がいないから収益アップ。焼畑を行うとき、イノシシが畑に入ってこないように柵を作るのですが、イノシシの攻撃に耐えられるような太さになるまで、栽培したあと十分な休閑期間を取っていたんです。イノシシが居ないので、休閑期間を短縮。すると、耕作期間が長くなり、地力の低下で収量ダウン、森が減ったので、雨が降ると洪水、土砂崩れ等々、イノシシが居なくなってから20年後には、最悪の事態に命に危機が。 イノシシが、森を維持するためのフタみたいな役割を担っていたのに、フタが取れたというか、農民のやりたい放題で、逆に窮地に。そこで、焼畑をやめろと「木庭作停止論」を出したのです。すでに引退はしていたのですが、農業振興のために、いろいろ本を出したりしていました。1715年には島になかったサツマイモを導入したり、農業指導をしていたと。根底には、自給自足の必要性を感じていたからだといわれています。 開発と安定した生活。そのためには過度な焼畑を押さえなければならなかったのです。イノシシが居なくなっては、人間の理性が森を守る唯一の手段なのです。農民の反対を押し切り、耳を傾けつつも、己の信じる森の再生に向けて実行したのです。 この人のすごいところ、だから聖人なんでしょうが、反対者の意見までちゃんと耳を傾けたのです。もちろん採用はしなかったでしょうけど。それらの意見の集約が1729年(享保14年)に、木庭作停止の指示に対する反対意見、賛成意見、そして自分の見解を加えて「木庭停止論」を著したのです。 |
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松倉重成(松倉重政) 千々石海岸に植林した江戸時代の藩主。 住民の要望に応え、塩害を防ぐために堤防を築いて、松を植えました。結果的に、防風林、防潮林の機能を持っています。もちろん、千々石町の町の木はマツです。 この人物は、司馬遼太郎にとってはすごく嫌われた存在 「日本史の中で、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」と街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫) の冒頭に書かれています。 でも、かつて大和(奈良県五條市)の五条二見城主の時には、規制緩和をして、余計な税を無くし、商業の発展に努めます。このため、彼の死後、新町西方寺(五條市新町)には、頌徳碑が建ち、江戸時代には「豊後さま」として祭られ、名君として崇められていたのです。 生まれは、天正2年(1574年)。最初は、筒井順慶に仕えます。筒井家の左近が、島左近こと島清興、右近が、松倉重信。この松倉重信の子供として生まれます。 大和五条1万石から肥前日野江藩(後の島原藩)4万石になります。元和元年(1615年)、大坂夏の陣で、友人の間宮光信の救援要請を受け、甲冑をきちんと着けずに、夜道を進み、大和郡山に進出した大野治房を追い払った事で、徳川家康に高い評価を受け、出世したのです。 元和2年(1616年)に、肥前日野江藩に移り、国作りを始めます。この中で、地元住民からの陳情、千々石の庄屋、和田四郎左衛門義長からのお願いによって、この防風林を作り、農業の発展に貢献したのです。 しかし、前任者はキリシタン大名有馬晴信でしたから、一部の住人は、幕府に従わず、キリスト様が全てだったと思うと、妨害もあっただろうし、まともな統治も出来なかったのだと思います。キリスト教徒として、少年少女を奴隷として売り渡し、それを是としていた一部の常軌を逸した領民を正そうとして、目覚めさせようとしたのが、奈良から来た松倉重成だったんだのでしょう。 教会という集金場所で、お布施という綺麗な言葉で、貧乏民からの強制寄付金も塵も積もれば大金になります。集まった富は海外に流出し、地域の発展には、マイナスです。それを正そうとした結果、島原の乱になったのだと思います。 個人的には、キリスト教徒の弾圧は、正解だと思います。しかも、キリスト教を信仰しなければ殺すといって、籠城に向けてまともな農人から食糧を奪い、兵士を供出させた反乱軍。このようなカルト集団を鎮圧しただけの話なのですが、しかし、世間は、それを悪と思っているので、評価が低いのでしょう。 実際、カルト教との基地であるフィリピンのルソンを攻略するための準備もしています。スペインのアジア拠点を叩き潰すことが出来れば、その後の歴史はどんな風になったんだろうか。 |
千々石海岸林(ちぢわ) 島原城 http://www.shimabarajou.jp/ 松倉重政 http://www.shimabarajou.jp/shigemasa-matsukura.html |
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