大分県    
  県花/県木:ブンゴウメ
Prunus mume var. bungo
   
森を作った人・守った人    
杜(森)の話
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  小笠原忠知
佐藤甚兵衛
九州水力電力社
賀来惟熊
     
  中條石太郎      
  横田穰      
         
住民参加型林業とは、こうすれば成功するのでは
小笠原忠知(おがさわらただとも)
マツの苗木1本植林すると、大麦が5升(1升ビン5本・9リットル)がもらえる。こんな噂を聞いて、たくさんの農民が国東半島の海岸沿いに植林を行いました。
時は、寛永13年(1636年)のことだったそうです。
場所は、6万石杵付藩(今の大分県杵築市)という小さな藩でしたが、藩主の小笠原忠知のアイデアで、海岸防風林作りが着手されました。

(臥牛城ともいわれる杵築城)

それまでは、ただ働きというより強制労働だった農民は、にわかに信じられなく疑っていたのですが、庄屋の蔵に城の穀物蔵より大麦が配われるのを見て、信じてみようと思いました。

目の前に食料がならべられれば、あとは、もらうだけ。試行錯誤を重ねながら、海岸に立派な松林を作ります。そのおかげで、水田や畳表に利用する植物(シチトウイ)を栽培し豊かな藩の基盤を作りました。

松の苗1本につき海岸林造成には麦5升。山の植林は3升。寛永13年(1638年)には日向より松の苗を調達したと「豊城世譜」に記されているとのこと。ただ植えれば、苗木を置けば良いというのではなく、ちゃんと活着しなければなりません。丁寧に植える必要があります。山の植林の方が少ないのは、それだけ海岸の植林が難しかったことを意味しています。

今、 世界の途上国を中心に国際機関、民間団体によって植林を行っています。日本の国際援助機関であるJICA(国際協力機構)でも住民参加型林業といって、社 会林業、ソシアルフォレストリー、コミュニティーフォレストリーといって、プロジェクトを行っています。しかし、最近は落ち着いてきましたが(怪我の功 名?)10年前までは、いろいろ試行錯誤を重ねて、今に至っているのですが、いかに、住民にやる気を持たせるようにするのかという問題を抱えています。も ちろん、JICAだけではなく、各援助機関も同様な悩みを持っていますが・・・・

やはり、金か食い物で釣るしかないのでは、と思うのですが。いかに、薪炭林を作る必要性や、防風林の必要性を教育という名で教えるより、結果が後から付いてくるような気がしないでもないんですけど・・・・・・・・・






奈多海岸の一部


 
佐藤甚兵衛
宝暦6年(1756年)〜明和7年(1770年)の14年間に今の兵庫県三田からスギを取り寄せ、荒廃地に植林約3万本のスギとヒノキを佐伯藩に献上した大庄屋さんだそうです。
 
ここまでしか情報がありませんのでどなたか情報下さい

 
九州水力電気会社(今の九州電力)
大正8年(1919年)に将来を見据えて、水源の確保のため一大決心。「水力の基礎は水源を養うことにあり」という思想のもと開拓された大分牧場地を買収して、草場から森へ。

電柱用にスギと、コルク用にアベマキを植林。
今は、九州電力から子会社の九州林産が管理をしているとのことです。

九州林産のホームページ
http://www.q-rin.co.jp/

九州電力
http://www.kyuden.co.jp/

持続的に水を確保するために企業自らが土地を買い、森を作った例としては珍しい事例です。


 
賀来惟熊(これたけ)
植林事業や水路の開発、大砲の鋳造を成し遂げた実業家賀来惟熊。殖産家という立場から、植林を周囲に進めたそうです。もちろん、本人も実践します。

幕末の1796年、宇佐郡佐田村、現在の安心院町生まれ。外国からの脅威を取り除くために、自費で反射炉を作った人。しかも図面のみでという話。しかも庄屋出身。

賀来飛霞は江戸末期から明治にかけて日本の本草学を大成させ、近代植物学の基礎を築いた人物。全国の山野を歩いて採薬(調査研究)の旅を続け、多くの著作を残しています。 この人の従兄弟です。


