トウモロコシ物語  
ソアメリカ古代文明圏における食糧技術
 
 
トウモロコシと共に生きた人々たち
メソアメリカ古代文明圏における食糧技術
  
 
 
 
目次
 
 
 
 
緒論

 1492年10月11日の夜10時頃、ラピンタ(La Pinta)号というカラベル船に乗ってやってきたロドリゴ デ トリアナという名の船員は、その船尾から陸地が見えたように思えた。10月12日午前2時、船から2レグアの位置に陸地があるのを確認し、クリストバルコ ロン(コロンブス)とその乗組員達は、その当時まだ知られていなかった大陸を発見するのである。
 
 スペイン王朝がこの航海を支援したその意図は新大陸を発見することではなく、陸路ではなく海路 による東方への最短経路を探し出すことだった。その目的はインドの大地であり、インドの香辛料であった。当時は食糧の保存状況が悪く、食材の味を引き立て たり料理を食べ易くするために、香辛料の存在はヨーロッパ料理にとって不可欠なものだったからである。つまり、食習慣がきっかけとなり、今までお互いに知 り得なかった2つの世界の遭遇をもたらすことになったのである。 
 
 食糧、食事、料理、これらはすべて人類にとって大切なものであり、コロンブスによって企てられた冒険旅行がそうであったように、アメリカ大陸の発見という極めて重要な出来事に結びつく場合もある。 
 
 時の流れと共に、何をどのように食べるかをベースに人間社会は形成されてきたのである。食することによって、あるひとつの文化が形作られ、食することは文化の一部となり、同時に形成された文化は日々発展を遂げていくのである。
 
 それぞれの人間社会で発生した文化は、その文化が育まれる自然環境に大きく左右されるのであ る。利用する水、耕作する大地、毎日の食糧とする動物、植物、果実。これらは個人がその周辺で出会うことのできる資源の一部を構成するものであり、日々の 糧となるものである。その地域の特性、気象学的、土壌学的特徴をはじめとし、人間がめぐり合い、また保有するに至る様々な資源によって自然環境は形成され ていくのである。様々な自然環境が存在すると同時に、それぞれの環境との関わり方にも多様なものとなる。沿海部、河川沿岸、湖沼沿いの社会では、基本的に 魚や海産物をベースとした食生活が営まれるであろう。また、山岳地帯に住む人々は山に生息する動物を捕獲し、食糧とすることだろう。これらの社会ではそれ ぞれに、食糧を確保するために技術を身につけ、漁をするために様々な種類の魚網を作ったり、野生動物を捕獲するために罠を仕掛けたり、色々な狩猟用道具を 開発していくのである。 
 
 自然環境が多様で、人間がまわりの自然環境に関わっていく形に変化が見られるほど、歴史の流れと共に、より多くの、またバラエティーに富む様々な文化が生み出されてきたのである。 
第1図. メソアメリカ古代文明圏
 
 
 
 自然環境がもたらす恩恵に重大な制約があることで、人間社会サイドが自然環境に適応していかね ばならない場合も存在する。例えば、エスキモー族の場合、実質的には植物が育たないという極めて住みにくい環境に居住しているため、その食料源のほぼ大半 を動物性のものに頼らざるを得なくなっているのである。その一方、豊富な天然資源に囲まれた地域では、多様な食糧確保が可能なのである。
 
 その一例として、メソアメリカ古代文明圏として知られている地域に育まれた社会のケースが挙げられる。この地域は自然環境に大変恵まれ、生態系の上からも変化に富み、多くの種類の動物相・植物相の棲息が確認されている。 
 
 しかし、同じように食糧資源に恵まれ、それがバラエティーに富むものであったにしろ、そのこと が、様々な食材利用法を生み出すことに直接繋がっているとは限らない。これらの食糧資源を開発するため、人間は知識・技能・道具を駆使し、新しい技術を創 造してきたのである。新しい技術の開発は、彼らにとって極めてシンプルなものであったかもしれないし、手のかかる場合もあっただろうが、そのためには必要 性を加味し、人間の創造力をすべて集積していかねばならなかったのである。
 
 食糧は人間社会にとって必要最低限のものではあるが、食材として利用できる資源を掘り起こし、開発していくための様々の方法や、その資源を上手く使いこなして調理する方法は、人間が特定の自然環境やイメージをベースに創造した文化とも関係してくるのである。
 
 例えば、7万種類もの料理法があると言われ、人類が知っている中で最も美味とされる中国料理の 場合、長期にわたって燃料不足の問題があったことや、労働力が豊富であったことなどをはじめとし、様々の要因が絡み合って生み出されたものである。実際の ところ、これら2つの要因の名残として、中国料理では伝統的に香辛料の強い料理が多く見られるのである。また、中国料理では、食材の下ごしらえに多くの時 間を費やす(多くの労力が必要となる)一方で、煮炊きは短時間で済むようになっている(所要燃料が少なくてすむ)。
 
 メキシコ料理に限らず、スペイン占領時代以前の料理は極めて美味でバラエティーに富んでいた。 メソアメリカ古代文明圏の人々は美食する技を心得ていたし、味にうるさかったのである。彼らは、スペイン人の侵入・占領にもめげず、身の回りにある食材を 最大限に活用し、末代まで伝えられる料理法を創造していったのである。 
 
 メソアメリカ古代文明圏の人々が食べていたもの、またどの様な方法で食していたかに関する情報は、色々なメディアを介し、われわれのもとに伝わってくる。
 
 これより先の時代、つまり、先史時代と言われる頃に何が起きていたのかについて詳しく述べたも のは残されていないが、人間や動物の骨、植物の残骸をベースに歴史が再構築されてきている。これらの遺骨や残骸の研究は、古代住民の食生活を知る上で重要 な情報源となっている。   
 
 この種の研究は、考古学者、人類物理学者、古代植物学者などの協力で実施されており、解析にあたり複雑な実験法が取り入れられている。


 
 
 
 これら専門家達は、例えば、人体を土葬していた地域を特定しながら作業を行ったのである。そこ から人骨を掘り出し、その分析を行ったのである。遺骨の分析は、当時の生活を知る上で数多くのもの、特に、当該地域の古代住民の食生活を知る上で重要な手 がかりをもたらしてくれるのである。様々な調査の中で、ある一定の人骨の形状・サイズ・比率を調べることにより、欠乏している栄養分を特定する方法もあ る。また、人骨中のストロンチウム含有量を分析するという方法も有効である。ストロンチウムは、カルシウムと類似する黄色の金属で、毎日の食事を構成する 野菜と肉の相対比率が、同物質の人骨中の有無に影響を与えるというものである。この研究からは、当時の人々が野菜や肉を食べていたのかどうか、またその割 合がどうであったのかが理解できる。人骨中のストロンチウムの含有量を調査の対象とした専門家の中には、有史以前の人々が、階級の高い者ほど肉類を食して いたという興味深い結論を出したものもいる。
 
 人骨の歯を分析することによっても、当時の食生活の内容を窺い知ることができる。歯の摩耗状況を観察することで、食べ物の種類や咀嚼していた食べ物の硬度が推察できる。 
 同じように、動物の糞の化石に関する研究が重要な結果をもたらしている。これらの化石は糞便が その元となっており、時の流れと共に脱水化し、硬化してしまったものである。これらの化石を研究室で再水化することにより糞化石の研究が実現可能となるわ けで、現代人が消化器官に重大な問題を抱えている場合、その理由を探るために大便をサンプルとして持参するケースによく似ている。再水化された糞化石を顕 微鏡で見てみると、寄生虫をはじめとし、遠い昔、何を食べていたのかを推察できる種や殻の残骸、骨、毛などが含まれている。 
 
 先史時代住民の食生活の内容を推察する人骨の研究を支援する意味で、別の角度からの研究も行わ れている。例えば、食器類の内側に付着した土の調査で、土の中からは動物の骨や種、花粉粒などが発見されている。また、遺跡の発掘によって、当該地域の家 畜化や植物栽培の変遷の過程に関する情報を入手することもできる。これら全ての情報をまとめることにより、既存の情報を元に、その地域における当時の動・ 植物相の再構築化を可能とし、どれだけバラエティーに富んだものを食糧として取っていたか推察できるのである。
 
