岩手県    
  県木:ナンブアカマツ
Pinus densiflora
県花:キリ
Paulownia tomentosa
 
森を作った人・守った人    
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  菅野杢之助 松坂新右衛門      
  安藤百松      
  栗谷川仁右衛門       
         
                    
高田の松原を作った人
菅野杢之助と松坂新右衛門
1667年に三代にわたって田畑を砂と潮風の害から守るため、高田村の海岸に作った松林と、菅野杢之助の関係は・・・・・・

この父親は、豊臣の落ち武者だったらしく、命からがら逃げてきたとか。そして落ち込んでいたところを、村人が良く面倒を見てくれたそうです。
高田村への恩返しか、商売が成功し、豪商(平賀屋)となり資金的な余裕が出来たせいでその恩返しとしての松林を作ったそうです。杢之助自身は、着工5年後にはなくなったそうですが、子孫がその遺志を受け続けました。
偶然か、同じ時期に隣村の今泉村の海岸にマツを植えたのが松坂新右衛門。そして、二人の熱意が、立派な一続きの松林になりました。今にその松林が高田の松林として伝えています。


外れにひっそりと碑があります。









(上)稚樹を植えて未来につなげる努力をしています。
(下)山火事が怖いので、注意を呼びかけ
   管理しています。


陸前高田市
http://www.city.rikuzentakata.iwate.jp/


 
ちょっといやみ

陸前高田市の教育委員会が立てた看板。
「大正15年に日本百景に、昭和5年に東北10景。昭和15年に名勝として国の文化財に指定されました。昭和35年のチリ地震津波の際、被害を受け・・・・・・・・文化財保護法により許可を受けないで区域内の現状を変更したり、樹木等を損傷させると罰せられます。」



でも、右の写真は、そんな松林を切ってサッカー場になっていました。なんのために努力で作った森を伐ったんでしょうか。津波から人命を財産を守った松林。風から、塩から農作物を守った松林

たかがサッカーのため、多分、選挙の票のために伐ったんでしょうね。悲しいことです。まあ、津波でも来て被害を受けてから頭を冷やすしかないんでしょうね

ちなみに、石碑には、私財を注ぎ込み、木のない浜に緑を作り・・と功績を讃えているにもかかわらずです。

看板といい、石碑といい、サッカー場の案を提案した人はまた、それを承認した人は・・・・そして、教育委員会の人は何を。
地元の歴史に泥を塗るような行為なのに

311でこの松林はすべてを失ってしまいました。しかし、また海岸林を作り始めています。海岸林とは言わず減災林と言うそうです。自然災害というリスクのある土地に住む以上は、少しずつ改良しながら続けていくことが非常に大切なんだと思います。失敗を経験して、たくさんの犠牲を生みながら、次への橋渡しをしていくしか無いんだと思います。森が出来上がるにはまだまだ先のことですが、本来の目的を失わずに、管理してほしいです。





 
安藤百松
種市の海岸に黒松、赤松、ハイネズを明治時代に植林

 
栗谷川仁右衛門(くりやがわにえもん)
盛岡藩では、広大な藩有林を所持。山元村の有力者を山守に任命して管理させていたんです。でも、凶作や飢饉のために財政圧迫。18世紀後半には製塩や鉱業のための伐採。藩用材のために伐採と資源が枯渇していく一方だったんです。


資源回復のために取られたのが、栗谷川仁右衛門による分収造林。藩有林の場所に植林をさせるんです。地元農民に。そして伐採時に利益を分け合うという仕組み。一種の投資だったんです。

住民は藩有林という土地で木を植える。伐採時にお金が入ってくる。藩は使いようもない土地を貸して植林させ、伐採時に臨時収入。

そして、そのためには需要のあった杉を導入。しかし寒冷地の盛岡藩ではどこでも植えればよいというのではなく、植栽箇所の方角、地形、地味の判断方法。植 栽不適地では樹下植栽による造林。エンリッチプランティングという方法ですね。また、試植の方法や植栽間隔などを整理したんです。成功事例をまとめたんで す。

そして飢饉対策として救荒目的の植林や換金作物の導入なども行ったんです。茶、漆、桑、楮の四木や果樹といった植樹方法も整理。

まぁ役職は山林奉行や諸木植立吟味役を務めているんです。
天明6年(1786年)生まれ
安政7年or万延元年(1860年)没

 
佐々木吉男 深沢晟雄
なめこ
宝暦の大飢饉で年貢が納められず、16歳の村娘を南部藩に献上するしかないほど、貧しかった沢内村を豊かな村にした人たち。
深沢晟雄氏は、赤ちゃん村長で有名な方です。

佐々木が、発案、当時教育長だった深沢氏が、山形県に流れていたナメコを缶詰として村のブランドを成功させ、ナメコ教育長と呼ばれることに。