朝鮮半島、そして支那地方(今の中華人民共和国) このあたりの森林の減少は文明が誕生してから、ずっと続いていたんです。農地の拡大=森林の減少 支那地方(サンスクリット語が起源なので差別語ではありません)の場合、森が大切、木を伐ってはいけないというのは、大昔から、時の王朝が叫んでいたとか。しかし、結果は森はありません。時の政府が木を植えたという話も?。あるかもしれませんが、未入手。 三国時代、呉の国の董奉というお医者さんが、患者からお金を取らない代わりに、病気の軽い人は杏を3本、重い人は5本を裏山に植えさせた話はあります。出来た杏がほしい人は、同じ重さの穀物と等価交換。集まった穀物を貧しい人に分けたという杏林佳話はありますが。 孟子の頃(紀元前3世紀)、斉の都臨溜の城の外の牛山の森は住民によって丸裸になっていることが書かれているとか。また、宋の時代には黄河流域では焼き物が盛んになったとのこと。焼き物=燃材として薪が必要だったんです。宋という時代をキーワードにイナゴの被害が広がったというのがあるそうです。それは草地が増えた=森が無くなった=農地が増えたor放牧地が増えたということを意味します。 そして、農地の拡大は、農機具の発達=鉄器の普及というのもありました。漢が国土を拡大したのは、紀元前500年を境に、鉄器が普及したから。徐々に鉄が青銅器に取って代わるようになったんですが、しばらく時間がかかりました。武帝(紀元前156年〜紀元前87年)の頃に、鋳物の技術が開発されたのです。大量生産が出来るようになったんです。このための鉄器の普及に伴って、鉄鉱石を精製するための燃材として、木が伐られました。木が無くなってから、石炭が利用されるようになるんです。 青銅器ではなく鉄器で戦ったために、それまで負けていた凶奴と呼ばれていた騎馬民族に勝つことが出来たんです。漢民族の勢力拡大は、このような武器による戦争の勝利の結果。すなわち、鉄製の武器をたくさん揃えた軍隊が勝ったということ。 余談ですが、石炭が見つかったおかげで、燃料問題は解決し、中国が荒廃地になることは、毛沢東の登場までありませんでした。 |
これが黄河文明のなれの果て 4千年前は森林率が50%だったとか 夏王朝では山の木を守る管理人がいたそうです。 |
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村に木がありません。木がないため、ここの人は土の中で生活しています。 木で家を建てるのにも、木がないからです。この地域は中国国内でも貧しいため、21世紀になってから、外国人も入ることが出来るようになりました。それまでは、外国人立ち入り禁止だったのです。 (アフリカや、中南米の先住民に比べると電気は来ているので・・・ましなのですが) 黄土高原は都の近くでもあるんです。洛陽に長安という都。都があれば人が活動します。火事になれば、家が必要です。寺院も生活の中で必要、それ以上に、日々の薪と木質資源を近郊に求めるのが、人の常。しかも黄河は幹線道路であったわけですから、船で色々なものが流通したんでしょう。 あと、降水量が400ミリ。しかも雨期のみ。絶対量の水が足りません。ちなみにホテルも断水(昼と夜中)します。雨が降ればとたんに景色が一変するかもしれませんがねぇ。でも無理かも 中国政府が何もしていないわけではありません。また世界が見放しているわけでもありません。様々な援助が行われています。JICA,JBIC、小渕基金は日本、GTZはドイツ、世界銀行等の他、NGOも参加しています。この写真は、退耕還林といって、農地を潰して木を植えています。毛沢東時代に農地を増やしすぎたから。手前は、農地を壊して側柏(Platycladus orientalis)を植えています。ただ問題は、道から見える範囲のところだけが植林、緑化に成功しているということです。愛国心がないというか、郷土愛がないのかもしれません。 |
急傾斜地は利用する方法がないので緑の森があります。上の写真や左の写真と同じ黄土高原。雨期前なので緑が見えますが、薄い緑は草。濃い緑は森です。 傾斜の緩やかなところでは農業を。しかし、ちょっと傾斜があったり、農作業するには遠いところでは放牧します。こういう放牧地では、木は邪魔なんです。草の方が有り難い。また牛やヤギ、羊といった家畜は子供みたいな木まで食べるので、木は大きくなりません。 (上の写真の拡大) |
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勝手な意見ですが、何故中国人や朝鮮人に植林というのが出来ないのか。愛国心が無いというのではなく、郷土愛がないから。土地に執着していないからともいえるんです。逆に土地に執着すれば、死が待っていたからかもしれません。 絶えず、外部から攻撃されていた中国。遊牧民から守ることが出来なければ、逃げるしかない。万里の長城はその防波堤だったんです。攻めてこられたら逃げるしかない。文化が違えば、殺される可能性が大。争乱の続いたところでは、土地を守るのではなく、命を守る方が重要だったんだと思います。 長年の経験が刷り込まれ、森を作るという意味は頭では分かって手も、体がついてこないということではないでしょうか。 まもなく、中国では共産党が崩壊し、大混乱が起きると思います。その時土地問題が浮上するでしょう。国家所有の土地から個人へ?。そして個人のモノになったり、村のモノになって初めて生きるための森作りが始まるのではないかと思います。民度が低いから森を作らないのではなく、生き続けるために森が今まで必要では無かったというのは本当のところでしょう。 その地域に住む人達の気候等の自然環境だけでなく歴史など様々な社会環境が大きな意味を持っているんでしょう。 例外的に、今から40年前、1960年代後半に作られた森は立派に存在しています。大躍進後の荒廃した大地を取り戻そうとした、国を守ろうと本気で思ったからなんでしょう。 |