 上記の方法を通して、我々の祖先たちが何を食べていたのか、またどんな料理のやりかたを行って いたかなどについて僅かながらでも窺い知ることがメソアメリカアメリカ古代文明圏の人々がどんな食生活をしていたかについて、その概要を他の方法で知るこ とはまだ難しいため、これらの研究によってもたらされる情報は大変貴重なものである。しかしながら、その情報の範囲は極めて限られたものである。
 
 
第3図. 現代の科学者たちの研究によって、メソアメリカ古代文明圏の人々の食生活がわかるようになってきている。
 
 
 
 
 スペイン人が侵入してくる直前の時代、メソアメリカ古代文明圏の人々がどんな物をどのように料 理して食していたかについてはよく知られていることである。なぜなら、当時の人々がどのような生活を送っていたかを記した2種類の書物が残されているから である。ひとつは、原住民の手によるもので、スペイン人到着前から到着数年後までの生活の様子が記録されている。もうひとつは、エルナン・コルテスと一緒 にやってきたスペイン人の手によって書かれた書物で、彼らにとっては見るものが新鮮、且つ素晴らしいものであったらしく、彼らの年代記の中に全てを記録と して残しておくことを欲したのである。 
 
 これらの書物を通し、メソアメリカ古代文明圏、特に当時、ナウアッツ、メヒカス、アステカと呼 ばれ、現在のメキシコ合衆国にあたる同文明圏の中心地域に暮らしていた住民の日常生活を様々な角度から窺い知ることができる。これらの書物では、今日のメ キシコ連邦区、および近隣の州(メキシコ州、プエブラ州、イダルゴ州、トラスカラ州、モレロス州)が含まれる「メキシコ中央台地」と呼ばれる地域の様子を 中心に描かれている。また、メキシコ南東部(タバスコ、カンペチェ、ユカタン、キンタナローの各州、およびチアパス州の一部)や中央アメリカのほぼ全域 (グアテマラ、ベリースの両国、およびエルサルヴァドル、ホンジュラス両国の一部)に居住していたとされるマヤ族に関してもその記述が残されている。 
 
 中央台地に居住していた原住民たちの様子を知る情報の中には、コディセスと称される様々な古文 書や、絵文字という表現法で著された原住民の手による古文書などがある。これらの古文書では人間・動物・その他の物の様子が絵をベースに表現されているた め「絵文字」という名前がつけられているのである。これらの絵文字は「グリフォス」と呼ばれ、それを織り交ぜながら古代人や、現代でも中央台地の住民が使 用している固有の言語であるナワトル語で物語が綴られている。 
 
 スペイン占領時代以前の食生活を中心に記載された古文書は存在しないものの、その他の古文書か らこのテーマに関し様々な情報を得ることができる。例えば、ヌエバエスパーニャの初代副王、アントニオ・デ・メンドーサが占領した地域の巨万の富につい て、スペイン国王カルロス5世に報告することを目的に書かせたところからその名がついたとされる『コディセス・メンデシノ』の場合が挙げられる。この古文 書は、当時の住民がテノチティトラン帝国に献上していた貢ぎ物のリスト、カタログとなっている。献上していた全ての製品が記載されており、その中にはテノ チティトラン帝国が受領していた各地からの食料品に関する記載も見られる。 
 
 エルナン コルテスと一緒にやってきたスペイン人の手による古文書の大部分は中央台地地域の様子について記載したもので、彼ら自身、特に配下のひとりであるベルナ ル・ディアス・デル・カスティージョが中心となり作成したものとされ、その後、古文書作成は占領した地域住民へのキリスト教布教を目的としてやって来た宣 教師たちの手に委ねられることになる。彼らは、外国人としての見地から、今までに知らなかったものに対して特に興味を示し、古文書の作成を続けていった。 これらの文書は年代記の形式で作成され、作成者は年代記編者と総称されていた。年代記編者の中で特に顕著な活動を行なったのは、ベルナルディーノ・デ・ サーグンとベルナル・ディアス・デル・カスティージョである。サーグンは、古代メキシコ人の文化・信仰・芸術・習慣に関する広範囲な研究を元に『ヌエバエ スパーニャの物の歴史概要』という長編を執筆した。この執筆にあたっては、原住民の古老たちの支援もあったとされ、彼らは「サーグンの情報提供者」として 知られている。
 
 ベルナル・ディアス・デル・カスティージョは、エルナン コルテス軍の一兵士として征服運動に参加し、『ヌエバエスパーニャ征服に関する真実の歴史』という長編をまとめたのである。この書には戦闘の様子だけでな く、当時のメキシコ人がどのような生活を営んでいたかに関する情報も記載されている。
 
 その他、ドミニコ会の修道士、バルトロメ デ ラス カサス師の執筆した文書からも重要な情報を得ることができる。彼は「原住民の唱導者」と称され、原住民サイドに立ち、征服者たちが繰り返す不正に対抗する立場を貫き、その姿を『インドの歴史』という書にまとめた。
 
 また、エルナン・コルテス自身についても述べておく必要があろう。彼は、スペイン国王、カルロ ス1世に、征服地の状況、および同地における活動内容についての書簡を送り続けていたのだ。これらの書簡の内容は事件・出来事に関するものであったため、 「報告書簡」としてまとめられている。 
 
 また、メキシコ中央台地地域の様子を記録していた年代記編者と比較すると、その数はずいぶん劣 るものの、マヤ地域の様子を編纂していた年代記編者がいたこともここで記しておかねばならない。数多くの編者の中で、特に顕著なのは、伝道師でユカタン地 方の司教であったフランシスコ修道会の修道士、ディエゴ・デ・ランダ司教である。『ユカタン地方の報告書』という書は彼の僅かな著書のうちの一冊である が、この書から、古代マヤ人の生活の様子をいくらか知ることができるのである。「不敬な」文化人たちと密通し、キリスト教への改宗を受け入れようとしな かったマヤ人たちを戒める意味で、彼自身が年代記や記録書を焼いてしまったため、マヤに関し残存する情報は少ないと言われている。 
 
 古代メキシコ人の生活の様子について綴られた年代記・古文書の中で、彼らが何を、またどのように食していたかを推察できるものが他にもある。ここでは次の2冊だけを紹介しておくことにする。『地理報告書』とフランシスコ・エルナンデス著の医学書である。
 
『地理報告書』は、スペイン王朝の命令で実施された調査結果をまとめたもので、一連の質問に対するメキシコ各地の住民による回答内容が記載されており、食事に関する質問も含まれている。 
 
 次に、フランシスコ エルナンデスについて述べてみよう。彼は、ヌエバ エスパーニャの産物・資源の調査を実施するために、当時のスペイン国王、フェリペ2世が派遣した医者であるが、 多くの書籍で「ヌエバエスパーニャの自然の歴史」について執筆している。彼が執筆した作品には記事と共に、メキシコ人画家によって描かれたヌエバエスパー ニャに棲息する動植物の絵が掲載されている。
 
 古代スペイン語で執筆された数多くの書物・古文書を閲覧すると、これらの書の著者が新しい世界 と出会った時にどんな印象を受けたのか、その内容が理解できるのである。彼らは経験したことを、視点を変えながら繰り返し記載しており、美味しかった食べ 物や口に合わなかった食べ物について綴られており、食材とその料理法についても書いている。彼らは毎日食さなければならなかったのだし、その地域の産物、 料理の味見をしなければならなかったわけで、食すること、それは体の新陳代謝と同時に、生きとし生けるものとしての唯一の象徴だったのである。彼らはただ 単に食べるだけではなく、最低限度の食材を利用し、調理することが求められていた。ヨーロッパの人々が、香辛料を得る為の新しいルート開拓という必要性に 駆られ旅立ち、行き着いた先が新大陸の発見であったことは前に述べたが、当時、彼らにとって料理の味を引立て、食糧の保存に有効な香辛料は必要不可欠なも のだった。  
 
