県木:スギ Cryptomeria japonica |
県花:ナラノヤエザクラ Prunus verecunda |
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役小角 | ||||
豊臣秀吉 | ||||
普照 | ||||
役小角 吉野を桜の名所にした人 金峰山で修行し、金剛蔵王権現の尊像をサクラの木に刻み、悪魔降伏の本尊としたそうで、それ以来、吉野のサクラを神木に指定し、「吉野=サクラ」 日本人=サクラの基礎を作ったとか |
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豊臣秀吉 1594年に吉野に1万本のサクラと管理するための費用を寄進する。政治家が、寄進するという行為は、ほかにもありますが。さすが秀吉、やることがすごい |
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普照 興福寺の僧として、天平5年(733年)4月の第9次遣唐使となって帰国後、東大寺の僧に。帰国後、唐で見てきたことを平城京で実践するため、天平宝字3年(759年)に、提言しました。 提言内容は、「道路、百姓の来去絶えず。樹、その傍らに在らば、疲乏を息むに足る。夏は則ち蔭に就きて熱を避け、飢えれば則ち子を摘みて之を?う。伏して願わくは、城外道路の両辺、菓子の樹木を栽種せんことを」とのこと。 人の往来のある街道に食べられる樹木を受けることで、都に税金である調庸物等を運ぶ国民が道中で食に困らないように、行った対策と言えます。 果樹を植えれば毎年実ができます。食べられるor薬になる=無闇矢鱈に伐採されないということで、果樹(柿、橘、梨)を中心に植栽させました。 実態としては、地方から調庸物等を運ぶ際に飢えで苦しんでいたとも言えます。だから、この様な対策が生まれたのでしょう。街路樹の歴史としては、世界的には異質であったと言えます。周の時代には李や桃が植栽されていたとのことですが、その後は松や柳などが占めます。 日陰や道しるべという意味合いが強い中、救民政策としても街路樹を作ったのですから。 日本人的というか、使える木を植えていたと言えます。イチョウ並木は防火帯として、火事対策ですし、銀杏も食べれますから。 しかし、役に立つはずの木も、時には伐採されていたとのこと。理由は、燃料不足だったのかもしれませんが。 鑑真一行の渡航を懇願した僧の一人としても有名。 |
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