静岡県  
  県木:モクセイ
Osmanthus fragrans
県花:ツツジ
Rhododendron aureum
 
森を作った人・守った人    
杜(森)の話
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  名も無き人々in浜岡町       
  山住大膳亮      
  増誉長円&若山牧水      
  寺田彦太郎      
  楊張平左衛門親子      
  金原明善      
  今村伝四郎正長       
  松平定信       
  鉄牛禅師
     
名も無き人々in浜岡町
太平洋側に広がる砂丘の一つである浜岡砂丘は、天竜川からの土砂が沿岸潮流に流され、『遠州の空っ風』(西風)によって運ばれて作られた砂丘なんです。

だから、砂はずっと供給されるんです。そして農地に家に砂が降り注ぐんです。1600年以前から延々と植林が続いているとのこと。
「人工斜め砂丘」と呼ばれる砂丘。斜め45度に「堆砂垣」を立てて西風をあてるんです。すると、風力が衰えた砂が堆砂垣に積もってゆきます。

砂の堆積が増えると、堆砂垣を追加し、砂丘を人工的に作ってゆくんです。

風に逆らわない方法なのです。







 
 
塩原新田の海岸地帯は昭和12年に陸軍の遠江射撃場として強制買収され、敗戦後一括払い下げで、塩原新田の財産区として管理しています。
昔は、薪取りとして利用。ついでに松露も。
クロマツ植林は県が主導で、地元は労働力の提供。

財産区ということで、ここの住民は、堤植えの義務役があるのです。春ソダ、秋ソダと言って砂の固定を行っています。ソダ(粗朶=枝を束ねたもの)農閑期の作業だそうです。


浜岡町のホームページ
http://www.town.hamaoka.shizuoka.jp/

島田信用金庫
http://www.shimashin.co.jp/
ふるさとインフォメーション
http://www.shimashin.co.jp/13town/meisho/hamaoka/sakyu/sakyu.htm

 
1代で35万本のスギ・ヒノキを植林
山住大膳亮
愛知県と、長野県の県境に位置する水窪町の山住神社の宮司。元禄9年(1696)年、紀州熊野権現への参拝の帰り道、スギやヒノキの苗木をたくさん買って自分の神社のまわりに、ひたすら植林をしたそうです。

なんせ、周りの山が幕府御用材の乱伐で荒れ山に・・
天竜林業は、もっと古く文明元年(1469年)に犬居町の秋葉神社での植林が最初といわれているのですが、明治時代に入って山住杉といってブランドとして東京で売れたとか

このおかげで、明治時代の天竜林業の発展の後押しになったそうです。

 

増誉長円(ぞうよちょうえん)&若山牧水
沼津市の千本松原を作った人
乗運寺(沼津駅から海岸へ)の住職で1537年に寺を開いた人。

もともと森があったのに戦乱で荒れたとか武田と北条の戦いのせいで

住民が潮の害で困っているということで、南無阿弥陀仏と書いた小石を砂に埋めて、その上に念仏を唱えながらマツ1本につき、阿弥陀経を1回唱えるという世にも変わった念仏植林で、防潮林を作ったんです。

ちょっと想像したくない光景です。

1580年に89歳でなくなるまで、気がつけば、1000本植えて、今の千本マツになったんです。沼田市にとって無くてはならない松林

若山牧水は、大正15年にこの松林の一部を建築用材に伐る話が持ち上がったとき、「千本松原位ゐ見事な松が揃つて、またこの位ゐの大きさ豊さを持つた松原は恐らく他に無いと思ふ」と新聞に投稿し、伐採を阻止したんです。若山牧水は、この松林の近くに眠っているとのことです。






  松の木十本二十本
  百本千本一萬本
  ぽんぽんあがるは揚花火
  あがってはじめて下り龍
  龍のいるのは富士の山
  富士の山から下見れば
  三保の松原田子の松
  松の木十本二十本
  百本千本一萬本
  ぽんぽんしかって下さるな

 子守唄(若山牧水作詞)

沼津市のホームページ
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/
 http://www.city.numazu.shizuoka.jp/bunkazai/shiseki/zouyo.htm
 http://www.city.numazu.shizuoka.jp/bunkazai/jiinn/jyouun.htm