 
 
 
 昔から、メキシコ人は漁をし、動物を捕獲し、植物を栽培し、収穫し、野菜を育ててきた。彼らはこれらの食材を様々な方法で加工し、毎日の食糧としてきた。 
 
 自然環境から得られる富を利用して食するというアステカ族の日常生活は、より原始的な部族と比 較しても、はるかに優れたものであった。スペイン人が侵入してきた頃には既に確かな文明も構成されており、複雑な技術も取り入れて生活を営んでおり、その 一端が彼らの料理法に垣間見られる。アステカ族の食事は極めてシンプルなものであったと断定する人は多いものの、アステカ族の料理はその食材、料理の種類 の何れにおいても大変バラエティーに富んでいたと考えられる。古代メキシコ人は味にうるさく、色々な味を組み合わせていく技に長けていたとされ、ベルナル ディアス デル カスティージョは、彼らの食事を称賛に値するものとして評価している。
 
 スペイン占領時代以前の原住民の食事は、古代ギリシャの四部劇のようなもの、つまり、トウモロ コシ(Zea mays)、チリ(Capsicum annuum)、カボチャ(Cucurbita maxima)、インゲン豆(Phaseolus vulgaris)という 4種類の基本作物から食事が構成されていたのである。トウモロコシは基礎的なエネルギー、チリとカボチャはビタミン、インゲン豆はプロテインを補給するた めのものであった。人体の機能を維持し、力仕事をやっていく上において必要なカロリー量を計算してみると、上記四部劇の食事を毎日一回とるだけで十分であ ると想像できるのである。栄養学の専門家の調査でも、この食事を摂取することで、プロテイン、ビタミン、ミネラルも充分な量が補給できるとしている。
 
 前述した通り、アステカ族の食事は、トウモロコシをメインに、チリ、カボチャ、インゲン豆がそのベースとなっている。しかし、生態系、つまり自然環境に恵まれ、人間がその環境にうまく適応していったおかげで、動・植物相の食用としての利用法も大変豊富である。 
 
 
 
 人体の臓器にとって基本要素となる動物性プロテイン摂取を目的とし、野生動物や家畜動物の肉をはじめ、鳥、魚、多くの種類の海産物を食してきた。
 
 メキシコ中央台地の地域のみならず熱帯森林地帯においても狩猟を行ない、捕獲した動物の肉を食 してきた。マヤ族が食べていた肉類の全てが狩りによって得られたものだったのである。彼らの住んでいた地域は、メキシコ渓谷の丘陵地帯と同様に多くの鹿が 棲息しており、その肉は珍重されたのである。現在でも、メキシコ南東部では「dzik」と呼ばれる鹿の肉料理を味わうことができる。
 
 
 ペッカリーと呼ばれるヘソイノシシ(ヨーロッパ猪によく似ている)も捕獲し食べており、その肉 の味は豚の味に似ていたと言われるが、この当時、メソアメリカ古代文明圏の住人にとって、未知の味とされていた。また、スカンクも捕獲していた。どちらの 動物が何と呼ばれていたのか定かではないが、ナワトル語でこれらの動物は「coyametl」とか「patl」と称されていた。それぞれ分泌腺があり、こ れを除去しない内は肉に悪臭が漂っていたのである。ヘソイノシシは背中、スカンクは肛門部に上記の分泌腺がついていて、そこから臭いのきつい液体を放出す るため、屠殺後すぐにこの部分を除去する必要があった。
 
 現代ではほぼ消費しなくなっているアライグマ、オッポサム、イタチ、モグラ、フクロネズミ、ア ナグマなどの動物の肉も同様に食していた。アルマジロの場合、その白身の肉ばかりでなく、甲羅も利用していたとされている。ランダ司祭は当時の状況につい て次のように記録している。「それは大きな鼻と、足を持つ生まれたばかりの子豚のようで、全体が滑稽な甲羅で被われているため豚には見えず、武具を付けた ウマのようでもあり、大きな鼻と手足だけが甲羅の外に出ており、首と額は甲羅に被われている。食するには適しており、柔らかい肉が魅力である」この動物の 名前は、ナワトル語で「ayotochtli」と呼ばれ、その意味は「ウサギ亀」で、大きさがウサギくらいで亀のような甲羅をもつことからこのように称さ れたものと思われる。
 
 食用にしていた他の動物としては、リス、アグーチ、野兎、猿などが挙げられる。メキシコ国内 で、現在でもリスを除く他の3種類の動物を煮たり、塩焼きにしたり、薫製にして食用として利用している地域もある。猿(マヤ語でbaclam)が大きな群 れを成して棲息し、特にユカタン半島の海岸部の湖沼地帯にはたくさんの猿の姿が見られた。中央台地地域においては、罠を仕掛け猿狩りが行われていた。その 様子についてサーグンは次のように記録している。「大きな焚き火を炊き、その廻りをトウモロコシの穂で囲む。そして火の中心ににカカロテルと呼ばれる石を 置く。火を見て、そして煙の臭いにつられて猿たちが暖まりにやってくる。そして何を焼いているのだろうかと猿たちが覗いた瞬間、熱せられた石は大音響と共 に破裂.....炭火や灰が巻き上げられ猿たちの上に落ちてくる。びっくりした猿たちは、連れてきた子ザルをその場に置き去りにしたまま、一目散に逃げ出 してしまう。一緒につれて行こうとしても子ザルたちの姿は見えないだろう...灰が目の中に入って何も見えない状態となっているというわけであ る....」そして残された子ザルたちは、後で食用にするため飼育されたのである。
 
 メキシコ人が食べているのを見て、新大陸に到着したばかりのスペイン人を驚かせた動物がいる。 イグアナである。メキシコ人たちは肉だけではなく、そのタマゴも食べていたのである。それを見ていたスペイン人には竜を食べているように思えた。また、ス ペイン人たちを恐怖に陥れたのは、多種におよぶ毒蛇を食用としていたことである。その中でも、猛毒のガラガラヘビの肉は、数あるヘビの肉の中で最も柔らか いとされていた。
 
 
 スペイン占領時代以前のメキシコ人が食べていたこれらの動物は全て陸棲動物である。しかし、メソアメリカ古代文明圏の食習慣において、水棲動物は動物性蛋白摂取のための豊富な源であった。
 
 ナワトルの伝説では、高地にすんでいた人間たちが大洪水の後、多くの種類の魚に姿を変えてし まったことが語られている。アステカ神話の中で「Opochtli(オポチトリ)」は漁の神様であり、漁具・漁法の創始者と崇められていた。彼は水中の動 物がいなくなってしまうことなくいつまでも大量の動物たちが棲息していけるように気を配り続けた。「ポポルブ」もしくは「ポップブ」というタイトルのマヤ 族の神聖なる書の中でも、神様同士の喧嘩を発端として、彼らの骨が粉砕された挙句、水中に投げ込まれたが、それから5日後、今までに見たこともなかった大 量の魚に姿を変えて現われたという魚の起源に関する話が語られている。 
 
 実際のところ、以前のメソアメリカ古代文明圏で、現在、メキシコと呼ばれる地域では、食用とな る水棲動物の種類も多く、その調理法が無限に存在する点においては目を見張るものがある。その理由として、海岸線が長いということもあるが、多くの河川・ 湖沼が存在することが挙げられる。
 
 メキシコ人が定住地とし、テノチトランの建設を決めたメキシコ渓谷には湖沼地帯が形成されていった。この地域では、雨水やシエラネバダ山系を源とする河川を伝って流れ込む水を利用した湖や潟湖、貯水池が整備された。湖や潟湖、貯水池が占める面積は1000平方km2にも達し、メキシコ人の食卓を潤すに充分な量の海産物を収獲することができたのである。
 
