茨城県  
  県木:ウメ
Prunus mume
県花:バラ
Rosa rugosa
 
森を作った人・守った人      
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角彌太郎・久原房之助・関右馬允
土井利勝
木村彌次衛門・沼田伝蔵
河田杰 
熊沢蕃山

     
 
角彌太郎・久原房之助・関右馬允
久原房之助といえば、日本を代表する実業家&政治家。別名、鉱山王とも呼ばれます。その鉱山王が手に入れた日立銅山は、足尾銅山、別子銅山、小坂銅山の四大銅山の一つとして、日本の富国に貢献しました。

元々赤沢鉱山と呼ばれていたのですが、技術不足と鉱毒水問題で、農民との衝突もあり、細々とした経営だったのです。そこを、明治38年(1905年)に、手に入れ、最新機械を入れ、近代的経営によって、大規模な銅の生産が始まります。
余談ですが、この時の機械の修理をしていたのが、今の日立です。

銅生産が始まると、亜硫酸ガスが発生し、周りの木々が枯死し始めます。煙害が発生するため、その対症療法が、大煙突になります。そして、気象観測をしながら、海に煙が流れるように、周囲の農作物に悪影響が生まれないようにする経営がなされたのでした。

その一方で、禿げ山になってしまった周囲の山をなんとか緑にしなければなりません。草が生えるけれども、野火になりやすい。水土保持能力が無いため、土砂崩壊+洪水ということになります。大煙突をはじめとする煙害対策技術を進める一方で、緑化にも力を入れます。

色々な植物を植えても、亜硫酸ガスでやられると言うことは、火山ガスと同じであるとの結論から、火山ガスに強い樹種の導入に努めます。それが、大島桜です。自前の農事試験場で、樹種の耐煙性を調べます。

基準 樹種
最も強い ヒサカキ、ツバキ
強い ヤシャブシ、ミズキ、コナラ、オオシマザクラ
普通 クロマツ、シロカシ、スギ、ヒノキ、サワラ、クヌギ、ホホ
弱い アカマツ、カラマツ、アカガシ、ウメ、ビワ
話にならない クリ

とのことでした。明治41年(1908年)に、伊豆大島から、オオシマザクラの苗を取り寄せ、住宅や街路樹として試験的に植えます。その後、明治44年(1911年)に、苗木生産を開始、大正4年(1915年)に、試行錯誤の結果、満足できる苗木を作り出すことが出来るようになりました。

植林は、明治42年(1909年)から開始。工場の背後の禿げ山に、杉の皮で地表を覆って植えるのですが、うまくいかず、明治43年(1910年)に林野庁(東京大林区署)からも技術支援があり、オオシマザクラ2万本、ニセアカシア4万本、山ハンノキ3.5万本、ハゲシバリ3千本を植えます。

煙害で駄目になった土地を買い上げ、そこにも植林していくのです。被害が低いところには、杉、クロマツ、オオシマザクラを植えます。

さらに、クロマツ、オオシマザクラ、スギの苗木を513万本用意します。それを、無償配布します。

もちろん、農業にも被害が出たため、煙害に強い農作物は何かを調べ、農民に配りました。この様な対応の陣頭指揮を執ったのが、角彌太郎なのです。

また、関右馬允は、農民側代表です。通常は荒れる問題をはらむのですが、両方膝をつき合わせて、鉱毒被害を解決していったのです。新田次郎の小説「ある町の高い煙突」(1969年刊)の主人公関根三郎のモデルです。

今では、立派な山になっています。そして、春には桜の名所です。なんとなくすごいなぁと思うのは、JX日鉱日石は、あまりアピールしていないことです。住友林業の別子銅山跡、林野庁による足尾銅山の緑化などは、有名なのですが。

なお、日立市にある角(かど)記念市民ギャラリーの画家、角浩の父親が、角彌太郎です。

 




鞍掛山より


日鉱記念館
http://www.nmm.jx-group.co.jp/museum/
    
土井利勝
元亀4 年(1573 年)3月18日、誕生。
寛永21年(1644 年)7月10日、大老のまま没
古河といえば、桃。その基礎になったのが、古河藩主の土居利勝です。
慶長年間に、長谷、牧野、鴻巣周辺の農民の暮らしが良くなるようにと桃を植えさせたのが始まりだったそうです。
桃栗3年柿8年ということで、3年で現金収入。

