県木:クスノキ Cinnamomum camphora |
県花:ノジギク Chrysanthemum japonense |
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慶野松原 | 松の葉で製塩 | 花見市町村 | ||||
地震に強い屋敷林 | 桑の葉から鯉 | |||||
六甲山に木を植えた歴史 | 流れ着いた木が仏様に | |||||
柳行李と杉森神社 | 播州算盤の材料は斧をおる | |||||
泥棒の前に松の木で | ||||||
お殿様の松茸狩り | ||||||
松はダメ | ||||||
日本一古いオリーブの木 | ||||||
300年のアロエ 一晩で丸裸、その後アカマツ林に |
松の葉で製塩 赤穂の塩で有名な赤穂では、江戸時代末期には、松の葉を燃料として利用していました。もちろん、通常の薪の他、文政初年(1820年代)には、石炭も燃料として、製塩業を行っていました。 明治時代に入り、薪製塩というのを行っていました。でも、薪は薪でも、松葉の利用だったのです。松葉は、周辺地域から集めていました。 長さ3尺(91センチ)で、一把5寸(15センチ)を一把にした松葉を使っていたのです。枝付き松の葉を、半年ほど外に出して枯らせます。7.5キロほどだったのが、4.5キロほどにまで軽くなる、水分が飛んだのを使います。これを燃料として使っていたそうです。 間伐材のようなものですから、森林破壊とは無縁の燃料だったそうです。今は、岡山県の鹿久居島の藩有林や、福浦から仕入れていたそうです。 なお、松葉で炊いた塩は、きめ細やかで、色が白い。火力が弱いことが武器となって、京都や大阪で「上塩」として人気だったそうです。一方、薪で焚くと大量生産は出来るが、不純物も混ざると言うことで、下塩と呼んでいたそうです。 |
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桑の葉から鯉 養父と言えば、食用の鯉で有名。その鯉は、桑の葉からの恵み。 養父は、元々養蚕の盛んな地域で、たくさんのカイコを飼っていました。養蚕は、生糸が重要であり、カイコの蛹は不要です。 その蛹を餌にして育てたのが、食用の鯉だったのです。 特に養父市場は山陰道と但馬街道の交わる交通の要所として栄えます。 1830年代の天保年間に、大橋助左衛門が、円山川の水を街中に引き、養殖を始めたのが始まりとか。それ以前も鯉を飼っていたらしい話もあります。 ちなみに、藪医者とは、医者の産地のして有名な養父地域からの医者として、詐称行為を働いた医者もどきのことを呼ぶことになったとか。 「養父の方から来た医者です。」 「あの医者腕が無いよね」 「今度の医者も養父の方からだって」 「養父医者だね」→藪医者に。 |
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流れ着いた木が仏様に 宣化天皇3年(538年)に淡路島に1本の木が海岸に打ち上げられます。この木をかまどに村人が焼べると、得体の知れない良い香りがしたそうです。 慌てて、朝廷に献上したら、聖徳太子が、栴檀の木だよと説明。でも、この栴檀は、今の栴檀の木(Melia azedarach)ではなく、白檀の木(Santalum album)のこと。Melia azedarachは、マホガニーの仲間。 「センダンは双葉より芳し」は、白檀のことです。 観世音菩薩様になったそうです。 日本香木史上最初の記述?として日本書紀の第22に記載されているとのこと。 |
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播州算盤の材料は斧をおる 安土桃山時代から始まったと言われる小野の算盤。 漢字で書くと、十露盤、十呂盤、?、算盤。 5000年くらい昔にメソポタミアで生まれて、室町時代に日本に届いたとか。その材料は、軸になるのは竹ですが、玉は、いろいろあります。 基本は、柘植(Buxus microphylla var. japonica)とか、オノオレカンバ(Betula schmidtii)等、堅い木です。 オノオレカンバは、斧折樺と書き、3年で1mmしか成長しないほど、非常に密で堅いため、切ろうとしたら斧が折れる事から名付けられたとのこと。馬橇にも利用されたほど頑丈だったのです。 |
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