 チャルコ湖やソチミルコ湖のような淡水湖と、テスココ湖やメキシコ湖の場合のような海水湖があ り、広大な湖畔地域を形成していた。サンタカタリナ山脈や、エストレージャ山岳が湖畔地帯を分断するような位置にあったため、淡水と海水が混ざり合うよう なことはなかった。この他にも、近くに、サルトカン、スンパンゴ、シテュラルペテルの湖畔地帯や、クアティトランの近郊に貯水地帯が存在していた。メキシ コ人たちはテスココ湖から人工的に分離されたメキシコ湖の除塩を行なうため、複雑な水利工事も行なったのである。
 
 海水や軟水の湖が混在している為、多くの魚類、甲殻類、両生類が見られ、その上、メキシコ湾や太平洋から河川を伝ってやって来た別の種類の動物たちも棲息している。 
 
 「Michin」はナワトル語では魚のことを意味している。メキシコ人は海水魚と淡水魚とを区 別していた。海水魚のことを「tlacamichinn」と呼び、海を泳ぐ大きな魚を意味している。一方、湖に生息する淡水魚は一般的に 「iztamichin」と呼ばれ、白い魚のことを意味していた。更に淡水魚は大、中、小のサイズ別に区分され、それぞれに名前がつけられていた。 「iztamichin」の中で最も小さい魚は銀色に輝く小魚のことで、今日我々がナンギと呼んでいる魚で、今と同じように生で食べたり、干物にして食し ており、炭火を囲んでのバーベキューも頻繁に行なわれたようである。ナワトル語では、名前を聞いただけでその形が想像できそうな名前が海水魚につけられて いることが多く、魚を意味する「michin」という接尾辞が最後に付け加えられている。例えば、「totomichin」は鳥魚のことで、頭部の形が鳥 のくちばしのようで、鳥の尾のようなひれがあることから、こういう名前が付けられている。また、「papalomichin」(papalotle = 蝶々)は蝶々魚のことで、アフリカチヌの一種である。「ocelomichin」 (oceloti = ジャガー)はジャガー魚のことで、頭部がジャガーの形をしており、体には黒い斑点がある。  
 
 メキシコ渓谷にある塩水・淡水の湖では、前述した魚の他に、様々な種類の魚を収獲することがで きた。例えば、「mextlapique」はマスに似た小さな胎生魚で「xoulin」とも呼ばれていた。この魚について2人の年代記編者がコメントを残 しているが、その評価は異なるものであった。つまり、サーグンが美味な魚と評価しているのに対し、医師のエルナンデスは栄養価も低く、美味な魚ではないと コメントしている。
 
 
 オポチトルという神様が創造したとされる魚網や漁具を使用して魚を捕っており、 なかでも熊手によく似た道具が良く使用されていた。魚を直接手で掴んで捕獲するものもいた。今でもソチミルコ周辺で見られるメキシコサンショウウオという 両生類の動物は、直接手で捕獲できる動物のひとつであった。メキシコサンショウウオの名前はナワトル語の「axolotl」に由来して、変化を遂げたもの である。前述したように、言語の特徴で形をうまく表現している。つまり、「atl」は水、「xolotl」は裸、またはお化けのような巨大な犬という意味 があることから、「水中に住むお化けのような巨大な犬」あるいは「裸の水中動物」ということになる。
 
 ナワトル神話にもメキシコサンショウウオが登場する場面がある。ケッツアルコアルの双子の兄 弟、ソロットルは他の神々と同じように人間が太陽を手にすることができるのであれば、太陽の生け贄になってもよいと考えていた。しかし、その場から逃げ出 すため、水中に身を投げ、「axolotl」に姿を変えてしまうのである。その後、救われ、生け贄となってしまうのだが...。
 
 メキシコサンショウウオは食するには適していたとされ、メキシコ社会では比較的地位の高い者が 好んで食べていた食材である。サーグンはこの「動物」(彼はそう表現している)について著作で次のように述べている。「トカゲのように手と足があり、ウナ ギのような尻尾を持ち、体はまるでウナギ、その上、幅の広い口があり、首当たりにはひげを蓄えている云々。」
 
 
 
 
 小型クルマエビの一種である淡水エビのように、淡水の地域にのみ棲息するものもあった。 メキシコ峡谷の沼地や湿地帯も食材の供給源であり、蛙の幼虫、おたまじゃくしさえも食材として利用されていた。腹のでた蛙、黒色や褐色の蛙、大きい蛙、小 さい蛙などありとあらゆる種類の蛙が棲息していた。蛙は皮を剥ぎ、煮物として調理されたが、貴族たちが口にする食材であり、貧民たちはおたまじゃくしを口 にするのが精一杯であった。マヤの人たちにとっても蛙は珍重された食材であった。雨の神、「Chaak」は背中にオレンジ色のラインの入った小さな蛙が好 みだったと伝えられている。
 
 沿海部に住んでいた人々は、豊富な海産物を食材として利用していた。大量の海産物がメキシコ中 央部の貴族の食卓を潤す食材として供給されており、その大部分は干物あるいは塩漬けの形に加工されていた。しかし、アステカ国王、モンテス2世は早飛脚な どを利用し沿海部から送らせた新鮮な海産物を毎日食べていたとされている。
 
 これまでに述べてきた多くの種類の魚、カニ、エビの他にも、巻き貝、ウナギ、亀をはじめ多くの 海産物が食材として利用されてきた。亀の場合、肉だけではなく卵も食べていたのである。亀は一度裏返しにすると自力で元に返ることはできないため捕獲は簡 単で、次から次へと亀を裏返し、一晩で15〜20頭を捕獲することも珍しくなかったそうである。 
 
 サーグンは、海産物を食材とした料理の内でも多くの種類のある煮込み料理・煮物料理についても 記録している。「緑色唐辛子で煮込んだ蛙、黄色唐辛子と一緒に煮込んだメキシコサンショウウオ、「tecpitl」という唐辛子と一緒に煮込んだおたま じゃくし、エビと他の海産物にチリ唐辛子、トマト、すりつぶしたカボチャの種を加えて煮込んだ料理など全て美味であった。カボチャの種を鉄板で赤くなるま で炒めて別にしておき、同じ方法で乾燥したチリ唐辛子を炒める。炒めたカボチャの種とチリ唐辛子を石板の上に置き、水またはハーブをと一緒にエビや海産物 を煮込んでできた煮汁を加えながらこれらを磨り潰していく。 こうしてできたドレッシングを湯通した海産物や魚の上に載せて食べるのである。」 
 
 メキシコ渓谷の湖沼地帯では、鳥や昆虫も採集、捕獲され、食材として利用されていた。昆虫は動 物性蛋白の補給源として重要視されていたのである。昆虫も様々な種類のものが食用として利用されていたが、その中でも「チンチェ」という名のナンキンムシ や水棲蝿がよく食されていた。ナンキンムシの場合、その卵さえも食用として利用され、「アウアットル」もしくは「アグアックル」という名前で呼ばれていた が、「チンチェ」は一般的に湖岸に繁殖するイグサの潅木やよどんだ湖水面に産み付けられていた。一方、水棲蝿は、その成長3段階の何れの時期においても食 用とされ重宝がられていた。つまり、幼虫期(魚網で捕獲し、煮て食する)、さなぎ(同じく魚網で捕獲し、タマルなどの料理に利用する)、成虫期(水生植物 上で休んでいる時を見計らい捕獲し、トウモロコシの葉っぱと一緒に煮込んだり蒸したりして食する)と、それぞれに食材として利用されていた。テノチトラン の人々の間では「チンチェ」の卵「アウアットル」を採取するために「養殖」に類似した活動が行なわれていたのではないかと考えられている。彼らは「チン チェ」が卵を産み付けるように塩水湖にまぐさの束を沈めておいた。15日後、湖面から引き上げられまぐさは、天日に干された後、卵だけを振るい落とされた のである。
 