古河総合公園がその功績を称えて(乗っかって)、3月中旬頃からもも祭りをしています。

詳しくは「こがナビ」でチェック

なお、桃の苗は、江戸市民が食べていた桃の種をかき集めたそうです。









木村彌次衛門・沼田伝蔵
久慈川の水害防備林を作るきっかけになった人物。文久2年(1862年)に辰ノ口に住んでいた木村彌次衛門は、洪水の跡を見回っているときに、竹の根が残っていたのに気付きました。

竹が制水してくれ、土砂や流木をくい止めてくれたからか、水害被害が最小になると考えたそうです。
それに加えて、竹を売れば収入も入ります。籠から釣り竿、ザル等々、竹細工で人は生活していましたから。ということで、久慈川の水害防備林として竹を植えることになりました。

一方の沼田伝蔵は、小倉村の庄屋になった文政3年(1820年)に、堤を作るとともに、真竹や柳の植栽を行いました。当時は、毎年氾濫が発生し、田畑が、土砂で埋まる事態だったそうです。そのため、竹を通じて、流れ込む土砂を防ぎ、田畑を守ったとのこと。

久慈川水害防備林についてはこちら

なお、水戸藩は、辰ノ口や岩崎江堰を守るために、蛇籠が必要。竹で編んだ籠に、小石を入れて、堤防を守る水制工として利用したのです。蛇籠の材料は竹と言うことで、久慈川の竹林は、御立山として、藩有林として保護したそうです。
明治維新以降、周辺でも竹を植えられるようになったとのこと。開発が進んで災害が増えた結果だったのかもしれません。竹は4年目で伐採し、常に更新していたそうです。もちろん、最初の年に、印をつけるので、伐るタイミングを間違えることはありません。この様な管理の結果、立派な竹林と言うことで、大正天皇と昭和天皇の大葬の際に、斎場の竹垣の材料として、使われたそうです。



河田杰(かわだまさる)
東海村海岸砂丘の植林に半生をかけた人物。
明治22年(1889年)1月6日東京新宿生まれの林業技術者(博士)です。大正3年(1914年)に東京大学林学科を卒業後、目黒にある林業試験場に勤めます。その間、欧米に造林学の学びに留学もします。欧州の広葉樹施業などの情報を持ち帰られています。

大正8年(1919年)に、東海村の村松海岸に22万本のクロマツを植栽します。この時の植栽方法が「河田式造林法」として、砂丘の出来た経緯、地形に則して、適地適木で植栽していくというのを整理された造林法です。そしてまとめられたのが、「海岸砂丘造林法」という書物です。

海岸自体はもともとクロマツが植生していたのですが、明治中期以降乱伐や、砂丘の広がり(久慈川流域、那珂川流域の山の荒廃による大量の土砂の流入)で林相が貧弱化していきます。結果、農地や集落に被害が発生するに至ります。大正2年(1913年)から、干拓事業の一環で海岸林が造成されたのですが、失敗に終わったとのことです。

なんといっても、北東風の影響で、飛砂に苦しむ場所だったのです。砂は、荒れ川の久慈川から供給され続けられます。まず砂丘を止めることから始まり、砂だけでは植物は生育できないので、麦わらや稲わらを砂の中に入れ、地力を高めたのです。肥料を蒔くより経費が安い方法しか採れなかったのですが、出来るだけコストを抑えた方法と言えます。

その一方で、地表には敷き藁を実施。地表から水分が逃げるのを防いだのです。俗に言うマルティング効果です。

最初の4年は、砂防垣を作り、地形の整理に努めました。堆砂形成がされ、砂が止まれば、その風下から植林を始める方法です。

大正7年(1918年)に試験地が設置され、河田博士の着任は翌年。研究の結果が分かったことにより、大正14年(1925年)から事業として本格的に海岸林を造成したのです。

この方式は、茨城式とか、河田式と呼ばれ大正中期以降、砂防造林の規範にされました。

当時の村松村村長澤畠美畝と、那珂郡出身の根本代議士を中心とした陳情もあり、試験地として選ばれたのです。逆に言えば、日本5大ひどい場所の一つとも言えます。
青森県の屏風山、秋田県の能代、石川県大聖寺、鹿児島県吹上浜と、ここが砂防植栽試験地だったからです。

