県木:トチノキ Aesculus turbinata |
県花:ヤシオツツジ Rhododendron pentaphyllum var. nikoense |
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興野隆雄 | ||||
関根矢之助 坪井伊助 |
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興野隆雄 黒羽藩の重臣。造林方法を研究して、実生苗の育苗方法を黒羽藩内に定着させ、スギ造林、ヒノキ造林の基礎を固めた人。 その集大成が、「太山の左知(とやまのさち)」。嘉永2年(1849年)に発表。机上の空論ではなく実地体験によるもので、義父の隆中と一緒に作成。自身の体験だけで無く、技術体系をまとめた後、江戸の植木職人や吉野林業まで足を運び、育苗や造林に関して内容を濃くしました。周りの声を反映させたものだったのです。 18世紀後半には那珂川の水運の発展から江戸経済圏に取り込まれ、その需要を満たすための造林でした。丸太ではなく板材を出荷するために、大径スギ材を生み出すために2間(3.55m)とい広い間隔での植林を推奨。 1町歩750本の植林。1ha約800本という粗密度での植林が理想的。飫肥杉林業より広い間隔です。 寛政2年(1790年)生まれ文久2年(1862年)没 生涯に植えたスギの木は18万本以上とのこと |
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関根矢之助 今市市大室の人 江戸幕府から明治政府に移行する頃の人。1803年4月17日生まれで、「農家用心集」の作者。この書は、飢饉に対する救荒を目的とした書で、いかにあるべきかについて、村の名主の責任としてかかれたもの。 農民の日々の暮らしだけでなく、飢饉の際に対してあわてないための保険のような本なんです。 そんな中で、飢饉、病気、火災等、予期せぬ事態に出くわしたときに、お金がないと何も出来ない。そうならない為にするために、木を植えようと気があれば、いざというときのお金が入ると 農家に対して、植林とは、一種の保険で資産確保の、いざというための資産として植林を勧めたのです。 農家の裏山にある森林は、今は材の価格が低いですけど売れないわけではないですから。いざという日のために手入れを怠ってはいけないとのこと。 飢饉の際に一番の問題は、食べるものが無くなるのではなく物価の高騰で購入出来なくなること。お金をいかに貯めておくか、そんなことも農家用心集には書かれています。 |
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坪井伊助 鬼怒川に水害防備林を作るために立案した人 天保14年(1843年)に、美濃国池田郡本郷村の庄屋にうまれます。農民指導者として、江戸から大正にかけて活躍しました。 明治時代、小作人と地主の衝突が激しい岐阜県において、彼の所だけ(?)は、小作人との争議は発生しなかったそうです。小作人が倒れれば、国も倒れるという信念の元、小作人にも目を配りながら、土地開放、邸宅の開放、農機具の供与等、地主側でも、小作人側でもなく、国の行く末を考えて行動した人だったそうです。食糧が安全に提供されなければ、国が不幸になるからです。時には、国会にまで実情を説明し、より良い農村社会作りに貢献しました。こんな感じだったので、坪井氏の影響下にある地域では、社会主義者も手を出せなかったそうです。 特に、竹の研究・改良に生涯を捧げ、竹林翁と呼ばれていました。明治14年(1881年)には、竹林の試験地と、標本園を作ります。 そのような研究成果を活用するため、大正2年(1913年)に洪水で悩む鬼怒川に対し、竹を用いた水害防備林を提案したのです。 大正14年(1925年)1月5日に83歳で人生を閉じます。著作に「竹林造成法」「竹類図譜」があります。大正2年(1913年)に出版された実験竹林造成法は、30年の研究の集大成で、今なお竹の研究に必要なバイブルとなっています。 |
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