 
 食用の昆虫の中には、種類ごとに成長サイクルが異なるために年間を通して捕獲できるバッタやイ ナゴも含まれている。ある時期に大量繁殖するものがあるかと思えば、別の時期には他の種類のもの現われていたため、実質的には年中、満遍なく食用として捕 獲できたのである。捕獲するとすぐ死んでしまうので、捕獲直後に食べてしまわねばならなかったものもあり、その代表がリュウゼツランの卵虫(グサノ:テ キーラの原料になるリュウゼツランに付く虫)やエスカモル(蟻の幼虫やさなぎ)、バッタなどである。彼らはチリ唐辛子と一緒に炒めたり、スープに混ぜたり して食していた。中には生きたまま食べる食材もあった。「チカタナス」という蟻の場合、湯通ししたり炒めたりしておくと、腐ることなく数ヶ月の保存が可能 であった。 
 
 食用の卵虫の内で、グサノは、年間を通しある一時期だけ採取することができた。一般的にチリソースと混ぜで食べられていた。
 
 湖からは多くの水鳥たちが食卓にやってきたと、サーグンは冗談を交えその様子を記録している。 ガチョウから、アヒル、果てはツルまでが食卓に上ったのである。サーグンは50種類近くの水鳥について記録を残しているが、その内の約12種類はアヒルの 仲間と考えられる。大きいアヒル、小さいアヒル、濃いブルーや白い羽根を持つものなどその種類は様々であった。「オアック、オアック」と鳴くアヒルは 「oactli(オアクトリ)」と名が付いた。他の水鳥と同じく、アヒルの肉は魚のような味で、捕獲できるのは秋と冬に限られていたが、とにかくご馳走に はかわりなかった。アヒルの捕獲には、果実の部分を食べ、くり貫いたカボチャが使われていた。彼らはこのカボチャを潜水具の要領で頭の上に付け、水中に 潜ってアヒルの到来を待っていた。そうするうちに、カボチャを突つきにやってきたアヒルを捕獲し、その首を絞めていたのである。アステカ国王に料理を献上 していた専門家のレシピによれば、アヒルを、種が大きくて長いプラムや水蜜桃と一緒に煮込むと水蜜桃の酸っぱさがアヒルとうまく調和し、素晴らしい味を引 き出していたそうである。 
 
 食材として利用される鳥の種類は様々だったが、投石器(パチンコ)、吹き矢、鳥網などを使用して捕獲する以外に、鳥たちが休息する枝に接着剤を添付しておくという方法も執られていた。肉やタマゴを食用として利用する他、羽根は衣服や織物の装飾用として使用されていた。 
 
 マヤ族たちも、メキシコ人たちに遅れを取っていなかった。ランダ司教は、大きい鳥、小さい鳥、 彩りの違いなど、その数の多さと種類の多さに驚嘆し、全ての鳥が食材に適していると記している。「住民たちは樹の上大きな鳥を吹き矢で殺し、卵を掠奪し、 その卵から雛をかえしていた...云々。」多くの鳥類の中で、目立っていたのは、マヤ語で「cambul」と呼ばれていた鳥で、「素晴らしく美しく大胆な 鳥で、食材としては優れていた」と記録されている。 
 
 鳥は様々の方法で調理されていたが、特にコルテスの目をひいたのは、テノチトランの市場で販売されていた鳥のパイやエンパナダで、彼の著作にもそのことが記されている。 
 
 当時、食用として家畜を飼育することは珍しかったため、食用として利用していたこれらの動物相 の大半は狩猟・捕獲・釣りなどの方法で得られたものであった。しかし、家畜として飼育していた動物の中にも食材として重要な位置を占めるものも見られた。 我々の知る限り、メソアメリカ古代文明圏では少なくとも5種類の家畜が飼育されていた「マサコアル」ヘビは黒色で動体が長く貧歯で動きが緩慢で、家庭でも 飼育されていた。ナウトル語で「tochitli」と呼ばれていたウサギの肉は賞賛され、皮や毛も重宝されたのである。「ソリン」と呼ばれていたうずらも 鳥かごで飼育されており、最初に到着したスペイン人たちは、母国のうずらより大きく、胸元には肉がたくさん付いており美味だと評価している。現地の人々に も喜ばれ、焼いたり、タマル料理に入れたりして食されていた。
   
 征服者たちは、新しい種類の犬・七面鳥の開発を行ない、無毛犬の分野では、顕著な活動が見られ た。無毛犬の肥育は中央台地地域だけではなく、マヤ族が住む地域でも行われた。この家畜犬についてランダ司教は次のように述べている。「吠えるでもなく、 人間に悪さを働くでもなく...小型犬で原住民は祭りには食していた....味はとっても良く云々...」エルナン コルテスの著書によれば、これらの犬たちは去勢されて肥育されており、中には飼育・販売することを専業としていたものもいるとされている。この犬のナワト ル語での名前「xoloiz-cuintle」のうち、「xolotl」が「お化けのように恐いもの」あるいは「裸」、「izcuintle」は「犬」を それぞれ意味しているが、肥育し過ぎて太ってしまった犬については「tlachichi」と呼ばれていたそうである。 
 
 この犬とよく混同され、ナワトル語で「tepeizcuintli」、マヤ語で「jaleb」と称される両生類のげっ歯目動物がいるが、この動物の肉も当時は頻繁に食されており、旧マヤ帝国があった地域では現在でも食材として使用されている。 
 
 最後に、メソアメリカ古代文明圏を起源とする動物の中で最も重要で、その後世界中で有名となっ た七面鳥について記述しておくことにする。「chihuatotolin(chihuatl=女、totolin =鳥)」と呼ばれていた雌鳥だけではなく、「huexolotl」と呼ばれていた雄鳥も家畜と飼育されており、スペイン語で七面鳥を意味する「グアホロ テ」は「huexolotl」に由来するのであろう。七面鳥のことをマヤ語では「ulum」という。サーグンは七面鳥について次のように記している。「家 畜として飼育され、よく見かける鳥である。尾っぽは丸く、翼にはたくさんの羽根がついているけれども飛べはしない....色は、白、赤、黒、褐色と様々 で、雄鳥は二重あごとなっており、胸部はがっしりとして色とりどりの肉垂れが付いている。頭はブルーで、嘴のまわりは肉で被われ、まるで今にも突つかれそ うだ....云々。」 
 
 スペインでは、後にヨーロッパ孔雀のことをその姿、形が類似していることから七面鳥と呼ぶよう になるのだが、エルナン コルテスは、ベルクルスの港で船を下り、初めて七面鳥の姿に接した。そして国王カルロス5世に、モンテスマ廷の庭に数千匹の七面鳥が飼育されていると報告 している。彼はヨーロッパの孔雀と比較してあまりの大きさに驚嘆したようである。征服者たち自身も、七面鳥の肉は白身で柔らかく、食材としても適し、鳥類 の肉の中で最も美味なものと高く評価している。七面鳥の卵は食材としても利用されたが、美味さの面で、七面鳥の煮込み料理には遠く及ばなかった。
 
 
 
 
 メソアメリカ古代文明圏の人々は、野菜の世界に無尽蔵の食材を見出し、植物に関する豊富な知識 を巧みに活用し、次々に新しい方法を開発していったのである。野菜は彼らの食習慣上、ベースとなるものであった。多様な農業栽培物の中でも食用の植物相 は、大まかに穀類、野菜、果実に分類することができる。前述したように、彼らの世界独特の野菜栽培、食材としての利用法は世界に文化に寄与しているといっ ても過言ではないだろう。 
 
 野菜の中でも、トウモロコシ、チリ唐辛子、カボチャ、インゲン豆は、前述した通り、彼らの代表 的な食材である。トウモロコシ、チリ唐辛子については、彼らの食習慣を語る上で重要な要素を持った植物なので、詳細については別の章に譲ることにし、ここ ではスペイン人占領時代以前の食材として重要な位置を築いていた他の野菜・果実について述べることにする。 
 