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万里の長城も森を無くしました。 もともと遊牧民の土地を侵略した漢民族(中国人の大部分)取り戻しに来た遊牧民を阻止するために壁を作ったんです。 はじめは、土を持った土塁だったとか その後、頑丈にするために、土を焼いてレンガにしたということ。すなわち、焼くためには大量の燃料が必要。 ということで、木が無くなったとか |
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とどめは、中国建国の父、毛沢東のプライド。イギリスを抜いて先進国に肩を並べるために、製鉄量で競うんです。土法高炉という原始的な方法で鍋釜(鎌)とありとあらゆる鉄を溶かしたんです。鍋釜が無くなったといわれる大躍進。それは燃料として木が使われたのです。 1957年11月、モスクワで行われたロシア革命40周年式典で、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、ソ連が15年以内に鉄鋼、石油などの生産高の面でアメリカを上回るだろう、と宣言したんです。見栄の固まりであった毛沢東は、中国は15年以内にイギリスに追いつくと宣言しちゃうんです。粗鋼の生産量というのがその尺度だったんです。 最初は、石炭が燃料だったのですが、石炭の生産量が追いつかなくなり、木の伐採が始まったのです。この時の森林伐採は、世界史上最悪の森林伐採であり、多分立ち直るには22世紀になるまでは無理なのかもしれません。 面従腹背という言葉があります。中国人を表す言葉だとも言われます。理由は時の政府に逆らっては殺されるから。生き残るすべだったんです。2000〜7000万人が共産党によって指導されたとおりの農業で、無差別に殺されました。村によっては、村民の1/3が、村を捨て移動中に資金が尽きて餓死、盗みに失敗して討ち死。1/3が、冬を越せずに食糧難で家の中で飢死。残った1/3が死体を喰って命をつなげたそうです。文革で人望のあった人が人望の無い人物から妬みによる嫉妬から反動分子として殺されました。共産党の言ったとおりにしては、死あるのみ。自分か、家族か、知人に。今では、党の指導による工業化で、カドミウム汚染、水銀汚染、重金属汚染等を引き起こし、普通の人々の身体をボロボロにしています。 そんな中国共産党が、木を植えましょうと言って誰が従うんでしょうか。私なら従いません。でも、反抗すると殺されますから、植える振りだけするんでしょうね。それでは、いくら植林しても成林は無理だと思います。そう思うと一党独裁が続く限りは無理なのかもしれません。 |
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大躍進直後の様子。奥の山にも木はありません。 |
さすがに、中国はこれだけでは終わりません。 1980年代に一生懸命植林しました。山の荒廃は国土の荒廃だからです。しかし、お金のない政府は、農民に植林をお願いします。国有地である山を農民に割り当てて、植林させたのです。 木が大きくなれば、市場のニーズもあるので伐採して販売し、生計を助けようと農民は考えます。ちゃんと育てば何時かは伐ってお金になると農民は考え、森を維持してきたのです。 ある程度大きくなったので、伐採しようとしたら、この木は国の物だから勝手に伐ってはならない。伐った得られた収益は、国の物で農民の物ではないと。 簡単に言えば、「愚かな農民は、滅私奉公で共産党のために木を植えて、育ててくれてありがとう。この利益は、共産党員の贅沢のために使ってあげるね」ということです。中国における農民の位置づけは中国人民ではなく、単なる奴隷ですからね。 伐採時期を迎えた1990年代には、ただ働きさせられた農民を横目に、地方政府は強奪したんです。こうなれば、せっかく植えた木は、一瞬のうちに消えて無くなりました。農民だって馬鹿じゃないですから、薪にして隠したりしたんです。 せっかく緑になった山は一瞬にして再び禿げ山に。再度、農地を放棄させて木を植える退耕還林が始まります。これまで植えられていた大豆が作れなくなり、中国が緑なればなるほど、大豆を調達するためにアマゾンの熱帯雨林が伐採され、大豆畑に替わっているというおかしな現象が始まっています。 |
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朝鮮半島は、李王朝の時、財政難を何とかしようと、山での焼畑を奨励したんです。自由に山を焼かせたんです。でも、地代は徴収。ということで、森が無くなって洪水の多発する所だったんです。だから、日本時代にやっと植林が始まるという始末。それに冬の暖房のために灌木が伐られたんです。オンドルという暖房のためにも伐られたんです。中国と違って、石炭がありませんでしたか。 何故、植林が日本政府の方針で決まったとかというと、初代総督の寺内正毅が飢餓からの脱却をするためには、農業の立て直し。それには洪水の防止と安定的な水の供給。すなわち禿げ山を緑にすること。治水は治山にありだったんです。 記録によると、1911年からの30年間で6億本近くを植林。その技術者の一人が朝鮮の民藝の父「浅川巧」という方の存在があるんです。どれだけ、朝鮮半島の緑化に人力を尽くしたかというと、韓国林業研究院の方々がお墓を守っているんですから。 |
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(これは雲南省) |
政策のつけ 農地として森が無くなり、禿げ山に 地力は落ちるし、土砂流亡は続く。 |
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見栄で森を無くした毛沢東については、中国の情報を見てください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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