茨城県  
  県木:ウメ
Prunus mume
県花:バラ
Rosa rugosa
 
森を作った人・守った人      
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  土井利勝
木村彌次衛門
河田杰 
熊沢蕃山
     
 



        
土井利勝
元亀4 年(1573 年)3月18日、誕生。
寛永21年(1644 年)7月10日、大老のまま没
古河といえば、桃。その基礎になったのが、古河藩主の土居利勝です。
慶長年間に、長谷、牧野、鴻巣周辺の農民の暮らしが良くなるようにと桃を植えさせたのが始まりだったそうです。
桃栗3年柿8年ということで、3年で現金収入。

古河総合公園がその功績を称えて(乗っかって)、3月中旬頃からもも祭りをしています。

詳しくは「こがナビ」でチェック

なお、桃の苗は、江戸市民が食べていた桃の種をかき集めたそうです。







木村彌次衛門
久慈川の水害防備林を作るきっかけになった人物。文久2年(1862年)に辰ノ口に住んでいた木村彌次衛門は、洪水の跡を見回っているときに、竹の根が残っていたのに気付きました。

竹が制水してくれ、土砂や流木をくい止めてくれたからか、水害被害が最小になると考えたそうです。
それに加えて、竹を売れば収入も入ります。籠から釣り竿、ザル等々、竹細工で人は生活していましたから。ということで、久慈川の水害防備林として竹を植えることになりました。

久慈川水害防備林についてはこちら



河田杰(かわだまさる)
東海村海岸砂丘の植林に半生をかけた人物。
明治22年(1889年)1月6日東京新宿生まれの林業技術者(博士)です。大正3年(1914年)に東京大学林学科を卒業後、目黒にある林業試験場に勤めます。その間、欧米に造林学の学びに留学もします。欧州の広葉樹施業などの情報を持ち帰られています。

大正8年(1919年)に、東海村の村松海岸に22万本のクロマツを植栽します。この時の植栽方法が「河田式造林法」として、砂丘の出来た経緯、地形に則して、適地適木で植栽していくというのを整理された造林法です。そしてまとめられたのが、「海岸砂丘造林法」という書物です。

海岸自体はもともとクロマツが植生していたのですが、明治中期以降乱伐や、砂丘の広がり(久慈川流域、那珂川流域の山の荒廃による大量の土砂の流入)で林相が貧弱化していきます。結果、農地や集落に被害が発生するに至ります。大正2年(1913年)から、干拓事業の一環で海岸林が造成されたのですが、失敗に終わったとのことです。

なんといっても、北東風の影響で、飛砂に苦しむ場所だったのです。砂は、荒れ川の久慈川から供給され続けられます。まず砂丘を止めることから始まり、砂だけでは植物は生育できないので、麦わらや稲わらを砂の中に入れ、地力を高めたのです。肥料を蒔くより経費が安い方法しか採れなかったのですが、出来るだけコストを抑えた方法と言えます。

その一方で、地表には敷き藁を実施。地表から水分が逃げるのを防いだのです。俗に言うマルティング効果です。

最初の4年は、砂防垣を作り、地形の整理に努めました。堆砂形成がされ、砂が止まれば、その風下から植林を始める方法です。

大正7年(1918年)に試験地が設置され、河田博士の着任は翌年。研究の結果が分かったことにより、大正14年(1925年)から事業として本格的に海岸林を造成したのです。

この方式は、茨城式とか、河田式と呼ばれ大正中期以降、砂防造林の規範にされました。

当時の村松村村長澤畠美畝と、那珂郡出身の根本代議士を中心とした陳情もあり、試験地として選ばれたのです。逆に言えば、日本5大ひどい場所の一つとも言えます。
青森県の屏風山、秋田県の能代、石川県大聖寺、鹿児島県吹上浜と、ここが砂防植栽試験地だったからです。

