北海道      
  道木:エゾマツ
Picea jezoensis
道花:ハマナス
Rosa rugosa
 
森を作った人・守った人    
杜(森)の話
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  犬飼哲夫と三浦正幸       
  中村金衛      
  関矢孫左衛門      
  河野常吉
ホーレス・ケプロン
徳川義親
深川冬至
村上島之允
粟屋貞一
     
                    
犬飼哲夫と三浦正幸
森と、海との関係を明らかにした二人です。
犬飼氏は、北海道大学の名誉教授で、森が持つ水温調節機能が、森が無くなることで狂い、厚岸の牡蠣が採れなくなったのを証明した人です。
三浦氏は、北海道林業試験場の人で、ニシンの消滅および復活と森林との関わりを科学的に証明した人です。
今、はやりの漁民による山への植林の起爆剤となる功績を残した人たちです。

ここで、ひねくれ者は、ついつい書いてしまうんです。
ちょっと前までの、漁民がいかに森に関心がなかったかです。今、漁民が一生懸命、木を植え、育て、注目されていますが、実は、江戸時代の漁民は、1日から2日間かけて、山の神社(上流部)に数年(4年とも)に一度ですがお参りに行っていたんだそうです。
今、その資料を集めているのですが(岩手県室根神社)
戦後、そういった風習を破棄し、山に関心を持たなくなったことが、磯焼けを起こすような、漁獲量を減らすような事態を招いたのかも知れません。

つい最近まで、漁民に育てる漁業という発想はなかったそうで、戦後になって、育てる漁業が、すなわち養殖が始まったそうです。

祭り、神事というのは、非科学的という人がいますが、それなりに意味があるのです。「神の国発言」で物議を交わしていますが、神とは、自然の摂理と思って いる作者にとってみれば、自然に感謝し、敬うことが大切と思っています。もっと、古い伝統を見直していく必要があるような気がします。
 
このような事態を招いた背景には、学校教育に大きな問題があると思うのですが、宗教教育ではなく、日本人の自然観をちゃんと教えなかったことが、今の日本社会の病根にあるのではと思いますが、みなさんは、どう思いますか?



 
中村金衛
北海道のカラマツ造林の基礎を作った人
亀田郡大野町の住人(当時は村)。1874年(明治7年頃)に信州からカラマツの種を持ち込み、育苗造林を始めたのです。




 
関矢孫左衛門
野幌森林公園が今あるのは、この人のおかげ。
関矢孫左衛門は弘化元年(1844年)新潟県の柏崎市新道の飯塚家で誕生。15歳の時に北魚沼郡並柳の大庄屋関矢家の養子に。慶応4年には農民部隊を組織して北越戦争に参加。

第六十九国立銀行の頭取、衆議員議員と歩み、北越殖民社2代目社長ととして、明治23年に越後農民94家族410人とともに北海道に渡りました。

北海道の開拓とは、森林破壊のこと。森を切り開き、畑に換えていったんです。明治20年(1887年)の北海道の人口は32万人程度。昭和2年(1927 年)には247万人へ。3万ヘクタールの農地が79万ヘクタールへと拡大したんです。それだけ森が無くなったんです。

森(原生林に近い森)を切り開いていっても限度があります。そこに気付ける人はわずか。自然の許容範囲を超えた開拓は自然からのしっぺかえしがきます。俗に言う神の怒りに触れたということ。

明治政府は、天皇家の資産を強化するため、安定した収入を得るため、質の良い森林を御料林として確保したんです。北海道にもたくさんの御料林があったんで す。北広島市、江別市、札幌市厚別区あたりの森林が御料林。この存在が、当地の環境を安定させていたそうです。安定した水の供給、暴風から保全、大気の安 定といった具合で。

しかし、人の欲望がとどまることを知りません。この御料林を払い下げて、開墾しようという動きが起きるのです。明治25年(1892年)に、御料林から北 海道庁の森林に払い下げる計画が立てられたんです。この動きに反対したのが、北越殖民社の実質的な代表であった関矢孫左衛門だったんです。明治25年10 月に意見書を出して、道有林にならないように意見したんです。

しかし。2年後の明治27年には道有林になり、広大な御料林は明治32年(1899年)に分割され、さらに市町村に払い下げ(基本財産)られ、森林から農地に変わっていったんです。
関矢孫左衛門は、諦めることが出来ず、広島から入植した集団の代表者である和田郁次郎や屯田兵村の関係者と手を取り合って森を残すよう運動するんです。
森が無くなることで水源涵養林を失うのが、入植者の生活を失うことになるからです。そして明治41年(1908年)に、3400ヘクタールが林業試験場と して指定され、とりあえず森が守られたんです。第二次世界大戦を経て、洞爺丸台風で被害を受けつつ昭和43年に2400ヘクタールが野幌森林公園に指定さ れたんです。

