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ヨハネス・デ・レイケ | ||||
土井大炊頭利勝 | ||||
原勝、河田 杰、富樫兼治郎 | ||||
バードジー・グラント・ノースロップ&徳川宗敬 | ||||
杉山龍丸 アメリゴ・ホフマン コリングウッド・イングラム |
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ヨハネス・デ・レイケ(Johannis de Rijke) 1842年(天保13年)12月5日生まれ。オランダ南西部ゼーラント州の北ベーフェラント島、コリンスプラートの生まれです。 新しくなった日本。明治維新というか、西洋に唯一対抗できる国になるその基盤は、明治政府の国造り(基盤は江戸時代にできあがってはいたが)は、欧米から高給で人材を招いたからです。 その中の一人がオランダの土木技術者が、デ・レイケです。明治6年(1873年)に来日。淀川改修、大阪築港、木曽三川改修計画、常願寺川等々治山治水に腕をふるったのです。 「これは川でない滝である」日本の急流を指して叫んだといわれる人。でも本当は言っていないらしい。 ここの詳しい話は、草思社から出ている「日本の川を甦らせた技師デ・レイケ」上林好之著を見てください。 日本での洪水対策を立てるにつれて、根本の山林の荒廃が浮き彫りになったんです。徳川幕府の規制が効いていた山が混乱期のどたばたで、目先の利益のために農地に化けてしまったんです。 1880年(明治13年)4月7日に松方内務卿が淀川の上流、木津川の支流、不動川の水源。綺田山を視察した時の式典でのデ・レイケのメッセージ 「閣下、現在、下流に被害をもたらしている、ここに見られるような破壊、破滅は決して自然になったのではありません。人間の為せる業なのです。もし、住民が好き勝手にしてもよく、彼らの根こそぎ取ってしまうという習慣を、強力で厳格な法律によって乱伐を止めさせなければなりません。このままでは、次世代には、このあたりは砂だらけになり、下流部は危険で無用な川のある沼地にしかならないでしょう。すでに現時点でも、平野部下流でこの土砂による被害が大きくなっています。」 明治36年(1903年)に、明治政府より勲二等瑞宝章を授与され、約30年にわたる日本での滞在を終え、オランダに帰国します。大正2年(1913年)に、享年70才で、アムステルダムで永眠されます。 |
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土井大炊頭利勝 江戸時代の街道は松並木。 誰が松を植えるようにしたかといえば、大老土井利勝こと、土井大炊頭利勝。天正元年(1573年)生まれ、正保元年7月10日(1644年)没。 理由は、道でバタバタ倒れる旅人がいたから。直射日光を避けるためには何が出来ると悩んだ幕府は対策を立てるのですが、それが土井大炊頭利勝だったのです。 ちなみに、一里塚はエノキにしたのは、三代将軍家光の提案だったとか。一説には余った木を使えといったのを、エノキと聞き間違えたという説も(耳が遠かったらしい) だから、広重や北斎の浮世絵にある東海道の木は、松なんです。 |
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原勝、河田 杰、富樫兼治郎 海岸砂防を確立した人 |
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バードジー・グラント・ノースロップ&徳川宗敬 日本に緑化思想を持ち込んでくれたというより、国民運動として緑化を日本に根付かせた人。緑化そのものは寄進植林もあり、住民参加による入会林植林、学校林等それぞれ各地で行われてきましたが。 バードジー・グラント・ノースロップ(Birdsey Grant Northrop)は、明治28年に来日しアーバーデイ(Arbor Day:愛林日)の精神を文部次官の牧野伸顕に説明します。 元々、アメリカのネブラスカ州で始まった州民参加の植樹がアーバーデイの始まり。1872年(明治5年)からの16年間で6億本、40.5万haの荒れ地を森林にしたんです。これをコネチカット州の教育委員長であったノースロップが、学校教育の一環として植樹することにしたんです。アメリカ国内で広まったばかりではなく、カナダ、ニッポン、南米、ヨーロッパにも伝導(かれはプロテスタントの牧師でもあったんです) 明治28年(1895年)の11月3日を明治政府は「学校植栽日」としたんです。明治天皇の誕生日なんですけどね。そして牧野伸顕は、全国の学校に学校林設置の訓令を出しました。明治31年(1898年)、本多静六の提唱によって神武天皇祭の4月3日に変更。昭和8年(1933年)には、4月2日から4日の3日間に。これには、当時の大日本山林会会長・和田国次郎、農林次官・石黒忠篤、山林局長村上竜太郎の働きで翌年から開始。最初は茨城県から。日露戦争の時に一時中止になるが、第二次世界大戦が激化する19年に中断。 しかし、戦後、徳川宗敬(明治30年生まれ・東京帝国大講師・貴族院副議長、参議委員:緑化の父)を中心とした森林愛護連盟(昭和22年結成)、昭和25年には国土緑化推進委員会(後の国土緑化推進機構)による全国植樹祭に受け継がれ、昭和52年(1977年)には植樹だけでなく育樹祭も開始と今に至っています。 天皇陛下、皇太子参加と今では世界に誇れる日本の緑化運動の原点を日本に根付かせてくれた人なんです。 |
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杉山龍丸 インドで植林の父(Green Father)と呼ばれる人物。 大正8年(1919年)5月26日生まれ、昭和62年(1987年)9月20日)没 私財を整理してインドで植林。 |
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アメリゴ・ホフマン(Amerigo Hofmann) オーストリア(1875年)生まれで、明治38年(1905年)にに日本に来た治山の専門家。愛知県瀬戸市などにホフマン工事という禿げ山の復旧に技術支援をした人。 イタリアの森林官をへて、1945年に没します。 ホフマン工事とは、山腹面への植栽は行わず、土砂の浸食や崩壊をある程度まで自然に任せ、渓流を安定した勾配に導いた後、渓流と山裾を固める工法で、当時オーストリア及びフランスで広く用いられていました。費用は抑えられるのが長所で、時間がかかるのが短所の工法といえます。 |
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コリングウッド・イングラム 日本の桜を守った英国人。おかげで、太白という品種は、一度日本で絶滅したのですが、英国で保存しておいたお陰で、今も日本にあります。 |
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