河田博士は、最後に青森県営林局長になります。昭和21年(1946年)に退官するのですが、東京教育大学、今の筑波大学の講師として、マツばかりでなく、人も育てます。
昭和30年1月16日、66歳で生涯を閉じますが、今なお、茨城を始め近接する千葉県などの松林は、生き続けています。


熊沢蕃山
 明暦元年(1655年)に藩主池田光政に治山治水の要を進言し、岡山周辺の禿げ山に藩の費用で植林や砂防工事を行った。翌年には、藩内にマツを植えるよう指導します。

 貞享3年(1686年)には今までの経験を書にまとめ、「集義外書」という山林の荒廃の原因は、製塩・製陶の増加、仏教隆盛による建築ラッシュ。加えて、民衆の経済的困窮と分析し、翌年に「大学或問」を書き上げ、山林の重要性は、経済的価値ではなく治山治水といった生活環境の保険として必要であると世に訴えた思想家です。

 この人は荒廃した山を緑にするために、鳥を使ったことがあります。鳥の糞には木の種が含まれているので、種をまいてくれる非常に便利な道具?ということで雑穀を地面にまいて、鳥を集めたんです。
 しかし、鳥は雑穀を食べただけで、糞も落とさず飛んでいったので失敗

 その反省を活かし、雑穀の上に藁を敷いて、鳥が餌を探す手間をかけさせるようにして、その場に糞を落とすようにしたんです。
この方法は、この間コスタリカで、牧場跡地を緑に変えるプロジェクトの紹介が、テレビで放映されていたのですが、そこで、そのプロジェクトの責任者の博士は、同じように鳥を用いる方法で緑化しようとしていました。種をまくのではなく、果樹をつかって、木になる果物に釣られて鳥を集めるという方法です。結構、その博士が自慢していたのには笑いました。だって、同じ事を300年以上も昔に熊沢蕃山は実践していたから昔の日本がひどかったのか、同じ状況では人間の発想は同じなのか、どうなんでしょうかね。

 なお、陽明学を基本にしていたため、江戸幕府の朱子学とは、相反する学問です。このため、幕府に睨まれ、明暦3年(1657年)に岡山藩を去ります。その後、40歳になった万治元年(1658年)京都に移ります。そこで、私塾を開くのです。有名人ですから、色々な人が来ました。中には、豊後国岡藩主中川久清から土木工事の技術指導にと、竹田に呼ばれます。万治3年(1660年)のことです。
 京都で活躍するも、幕府からは目をつけられているため、寛文7年(1667年)には大和国吉野山、続いて、山城国鹿背山に移り住みます。しかし、幕府の監視網からは逃れることが出来ず、51歳の寛文9年(1669年)に、神戸市西区にある太山寺に幽閉されます。播磨国明石藩主松平信之の預かりとなったのです。
 この時、一生懸命、これまでの成果をまとめました。寛文12年(1672年)に、「集義和書」、延宝7年(1679年)に、「集義外書」を刊行します。
 松平信之の大和郡山藩への転封に伴い、大和国矢田山に移ります。そして、幕府に睨まれているにもかかわらず、天和3年(1683年)には、大老堀田正俊の招聘が会ったそうです。結果は、辞退するのです。
 貞享4年(1687年)に「大学或問」が徳川幕府のやり方を非難したとして、松平信之の嫡子である下総国古河藩主松平忠之の下に預けられます。鎖国の無駄、金食い虫の参勤交代などが癪に障ったようです。
 古河藩に幽閉されるのですが、土木工事の技術者として、藩内を治水治山技術を教えていたとのこと。湧き水を一度集め、暖めてから田畑に配分する「蕃山溜」という溜池が茨城県古河市関戸に残っています。また、埼玉県加須市柏戸の出流神社(いずる)に、蕃山堤があります。渡良瀬川と思川が合流する付近は、洪水多発地であり、溢れた水が村々を襲わないように、湿地帯に誘導するために低い堤防を設置しました。
 元禄4年(1691年)に73歳で死去。藩主松平忠之公に手厚く鮭延寺に葬られました。