 最初に、メソアメリカ古代文明圏を起源とする野菜で、ヨーロッパに紹介され、その普及が進むに 連れて、ヨーロッパの食卓に一大センセーションを巻き起こしたとされるトマトについて見てみることにしよう。昔からメキシコの温暖な地域に野生のトマトが 自生していることはよく知られていた。ナワトル語で「tomatl(トマトル)」と言い、スペイン語の「tomate(トマテ)」の語源になったものと想 像され、その種類は「miltomatl、coatomatl、xaltomatl、xictomatl」と様々である。「miltomatl(ミルトマ トル)」は青いトマトで、トウモロコシ畑などに見られるトマトのことである。「xictomatl(キクトマトル)」は朱紅色をした大型トマトのことで、 元来、ヘソ付きトマト(xictli=ヘソ)を意味し、茎から切り離した時に小さな穴ができることに由来しているものと思われる。エルナンデス風の言い方 をすれば、小さくて「かわいい」トマトとなるのであろうが、小型トマトの場合、石板の上で磨り潰した白サポジラやパイナップルと一緒に混ぜ、それに、芳香 性のアリタソウの小枝や香辛料・塩を加えて作る塩辛いトマトジュースを作るようなこともあったようであるが、用途としてはチリソースの材料というのがその 主流であった。 
 
 カボチャの一種であるフィチフォリアやチャヨテ(ハヤトウリ)も栽培されていた。チャヨテは実 の部分だけではなく、種や根の部分も食材として利用されていた。根の部分は「チンチャヨテ」とも称され、「チャヨテの下の部分」という意味を持っている。 カボチャは柔かくして食べるのが普通で、そのために、無限の利用法や下ごしらえの方法が創造されていった。カボチャの場合、実質的にどの部分も残さず全て が利用されていた。カボチャの種は調味料として、あるいは煎って、モレ料理やお菓子の材料として使用されていた。カボチャの葉は、食べ物を包み込んだり、 蒸し焼きをするために利用し、花はチリ唐辛子と一緒に煮込んでいた。カボチャはそのままでも腐らずに長期間保存することが可能であった。
 
 ナワトル語で「quelitl」、属名が青菜と呼ばれる植物の中には、キントニル、スペリヒ ユ、ウアンソントレスなどの無数の食用野菜があるが、テケスキテや塩を混ぜて煮詰めて食べられていた。 これらの青菜は栄養価も極めて高く、他の野菜と一緒に、メキシコ渓谷地帯の湖上に泥土で造成された土地や人工島において大量に栽培されていた。 
 
 
 ウチワサボテン(Opuntia spp.)は、乾燥した地域独特のもので、古くからメキシコを代表する典型的な景色には欠かせない植物であった。この植物は野生のもの、栽培されたものに 関わらず、食前に刺を抜き、葉や実の部分「テューナ」が食べられていた。サーグンは次のように記している。「この大地には、サボテンの実をつけた樹を意味 する「nopalli」なるものがある。この樹はお化けのように巨大で、葉とも枝とも判断できないような多くの葉から成り立っている....云々。」柔ら かいサボテンの葉は、柔かく食べ易い上に消化にも良いということで、とても珍重された。 
 
 刺の多い植物は、スペイン占領以前の時代、住民の日常生活の様々な場面で重要な役割を果たして いた。カルドン、タマサボテン、ウチワサボテン、リュウゼツランなどが挙げられるが、これらの葉の部分や実を食していたのである。ウチワサボテンの場合、 食用の他に、薬用、あるいは宗教の道具として利用されていた。装飾道具としても使われ、テノチトランの紋章では石の上にウチワサボテンが置かれており、現 在、我国の紋章としても採用されている。  
 
 一方、リュウゼツランは、後述するプルケを抽出していただけではなく、「パイナップル」のような実の部分を焼いてお菓子のようにして食べたり、葉の部分は食べ物を包んだり、蒸し焼きの時に使用したりしていたので、とても重宝される植物であった。
 
 奇妙に思われるかもしれないが、アステカの人々にとって、花々はただ単に目を楽しませてくれた り、素晴らしい香りを提供してくれるだけではなく、魅力的な食べ物のひとつであった。一番馴染みのあるのはカボチャの花と思われる。その他、コロリンや、 ナワトル語、マヤ語でそれぞれ「zompantli」「k’ante」と呼ぶ花をはじめとし、イトラン、ナツメヤシ、リュウゼツランなど多種類の花を利用 した、塩味や甘い味の料理が食卓に並んでいた。
 
 湖岸の住人たちは、湖で成長し、湖面に漂う海藻を食用として利用していた。青緑色をした海藻が その中心で、蛋白質、鉄分が豊富に含まれていた。「amoxtli」、「tecuitlatl」「cocolin」などと呼ばれ、適当な厚みになるまで成 長するのを待って収獲し、灰を敷き詰めた上に海藻を広げて乾燥作業を行なっていた。乾燥させた海藻はパイなどに入れて食べていたようである。
 
 種類がたくさんあるキノコ類についても、煮込み料理の食材として使用されていた。よく話題とな る奇抜な色のキノコほど、「酩酊させ、ボーッとさせ、幻想を抱かせる」などの幻覚症状を引き起こす危険性の高いものなので、食材として使用できるキノコは 限られていた。しかしながら、神との遭遇を目的とした宗教的儀式で、これらのキノコを摂取することもあった。
 
 
 当時の人々は、水面や地上に現われているものばかりを食していたわけではなく、次に述べる、水 面下や地下にある木の根や塊茎のようなものも食材の対象として捉えていたのである。「チンチャヨテ」あるいは「チャヨテの根」。キャッサバは同名潅木の塊 茎で栽培し、市場で販売されていた。カモテはサツマイモに似た芋で、あま味あるいは塩味をつけて、煮たり、焼いたり、あるいは生のまま食されていたが、他 の果実と一緒に調理するのが一般的であった。ランダ司教は次のように記している。「地中に種を播くとまた別の根っこが生える。褐色、黄色、白という具合に その色は様々で、煮たり焼いたりすると美味な料理ができ上がる。酒のつまみとしても最高である云々。」最後は、ヒカマと呼ばれる山芋で、中央台地地域やマ ヤ地域でも、塩を振りかけて生で食べられていた。
 
 ヒカマについてはこのあたりにしておいて、次に、年間を通して見られ、実に驚くほど豊富な種類 がある果実の世界について述べてみることにする。野生の果実だけではなく、名前を挙げたらきりがないほど多くの果実が栽培され、住民の胃袋を満たすばかり ではなく、征服活動で多忙なものの心を癒してくれた。ナンチェス、パパイヤ、サンザン、セレウス、カプリンチェリー、山桃、野生ビデス、ミルタス、チリハ タゴノキなどの果実は芳香を放ち、色とりどりの華やかな景色を見せてくれたのである。ランダ司教は冗談を交え次のように記している。どの果実がなんという 名前なのか今でも識別できないでいるが、マヤ族の大地に育つ果実が持つ形、サイズ、色、味、実を構成する繊維質部を見ていると、押さえ切れない欲望が湧い てくる...云々。 
 
 バラエティーに富んだ種類を持つ果実のひとつに、ナワトル語で「tzapotl」というマメイ に似ており、「内側は赤く色づき、外側は褐色で、ザラザラした感じ」の果実サポジラが挙げられる。チリモヤ、パンレイシ、グアナバナ。「tzapotl」 のように外側は灰色で、内側にはインゲン豆みたいな種があり、その他の部分はブランマジェのようで大変美味な味がする。「チコサポテ」は小型サポジラであ る。実際のところ、サーグンが記しているように、サポジラ科に属する果実は、黒色、白色、黄色、オレンジ色という具合に色も様々で、甘い果肉の部分が食さ れたり、飲み物としても利用されていた。また、種を取り出したマメイやチコサポテの果実部を「モルカヘテ」と呼ばれる臼を使って小さく砕き、お菓子を作 り、これにプルケや雌の無毛犬の乳を掛けて飲んでいたようである。お菓子と液体がよく混ざるようにシェイクし、暫くそのままにしておき、十分混ざったとこ ろで、カクテルの飾りとしてピーナッツを掛けて出来上がり...というわけである。 
 
 スペイン人たちはメキシコ国内で見つけた果実と、自分たちが知識として知っている果実の名前と を混同する傾向にあった。コルテスは「カプリンチェリー」のことをさくらんぼと称しており、コヨアカンで見た大量のカプリンチェリーを見て感動していた。 また、杉の実には、外観が似通っていることからパイナップルという名前がつけられた。
 