 
寺田彦太郎
金原明善を支えた人


 
楊張平左衛門親子
1681年から1912年まで遠州灘に沿った海岸で植林

資料が無くてすみません


 
植林だけはなく更生保護事業でもすごい人
金原明善
天竜川の治水を行ったことで有名ですが、それとともに、今日の更生保護思想の源流を担った偉人です。

すごいのは、36才になった明治元年に私財(5万6千円)をなげうって、堤防を作りました。さらに7年後の1874年に、オランダ人技師リンドウと天竜川上流を調査し、植林の重要性を知り、そして実行したのです。
官有林にスギ250万本、ヒノキ50万本も寄付し、さらに周りの山にも植林を行ったのです。
苗木1本50円としても、1億5千万 すごい

その後、天城御料林を頼まれて植林を行ったりと、静岡を始め愛知、岐阜でも足跡を残しています。

余談なんですけど、
焼畑が山を荒らすという間違った認識を持っていて岐阜県の揖斐川上流で細々と生活していた人を追い出したこともあったんです。実は濃尾地震の影響で山が崩れたのを焼畑のせいだと勘違いしたとか

いくつかの山村を滅亡にも追いやったんです。
ちょっとした負の話ですが・・・・





 
今村伝四郎正長
下田港といえば、江戸時代の海の関所。江戸に入る船のボディーチェックの場だったんです。そのため、ペルーが来た後、領事館が造られたのも下田。歴史的に重要な場所だったんです。

そんな下田ということで、港の機能低下は一大事。
下田奉行2代目の今村伝四郎正長が周辺の山に植林したんです。一つは、土砂流亡をふせぎ、港が砂に埋まらなくなること。船の入らない港はダメですからね。
そして、もう一つは、新鮮な水を安定的に提供するための植林。船乗りにとって大切なのは、水の確保でもあるんです。新鮮な水がなければ働けませんから。

城山公園の木々は、植林した山だそうです。また、鵜島(下田城跡)に松を植林して防風林と魚付き林を作ったんです。その後、御用林となり、明治に入り皇室御料林、そして保安林をへて、明治29年(1896年)に下田公園になり一般公開となりました。

また、赴任当時防波堤が無く、高潮の被害に遭っていた下田の町に、寛永20年(1643年)から正保2年(1645年)の防波堤づくり(武ガ浜波除け)の大工事も功績の一つ。しかも、足りない資金は私費で賄ったんです。3年の年月をかけて作った防波堤は、長さが540m、高さ3m、幅3.6mで、武ガ浜にいまも残っています。


了仙寺にお墓があります。







下田城(鵜島) 昔は海賊の居城

この松の木は、2代目?、3代目?
 
松平定信
稲取温泉の磔の松or海防の松を作った人。
海外の船が植民地を念頭に見に来るため、松林のカーテンを作ろうとしたんです。船から覗かれないように。

寛政5年(1793年)に老中であった松平定信が植えさせたんですが、気がつけば防風の効果のある防風林になってしまったんです。40年生の松を持ってきて植えたようです。植栽と言うより移植といえるのかもしれません。

田沼意次と対立し、質素倹約という寛政の改革を行った人として有名ですが、白河藩の藩主時代は、蕎麦を積極的に導入し、飢饉で周りの藩が苦しんでも餓死者を出さなかったり、間引きの禁止&赤子の養育、馬による地域興しなど、名君だったんです。ということで、白河蕎麦はこの人のおかげ。
ただ、老中時代に唱えた海防論のせいで、江戸湾警備のために藩の財政を圧迫したんです。

 
鉄牛禅師
治山治水に貢献

寛永5年(1628年)に山口県に生まれ、14歳のとき、因幡の龍峰寺で修行、その後、明暦元年(1655年)に長崎に行き、明からやってきた宗祖隠元禅師に師事します。

満治2年(1659年)号を鉄牛、名を道機と改め、寛文6年(1666)印可を与えられ、江戸の芝にある瑞聖寺、向島の弘福寺を開山している

この、鉄牛和尚は、千葉にある椿海の開拓による功績が認められ、寄進された東庄町小南にある福聚寺で晩年を過ごし、元禄13年(1700年)に73歳で永眠するのです。

駿東郡長泉町下長窪にある長窪山西願寺には、治山治水に貢献した人と紹介されています。