 
中條石太郎
国東半島の先にある姫島に木を植え、魚付き林を作り、島を豊かにした人です。
元々、裕福な島だったのだが、江戸時代末期から貧しい島になってしまいます。慶長年間から塩田が出来、燃料として山の木々が切られたことも大きな要因の一つです。それ以外にも、瀬戸内海特有の山を棚田(畑)にしてサツマイモを栽培したのも森を無くす一因でした。
当時、郵便局長であった中条石太郎は、貧しいのは周囲に魚がいないからと言うことで、木を植え、魚付き林を作ることを決意しますが、島民には理解してもらえませんでした。

島の初代郵便局長と言うことで、江戸時代から続く地元有力者、庄屋様です。一目置かれていたこともあり、村の共有地と海岸に、自費で10万本の苗木を集め、植林します。島の中央に位置する矢筈岳の緑もその名残とか。彼自身で全てを植えることは無理ですので、これも自費で人夫を雇い、植林しました。

明治15年(1882年)に、木を伐るなと周囲に言うのですが、守られませんでした。明治24年(1891年)に森林組合を作って森作りを始めます。この背景には、明治19年6月19日に出された大分県漁業組合準則の中に、第30条の第1項、第4号に「海岸樹林保護ニ関スル事」が載っています。この様な情報を持っていたこともあり、魚付き林と漁業の関係を理解していたと思われます。

「盗伐が行われれば森が成林した」という迷言がありますが植栽木が一定の大きさまで生育すると、貧しい島民は燃料のために違法伐採を始めます。そこを取り締まっていったのが、中條石太郎です。植栽から30年間は木を伐らない「姫島村山林原野樹木保護規約」をつくり、違反者は警察に突出し、五十銭の罰金を払わせます。加えて、日本刀を持った彦兵というガードマンを雇います。

結果、恨みを買って島民からは石を投げつけられることに。しかし、元庄屋としてのプライド、地元の振興を信じて続けました。

まだまだ、地域のためにする事があったのですが、明治33年(1900年)に54歳で永眠してしまいます。

なお、姫島には、梅雨時期に最盛期を迎えるスズキ漁の時は、海岸線一帯の下草(牛の秣)の刈り取りを禁止等、様々なルールがあるそうです。

世の中、お天気な人は、話し合いで解決できると言います。でも、話し合いは同じ土俵に立たなければ出来ないというのを理解していません。本当に正しいことは、有るかどうかは分かりませんが、現状をなんとかしなければ先に進めない場合、話し合いでは何も出来ないのです。でも、お天気な人には理解できないんです。残念です。



出展元「大分県漁協姫島支店」
ご協力「大分県農林水産研究指導センター水産研究部」
おおいたAQUA NEWS No.9 2000.1

姫島村山林原野樹木保護規約(明治20年1月)
    超訳 
第1条 本村山林原野の樹木保護の為、私有共有地をとわず、毎年間十一月一日より十二日迄が伐採期限と定め、以外は一切禁伐とするものとす。但し、伐採期限といえども、立枯木に限り、外は根切りすることを得ず。 村内の森林は、11月1日より12日まで間しか伐採してはいけない。それ以外は、禁伐期間とする。
但し、立ち枯れ木は伐っても良いが、根起こししてはいけない。
第2条 禁伐期間といえど、家屋普請の為或は成木の山林を売却せんとするものは村長に純分請願の上、許しを請うおのとす。 家を作るために木を伐る、もしくは売却する場合は、村長にきちんと理由を話し、許可を得ること
第3条 各区一人、村長の指名を以て、山林原野樹木保護監視人を置き、毎年一回地区内を巡視するものとす。 集落から1名、村長の指名の元、監視人を出し、毎年1回は巡視すること
第4条 村長は、毎年一回監視人を引率し村内の樹木保護について巡視せんものとす。 村長も監視人を引き連れて巡視すること。人任せは駄目
第5条 第二条に違反したものは、違約金貳を出さしめ、その違反の旨知りて監視人或は村役場願上げ、巡査に受けさせるもやむなし。
但し、家族の違反者は、戸主の責任とす。
違反者は、罰金を取り、警察に突き出すこと。家族の場合は、世帯主が責任を取ること
第6条 本規約実行を計るため、積立金の保護を受けるものとす。 積立金は大切に
第7条 本規約を確立する為に、総ての山林原野所有者署名捺印するものとす。 全員の同意が必要

 
横田穰
慶応1年4月11日(1865年)に徳島の川島町生まれ。昭和25(1950)年5月6日に別府で没。