河田博士は、最後に青森県営林局長になります。昭和21年(1946年)に退官するのですが、東京教育大学、今の筑波大学の講師として、マツばかりでなく、人も育てます。
昭和30年1月16日、66歳で生涯を閉じますが、今なお、茨城を始め近接する千葉県などの松林は、生き続けています。


熊沢蕃山
 明暦元年(1655年)に藩主池田光政に治山治水の要を進言し、岡山周辺の禿げ山に藩の費用で植林や砂防工事を行った。翌年には、藩内にマツを植えるよう指導します。

 貞享3年(1686年)には今までの経験を書にまとめ、「集義外書」という山林の荒廃の原因は、製塩・製陶の増加、仏教隆盛による建築ラッシュ。加えて、民衆の経済的困窮と分析し、翌年に「大学或問」を書き上げ、山林の重要性は、経済的価値ではなく治山治水といった生活環境の保険として必要であると世に訴えた思想家です。

 この人は荒廃した山を緑にするために、鳥を使ったことがあります。鳥の糞には木の種が含まれているので、種をまいてくれる非常に便利な道具?ということで雑穀を地面にまいて、鳥を集めたんです。
 しかし、鳥は雑穀を食べただけで、糞も落とさず飛んでいったので失敗

 その反省を活かし、雑穀の上に藁を敷いて、鳥が餌を探す手間をかけさせるようにして、その場に糞を落とすようにしたんです。
この方法は、この間コスタリカで、牧場跡地を緑に変えるプロジェクトの紹介が、テレビで放映されていたのですが、そこで、そのプロジェクトの責任者の博士は、同じように鳥を用いる方法で緑化しようとしていました。種をまくのではなく、果樹をつかって、木になる果物に釣られて鳥を集めるという方法です。結構、その博士が自慢していたのには笑いました。だって、同じ事を300年以上も昔に熊沢蕃山は実践していたから昔の日本がひどかったのか、同じ状況では人間の発想は同じなのか、どうなんでしょうかね。

 なお、陽明学を基本にしていたため、江戸幕府の朱子学とは、相反する学問です。このため、幕府に睨まれ、明暦3年(1657年)に岡山藩を去ります。その後、40歳になった万治元年(1658年)京都に移ります。そこで、私塾を開くのです。有名人ですから、色々な人が来ました。中には、豊後国岡藩主中川久清から土木工事の技術指導にと、竹田に呼ばれます。万治3年(1660年)のことです。
 京都で活躍するも、幕府からは目をつけられているため、寛文7年(1667年)には大和国吉野山、続いて、山城国鹿背山に移り住みます。しかし、幕府の監視網からは逃れることが出来ず、51歳の寛文9年(1669年)に、神戸市西区にある太山寺に幽閉されます。播磨国明石藩主松平信之の預かりとなったのです。
 この時、一生懸命、これまでの成果をまとめました。寛文12年(1672年)に、「集義和書」、延宝7年(1679年)に、「集義外書」を刊行します。
 松平信之の大和郡山藩への転封に伴い、大和国矢田山に移ります。そして、幕府に睨まれているにもかかわらず、天和3年(1683年)には、大老堀田正俊の招聘が会ったそうです。結果は、辞退するのです。
 貞享4年(1687年)に「大学或問」が徳川幕府のやり方を非難したとして、松平信之の嫡子である下総国古河藩主松平忠之の下に預けられます。鎖国の無駄、金食い虫の参勤交代などが癪に障ったようです。
 古河藩に幽閉されるのですが、土木工事の技術者として、藩内を治水治山技術を教えていたとのこと。湧き水を一度集め、暖めてから田畑に配分する「蕃山溜」という溜池が茨城県古河市関戸に残っています。また、埼玉県加須市柏戸の出流神社(いずる)に、蕃山堤があります。渡良瀬川と思川が合流する付近は、洪水多発地であり、溢れた水が村々を襲わないように、湿地帯に誘導するために低い堤防を設置しました。
 元禄4年(1691年)に73歳で死去。藩主松平忠之公に手厚く鮭延寺に葬られました。