 果実の場合、その味を楽しませるだけではなく、治療薬や消化剤としての役割も担っていた。タマ リンド(Tamarindus indica:原産は熱帯アフリカのサバンナ地域)は下剤として利用され、グアバ(Psidium guajava)やウチワサボテンの果実から発散される香りは「胃のむかつき」を抑制する働きをしていた。ウチワサボテンの果実「nochtli」も、緑 色、黄色、赤、ピンク、褐色と様々であったが、エルナンデスは次の6つのタイプに分類し、全ての名前にサボテンの果実を意味する「nochtli」が付い ている。yztacnochtli、coznochtli、tlatonochtli、tlapalnochtli、tzaponochtlis、 zacanochtliである。 
 
 
 水蜜桃も、黄色、赤、オレンジ色、丸いのも、細長いもの、多果肉のもの、種が大きいもの小さい ものと様々であるが、誰にも喜ばれた果実で、メキシコ貴族向けの料理の食材として使用されていた。水蜜桃のみで、あるいは他の果物と組み合わせてお菓子が 作られていた。果実は一般的に日持ちしないもので、暖かい地方ではその傾向が顕著だが、水蜜桃の場合は長期間に渡る保存が可能であった。 
 
 これらのバラエティーに富む果実の中で、大半の住民が栽培していたのはアボガド(Persea americana)(スペイン語名はアグアカテ) で、彼らの料理には欠かすことのできないものであった。この果実は、メソアメリカ古代文明圏だけではなく、アメリカ大陸の各地域(チブチャ、アンデス、ア マゾンなどの地域)独特の果実である。世界中のどの言語においても、この果実を意味する単語は、ナワトル語の「ahuacatl(アウアカトル)」から派 生したと思われる単語が使用されている。「ahuacatl(アウアカトル)」の本来の意味は、果実の形からだろうが、「睾丸の樹」という意味を持ってい る。メソアメリカ古代文明圏では、塩辛い料理の食材として使用されることが多いが、南米では果実としての性格を失っておらず、甘くして食べるのが一般的で ある。 
 
 メソアメリカ古代文明圏で消費される野菜・果実類はビタミン、ミネラルが豊富で、人間の食事で 重要な要素を構成する蛋白源となるものもあった。色々な臓器の肉を食することにより、極めて重要な栄養源を摂取できることは解っていたが、蛋白が豊富な植 物を食べることによっても十分対応できることが理解できた。特に顕著なのが、インゲン豆(Phaseolus vulgaris)の場合である。この地域の文化研究者によれば、メソアメリカ古代文明圏の文化発展を検討する上で、インゲン豆栽培の農業への導入の事実 を抜きにしては考えられないとしている。
 
 このマメ科の植物は蛋白質が豊富で、スペイン人占領時代以前の食習慣の基礎となるものであり、 カリブ諸国を含め、メソアメリカ古代文明圏の時代から今日まで、我々の食卓に常に並べられていたのがチリ唐辛子(Capsicum annuum)である。インゲン豆は、サヤインゲンのさやから取り出された種である。色、形、サイズも様々で、白色、黒、黄色、ピンク、褐色のものがあ り、形も丸いものや細長いものがある。最もサイズが大きいのはアヨコテといわれる品種で、普通サイズのインゲン豆と比較すると、2〜3倍の大きさである。 今日もそうしているように、インゲン豆はトウモロコシと一緒に栽培するのが一般的であったが、テノチトランに従属する住民が貢ぎ物として献上した品の中 に、多く見られたもののひとつである。 
 
 
 蛋白質を多量に含み、よく食されていた他の植物といえばピ−ナッツ(Arachis hypogaea)である。その名前カカウアテは、この植物の実が土の中に隠れていることから、ナワトル語で「地中のカカオ」を意味する 「tlalcacahuatl」に由来すると思われる。メソアメリカ古代文明圏で多く見られるものの、その原産地は南米だと思われている。ピーナッツは油 性分の高いマメ科の植物で、その種をすりつぶして油を得ていたのである。煎ったり、塩味、甘みをつけて食べたり、他の料理に混ぜて使用されていた。
 
注)ピーナッツの原産は、ボリビア高地といわれている。
 
 ピーナッツはカカオ(Theobroma cacao)の一品種と考えられていたので「地中のカカオ」を意味する名前がつけられた。カカオは高く賞賛された主製品で、スペイン人占領時代以前から植 民地時代が終了するまでの間、通貨としても利用されていた。カカオが通貨として流通していた頃、カカオの殻の中に黒色の詰め物をしたり、アボガドの芯を入 れたりしてできた偽造通貨が頻繁に発見されたものである。カカオはメソアメリカ古代文明圏内の様々な地域で栽培が行われ、特にオアハカの南東部、沿海地方 は特産地であり、最も賞賛されたのはソコヌスコ産のものであった。カカオの原産地がメキシコであったかどうか定かではないが、アメリカ大陸発見以前にメキ シコ湾からアマゾン流域にかけての地域では既に栽培が行なわれていたのは確かである。自然科学者のリンネオは、植物の分類を行ない、カカオを神様の食料を 意味する「teobroma」のひとつとしたのである。  
 
注)カカオの原産は、オリノコ川源流及びアマゾン川上 流と考えられている。人の移動によって広く持ち歩かれた。なお、カカオは、マヤ語のカカウアトルCacahuatleという植物名から、チョコレートは水 の中でトウモロコシの種と共に煮、トウガラシを加えた飲料チョコラトルChocolatlに由来する。
 
 フランシスコ エルナンデス博士はカカオを3つのクラスに分類し、全ての中で最高レベルのものを「quauhcacahuatl」、中級のものを 「mecacahuatl」そして最も劣るものを「xochicacahuatl」とした。種の色は黒、灰色、赤であった。最高級のカカオは形が太めで、 実の詰まりも良く、新鮮なものは褐色をしている。しかし、実際には、これらの最高級のカカオと、質が悪く、サイズも小さく、実の詰まりの悪いカカオとを混 ぜて販売するのが一般的で、中には新鮮さを装うためにわざわざ煎ってみたり、サイズを大きく見せ、売れやすくするために水の中でふやかすようなことも行わ れていた。 
 
 大量の種製品がモンテスマ2世の宮廷に献上され、消費するために、様々のレシピが考えられた。 培煎を忘れるなというのが大原則で、そうしない場合、便秘、蒼白感、疲れ、目眩を引き起こすとされ、「魂が飛び出すほど何か悪いものを食べたのではないか と思わせるくらい心臓が鼓動する」そうである。    
 
 これは「テオブロミン効果」から派生していることを実証するものであり、カカオの主要作用のひ とつで、テオブロミンという名前はリンネオが名付けたものとされている。テオブロミンは、コーヒーに含まれるカフェインや、お茶に含まれるテインに似たア ルカロイド系の中枢興奮剤である。そのことから解るように、培煎したり熱湯処理されたカカオは、健康維持にも効果的で、「食欲を増し、楽しくさせる」効能 があるといわれている。 
 
 カカオを使った有名な飲み物として、中央台地地域でもマヤ文化地域でも飲料されていたチョコレートがあるが、飲み物については、後で詳しく述べることにする。
 
 スペイン人占領時代以前から、食習慣の中で重要な役割を果たしていた種製品について、もう2つ だけ記しておくことにする。チアとアマランサスである。チアはすり潰し、小麦粉状にしてピノレとして食べたり、新鮮な水と混ぜて使用していた。チアの種は 油性分が高く、種をすりつぶして油を得ることも可能であった。 
 
