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  酒匂川流域住民と二宮尊徳       
  田中休愚(丘隅)      
         
酒匂川流域住民と二宮尊徳
暴れ川で有名な酒匂川。堤防の強化と水防工法のための資材として松を植えられ、今なお、堤防を守っています。

植林の歴史は長いのですが、二宮金次郎こと、二宮尊徳(たかのりorそんとく)も寛政から享和2年(1800年)頃に、小田原藩が行った堤防づくりに参加し、堤防を強化するため、黒松を植えたとのこと。
堤防の強化の他、木流し工法にも使える資材としての一面も持ち、二宮金次郎が植えた松200本(尊徳記念館裏側付近)は、昭和13年(1938年)の梅雨時期の洪水で木流し工として利用されたとか。

この200本は、子守で貰った200文(今の6500円程度)を、生活の足しにするには、全然足りないということで、それなら、生活を脅かす洪水対策として使った方が良いということで、子守先からの帰りがけに、松の苗木売りから値切って、200本を植えたそうです。植栽後に帰宅したので、周りは真っ暗に。母親は普段なら帰ってくる時間を過ぎても連絡が無く、心配していたそうですが、怒ることなく、理由を聞いて、褒めたそうです。

なお、二宮尊徳は、この堤防工事の際、菜の花を同時に植え、菜種油を収穫し、小金稼ぎをします。夜に本を読むための油代を稼ぎ出したとのこと。未利用の土地に付加価値を与えるという方法で、小金を貯め、酒匂川の氾濫で没落した一家を、復興させました。

余談ですが、色々な知識を得ることが、難問解決のヒントになるということで、様々な本を読んだそうです。その象徴が薪を運びなら本を読む姿です。何を勘違いしているのか、その精神のための像なのに、その精神を忘れて葬り去ろうとしているのは、悲しいことです。歩きながら読んでいるわけではないというのに。

報徳二宮神社
尊徳記念館

尊徳記念館で放映されている内容で、木を植えたとありますが、彼が最初の植林者ではなく、すでに松林は作られていました。酒匂川の洪水後の堤防修理だけでなく、増水時に木流し工として木を切り倒した後、補植をする必要もありますので。












酒匂川の松並木





報徳橋近くにある石碑

二宮金次郎が松の苗を植栽したことが記されています。
田中休愚(丘隅)
宝永4年11月23日(1707年)に起きた富士山の大噴火。宝永大噴火です。この時、大量に降り注いだ火山灰で麓の御殿場や足柄平野、東京・千葉まで被害を受けます。
火山の噴火事態は収まっても、被害は続きます。特に、酒匂川は、富士山や箱根がある場所のため、火山岩や火山砕屑物が多く、上流地域で大雨が降れば、崩壊しやすい地質を水源としています。このため、幾度も土砂混じりの濁流で災害をもたらしています。なお、上流域では、年平均降水量が2800ミリ(全国平均1500ミリ)とのこと。

田中休愚は、暴れん坊将軍に取り立てられた大岡越前忠相によって登用された元農民です。生まれは、多摩地方の平沢村(あきる野市平沢)の農家兼絹物商で、その後、川崎宿の名主家(田中兵庫)に養子入りし、名主役を引退後、「民間省要」を世に送りました。名主時代には、川崎宿本陣名主と問屋役を勤め、幕府直営の多摩川の六郷渡しを、川崎宿が行う=民営化をしたことで有名です。これが、宝永6年3月のことです。この収益を川崎宿の発展に使ったことでも有名です。

民間省要とは、庶民の立場から見た意見書みたいな物で、正徳6年(1721年)に書き上げます。この中に、酒匂川について、地元の農民や技術者を使うことが記載されていたとのこと。これが、大岡越前忠相の目にとまり、起用となります。

享保11年(1726年)1月から田中休愚は、山北町の花蔵院(東山北駅)を事務所兼宿舎として工事に取りかかります。
水防組合を作らせ、地元で堤防の手入れを日常生活の中で行うようにしたほか、堤防強化のために、桃、スモモ、ナシ、栗、柿を土手に植えさせました。果樹を植えれば、実がなるまで盗難に遭う心配は無く、実がなれば地元民にも僅かながらのメリットがありますので。

同時に、毎年5月1日の祭礼時には、石を持って堤防に集合し、土手の強化を行いました。祭りという名を借りた堤防強化です。

享保14年12月22日、江戸浜町(現・中央区日本橋)の役宅で病死。享年68才。この死には、六郷用水を作るに当たり、世田谷を治める伊奈氏の領地に食い込んだかのトラブルで切腹したとの噂もあり。