Wriezenのサクラ Koyenuma-Masters
旧東ドイツに位置し、ポーランドの国境に近いベルリンの東側にあるWriezen(ウリーチェン)市のサクラ。このサクラはもちろん自生のサクラではありません。一人の日本人の為に植えられたサクラなんです。
昭和21年3月8日に37才で永眠された肥沼信次(Koenuma Nobutsugu)医師への感謝の気持ちから植えられたサクラなのです。
肥沼信次は、明治41年10月9日、東京都八王子市生まれ。日本医科大学を昭和9年に卒業した後、東京帝大医学部放射線医学教室にて放射線医学を専攻。そして、先進国であるドイツへ留学。その後、フンボルト財団の奨学生として、放射線の研究をしていたそうです。
昭和20年5月9日ドイツの降伏によって戦争は終わりましたが、違う戦いが待っていました。感染症です。栄養状態も悪化し、敗戦のショックもあって、またドイツ本国に歩いて戻る人たちは疲労困憊でした。そこに、チフスを始めとする病魔が人々を襲ったのです。
その時、患者の治療に当たったのが、肥沼信次医師だったのです。現在はWriezen市役所になっている伝染病医療センターや難民収容所を中心に活躍されたそうです。しかし、彼自身も発疹チフスにかかり倒れました。しかし、自分への薬の投与は断り、他の患者に回すように指示したそうです。
そして、最期の言葉が、「サクラが見たい」だったそうです。
東ドイツが崩壊した1992年に、ウリーツェン市は肥沼医師に名誉市民の称号を与えました。狂産党政権下では、話すことすら出来なかったそうですが、お墓の花は枯れることがなかったそうです。
肥沼信次博士の偉業を称えて
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海岸林inドイツ
1319年で行われた砂丘固定がヨーロッパにおける最初の海岸砂地の開発、海岸林造成らしい。場所は不明。多分、デンマークとの国境付近の大西洋側だとは思うのですが。
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街中に果樹を
政治の一番は、安心=飢えないことだと思います。
農村は別にして、都市部で上が発生させないためには、公共の場に食べ物があることです。
18世紀中期に、フリードリヒ大王は、貧しい人々のために、果樹を植えることを奨励しました。ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアも同じように、果樹を植えたのです。
大部分は、リンゴが占め、洋ナシが1/4、残りはスモモやサクランボで構成されています。なので、300年ものの大木は、その当時のものです。
その後、ナチス時代の1930年代にも有事に備えて、植林したそうです。
http://mundraub.org/
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世界最初の鉄道防備林
世界最古の鉄道防雪林は、ドイツ中西部のアルテンベッケン (Altenbeken)と、パーダーボルン(Paderborn)に設置されます。
導入させた樹種は、下枝が下方に伸びるドイツトウヒ。
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入会権に首を突っ込むマルクス
生きる努力をしないで、金持ちの施しで生計を立てていたカールマルクス。彼の貧乏人のひがみからの理想論が、世界を混乱に招いた張本人です。人の欲望が理解できなかった駄目人間なのですが、一部の人には神様扱いです。
そんなマルクスも、入会権に首を突っ込みます。ライン州の森の中で、たき火用に枝葉を集めている農民が、地主から窃盗罪で訴えられるという事態に遭遇します。ライン新聞(Neue
Rheinische Zeitung)の編集者であったマルクスは、この問題に首を突っ込みます。
当時は、産業化によって、木質資源もお金を稼ぎます。それまでは、多少のお目こぼしは合ったけれど、管理された森林から出る物は、全て所有者の物という考えに「木材窃盗取締法」を州政府が決めたのです。州政府は、金持ち側でしたので。1840年代にライン州議会で「木材窃盗および土地所有の分割」に関して討議されて、誕生する法律なのですが、土地所有が明確化なる中、なぁなぁだった関係が清算されるようになったのです。
まぁ、貧乏人からすれば、ここまでしか使えない状態から、ここまでなら大丈夫だよね、もうちょっと使っても大丈夫だよねと、所有者側の配慮を超える使い方が増えてきたからともいえます。
マルクスは、落枝は、木ではない。人の管理下から離れた存在であると。よって、落ちた枝は木材ではない。=窃盗とはならないという結論になります。落葉落枝には、人の意思が介在しないからです。
まぁ、結局は、寛容だった国王フリードリヒ・ウィルヘルム4世を中心とする社会が、検閲を再開することで、廃刊になっていったのです。
森林所有者側に、社会良しの精神があれば。貧農にも自立できる術があったら。キリスト教やユダヤ教が貧しい人を助けようという考えが合ったら。と無い物ねだりですが、社会・共産主義国家の誕生、土地の国有地化と住民排除などは起きなかったかもしれません。
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無くした十字架とバラ
敬虔王ルートヴィヒは、雪の中のヒルデスハイム周辺で、狩りを楽しんでいたのですが、聖遺物を填め込んだ十字架を落としてしまうのです。この時、王が叫びます。「十字架が見つかった場所に礼拝堂を作ると」。
翌日、周辺が雪だらけの中、森の中から忽然とバラの咲き乱れる茂みに遭遇。すると無くした十字架があったのです。
結果、そこに礼拝堂を設けます。これが1000年のバラというグリム童話の話ですが、ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂(通称ドーム)には、樹齢1000年以上のヨーロッパの原種であるバラ(Rosa
canina)が残っています。
第二次世界大戦中の1945年3月22日に爆撃で聖マリア大聖堂が破壊され、バラの木も燃えてしまったそうですが、根は生き残り、2カ月後には芽吹き、白い花を咲かせて、地元の人の心を勇気づけたそうです。
元々、バラの木に対する地元信仰が有り、それを9世紀にこの地方をキリスト教を企むカール大帝が、バラをうまく利用して、北ドイツの布教の拠点にしたようです。カール大帝三男のルートヴィヒが王位に就くのが、814年、この地に司教座が置かれるのが、815年のこと。
このルートヴィヒは、Ludwig Iであり、778年生まれで、840年6月20日没、フランク王で、フランスルイ王朝の最初の人、ルイ敬虔王(敬虔帝)とも呼ばれています。敬虔王と呼ぶには、どうしようもない馬鹿だったみたいです。キリスト教ではないものは、燃やして捨てるなど、宗教馬鹿だったみたく、地元民の信仰の対象であったバラの木を残すために、部下の作り話だったかもしれませんね。
グリム童話とは別の説では、マリアの遺髪が入った聖遺物入れを狩りの最中に落として、見つかった場所がバラの園だったとのこと。
バラ自体は、香りが良く、人を惑わすと言うことで、キリスト教的には、駄目な植物、追放しなければならない植物です。とはいうものの誘惑には勝てなくて、修道院のみ栽培していたとか。そういった背景があったのかもしれません。バラの木を残すため。嘘も方便という所でしょうか。
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折り紙の発祥地?
折り紙の発祥地の一つとしてドイツのドレスレンという説があります。ドレスデンの貴族クーゲルゲン家が、所蔵していたのが理由。
1840年頃には、騎士と馬という折り紙が誕生しています。
ORIGAMIとして有名ですが、紙の使用頻度が日本が多く、その結果、色々な作品が生まれたと言えます。
日本ではなく、スペインという説もあります。
日本の平安時代に折り紙という言葉はあったのですが、それは、紙を折った手紙や目録のこと。
?寛政9年(1797年)京都の吉野屋為八によって初版が発行された、連鶴49種を集めた書「秘傅千羽鶴折形」が、現存する中で分かっている折り紙の解説書と言われています。
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