大正6年6月21日永眠




江別市教育委員会
http://www.city.ebetsu.hokkaido.jp/kyouiku/index.html
 指定文化財→千古園

野幌森林公園
http://www6.ocn.ne.jp/~fureai-k/
http://www.ingweb.co.jp/nopporosinrin/index.html




 
河野常吉


 
ホーレス・ケプロン
”Boys, be ambitious.”のクラーク博士を連れてきた人。
サッポロビールを造るきっかけになった人。
リンゴを持ち込んだ人。フジやツガルの生みの親?
明治時代の開拓史の中で、代表する人です。

ホーレス・ケプロン(Horace Capron)は、1804年8月31日生まれのアメリカ人。マサチューセッツ州の豪農の生まれです。南北戦争に北軍義勇兵として従軍したのち農務局長となりました。そこに、明治4年(1871年)に、北海道開拓の人材捜しに渡米した黒田清隆に懇願されて、局長職を辞任。その足で、来日して開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となりました。日本に来て頂く条件の一つとして、局長時代の年収4千ドルに対し、1万ドルを支払っています。


農業や畜産関係で北海道に貢献した、北海道にとって無くてはならぬ人だったのです。

森林関係で見れば、根釧台地の格子状防風林を提唱した人です。1800間(約3.3q)ごとに100間(約180m)幅の防風林が設定さたのです。ホワイトアウトなど、吹雪で視界が0になる場合も、人の命を助けてくれています。そして、生活を豊かにする農作物も風から守っているのです。

明治18 年(1885年)2月22日に80年の生涯を閉じました。










 
徳川義親
鮭を加える木彫りの熊の産みの人。尾張徳川家19代当主です。元越前藩主である松平春嶽の五男として、明治19年(1886年)10月5日生まれの 1976年9月5日没。

明治維新後、北海道に渡った藩士の生活の場所であった徳川農場の経営に尽力します。ヒグマ退治の他、夏の農業はなんとかなるものの、冬の時期は無収入、失業状態だった環境を変えた人なのです。

その収入減になったのが、鮭を口に挟んだ木彫りの熊です。ヨーロッパ土産、スイスの農民が作っていた木彫りの熊を参考に、ヒグマの生態を理解しながら、木彫りをつくり、一時は北海道を代表するお土産にまで発展しました。全ては、冬の無収入時期を乗り切るための手段だったのです。

なお、徳川林政史研究所を設立した方でもあります。それと、徳川美術館もです。


 
深川冬至

 
村上島之允
函館が禿げ山だらけになったので、植林した人
もともと、三重県伊勢市or宇治山田出身。
天明8年(1788年)、松平定信が京に入ったとき、俊足の男がいるという噂を聞きつけ、秦檍丸という人物に会いに行きます。足が速いだけで無く学問もあったと言うことで、取り立てられます。この秦檍丸(はたのあおぎまろ)が、村上島之允の別名です。

江戸湾や伊豆方面の測量と地図作成に従事した結果、寛政10年(1798年)に、近藤重蔵と一緒に、幕府の一員として、蝦夷地探索に行きます。国後島や択捉島まで行ったそうです。文化3年(1806年)まで、普請役御雇として、函館を起点に、開拓や地図作り、農民への技術指導などを行ったそうです。

植林以外にも、函館の農民に椎茸栽培を教えたりしたそうです。アイヌにも、度量衡を教えます。特に有名なのが、消えゆくアイヌの文化を記録に残したことです。亡くなる前年に仕上げた「蝦夷島奇観」の作者です。

函館に奉行所が出来る。人が集まる。身近な場所から薪を調達。周辺で森林の劣化が始まる。土砂流亡の被害が出る。そのため、緑化を行うといった流れでしょう。

宝暦10年(1760年)生まれで、文化5年(1808年)没
東京の玉林寺(台東区谷中1-7-15)に眠っています。

なお、彼の門弟の一人が、間宮林蔵です。

 
粟屋貞一
元々は、長州藩台所頭を務めていました。明治になり、毛利藩のあぶれた人たちを連れて、北海道の開拓、特に余市川流域の開拓に奔走した人です。赤井川村という日本で唯一噴火口の場所に村を作っていきます。

粟屋貞一は、赤井川村の開祖として、沢山の長州藩士を食べれるように奔走します。

明治45年春に、一度生まれ故郷の萩に戻るのですが、翌年には、朝鮮半島に渡りウナギの養殖を手がけます。大正2年(1913年)に没します。

大江神社の赤松は、郷里の山口から持ち込んだそうです。それを移住者と一緒に、植林し、今に至っているとのこと。

原野に入植だったので、防風林として植えたのか、燃料として植えたのか、故郷が懐かしくて植えたのかは不明です。

大江神社境内の赤松群
仁木町大江2丁目445番地