 アマランサス(Amaranthus caudatus)、「huauhtli」は種製品で、他の食材と混ぜて、今日「アレグリア」と呼ばれているお菓子が作られている。アマランサスは品種も 豊富で、野生のものや栽培されたものもあるが、その原産地は全てアメリカ大陸とされている。柔かい部分は野菜として食され、茎と葉の部分は前述した青物類 と同様、テケスキテや塩を混ぜて煮込んで食べていたようである。また野生の品種は、スープ、アトーレ、シチューなどに用いられていた。つまり、栽培された ものか、野生のものかにかかわらず、メソアメリカ古代文明圏およびその周辺の住民は、アマランサスの柔らかいい部分、茎、葉、種など全てを利用していたわ けである。食材として利用価値に優れ、ヨーロッパ品種のアリタソウという植物に類似しているため、最初に到着したスペイン人はこの植物に同じ名前を付けた のである。サーグン、エルナンデスの二人とも、古代メキシコ人たちの間でよく知られて栽培されていたアマランサスの7品種をリストアップしたが、その中で も顕著だったのは、「michihuauhtli」(michi =魚)と名付けられていた品種である。その種の形が魚の卵に似ていたことからこういう名前がつけられたと思われるが、食材としては間違いなく珍重されるも のであった。  
 
 
 アマランサスはモンテスマへの貢ぎ物の一部であったが、トウモロコシに代わる基本食糧として利 用された。種を使って、タマレス、アトーレ、ピノーレが調理され、柔らかい種はアレグリアというお菓子の下ごしらえ用として利用するため、一度煎った後、 蜂蜜と混ぜて煮込まれていた。現在、前述のお菓子は次の方法で作られている。ゴミなどが混在していないようにアマランサスの種を十分洗い、数時間水に浸け ておく。水を切って日の当たるところに広げ、天日で乾かす。素焼きの皿に載せて炒めるが、その時に、焦げ付かないように、常にかき回しておかなければなら ない。「パチパチ」と炒める音がなくなったところで火を止め、沸騰したお湯を使ってあらかじめ溶かしておいた蜂蜜の固まりをアマランサスの上に載せる。蜂 蜜を満遍なくなくアマランサスの上に広げ、真四角の「アレグリア」にするため、切りやすいように上から重しをのせておく。スペイン人占領時代以前のメキシ コでは、蜂、蜜蟻、あるいはリュウゼツランから出る蜜を利用してアレグリアを作っていた。
 
 信仰の厚いスペイン人たちは、アマランサスの栽培を禁止した。何故なら、アマランサスの栽培に よって新たな偶像神が作られるとするスペイン人占領時代以前の信仰・慣習を恐れたためであった。彼らは何世紀にもわたって、エネルギー、蛋白質、ミネラ ル、ビタミンの源を創り出す植物を追放するように命じていたのである。
 
 
 
 
 
 過去から現在まで、メキシコの食材の中で最も素晴らしいとされるのはイネ科の植物トウモロコシ だ。トウモロコシの特色を考慮すると、その他の穀物とは比較にならないのは明白である。最も進化した穀物と評価することができるであろう。考古学調査によ れば、トウモロコシは、メソアメリカ古代文明圏で最も古い遺跡の中から、インゲン豆、チリ唐辛子、アマランサス、サポジラ、カボチャ、アボガドなどと一緒 に発見されたもののひとつであった。
 
 トウモロコシは、最も価値のある宝石と同等に扱われた植物であった。トウモロコシの葉はケッツアルの青くて長い羽根と並び称され、緑の葉で被われたトウモロコシの穂は、その価値の高さから翡翠のネックレスと同等に扱われた。
 
 食材としての重要な位置を占めていることから、聖なる植物として扱われ、人間の起源にも関与し た植物であるため、植物の王様的地位を与えられており、それはまるで人間が生き物の世界で王として君臨する姿に類似するところがある。トウモロコシに関し て書いておきたいことは山ほどあり、興味のある読者には次の作品を一読されることを希望するものである。アルツロ ワルマン著『一庶民の歴史‐トウモロコシと資本主義』(La historia de un bastardo. Maiz y capitalismo)。
 
 ナワトル神話やマヤ神話の中では、人間の出現にトウモロコシがいかに関わってきたのかその様子 が語られている。ナワトルの伝説では、トウモロコシと一緒に人間が数回にわたって創造され、トウモロコシより質の悪い穀物を食べて成長する姿が伝えられて いる。創造の度に人間らしい姿となっていくのであるが、失敗の連続だったと伝えられている。そのため、ケッツアルコアルは死の世界に赴き、これまでに創造 されて失敗作となっていた人間の遺骨を収集し、細かく砕き、それに神々の血を混ぜて素材を作り上げた。この素材を十分練った上で、新しい人間、最も進化し た人間を作り上げた。これは実に5番目の作品であった。ケッツアルコアルは、この人間にできる限りの食料を与え、育てるよう努めたのである。彼は、一匹の 赤い蟻がトウモロコシの粒を一生懸命運んでいるのを目撃した。きつく問い詰めても、蟻はどこでトウモロコシを手に入れ、運んでくるのか教えてくれなかっ た。そこで、ケッツアルコアルは黒蟻に姿を変え、赤蟻の後を追った。トウモロコシは「食料の丘」と称される小高い丘で見つかった。ケッツアルコアルは、見 つけたトウモロコシをタモアンチャンに持ち帰った。神々はこのトウモロコシを小さく噛み砕き、創造されたばかりの人間に与えた。人間は逞しく成長し、この 世で最も完全な姿の生き物として生き続けることが可能となったのである。
 
 トウモロコシと人間の起源について語られているこの伝説は、「コディセ チマルポカ」の中に記されている。マヤの伝説でも、人間の出現にトウモロコシが関わっていたことが記されている。「ポポルブ」もしくは「ポップブ」という タイトルのマヤ族の神聖なる書の中でも、神々の手によって、人間創造が数度に渡って繰り返されたことが記されている。最初は材料として泥土が使用され、2 回目は木材と杖が利用された。2回とも試みは失敗してしまう。最初は泥土製の人間だったため、水に濡れると柔らかくなってしまい、元の泥土に戻ってしまっ た。木材で試作した時、人間に才覚と知恵が不足していることが解った。神々は洪水と地震を引き起こし、これらの試作品を破壊してしまうのである。3回目の 試作はトウモロコシを利用して行われた。トウモロコシを練って、新しい人間を作り上げ、完全な形に近いものとなった。この試作品は話もでき、考えることも できた。神々はこれまでの努力が報われたことを感じるのである。 
 
 これらの伝説はトウモロコシがメソアメリカ古代文明圏の人々にとっていかに重要なものであるか、なぜトウモロコシが神聖な植物として扱われるのかを教えてくれるのである。
 
 しかしながら、スペイン語でトウモロコシを意味する「maiz」という単語の由来を探ると、そ れがナワトル語でもマヤ語でもなく、ハイチ語であることがわかった。植物学者リンネオはトウモロコシの学名として「Zea mays」を採用した。これは「生命の理由」を意味している。ナワトル語、マヤ語ではトウモロコシのことをそれぞれ「cintli」、「ixim」とい う。
 
 トウモロコシには様々の色がある。白いもの、灰色、青、黄色、ピンク、赤、褐色等などであったため、トウモロコシを利用して創造された人間は同一の肌の色でなく、色々な肌の色を持つ人間が生まれてきたと伝説には語られている。 
 
 征服者であるスペイン人たちは、新大陸に人々にとって重要な位置を占め、他の穀物と比較し優れ ているというだけでなく、いかなる大地、気候でも大量のトウモロコシが育つことを重視し、この植物を賞賛した。実際のところ、トウモロコシは、寒冷地、温 暖地域、乾燥地、湿地、潅漑設備のある地域、雨水のみに頼る地域など、様々の異なる条件に上手に適応し、実をつける逞しさを持つ植物である。栽培に必要な 気象条件の領域でも、最も幅のある植物である。また、高い栽培効率を誇っている。一本の穂の中に実が集中しているため、一粒のトウモロコシから、 300〜1000粒のトウモロコシを収獲できるという点で他の穀物とは比較にならない収獲率を誇っている。この得られたトウモロコシの一粒から、ほぼ同量 の収獲が繰り返し行なえる。他の穀物の場合、一粒から収獲される量はずいぶん少量である。 
 
 
 上述した他にも、トウモロコシは、結実に必要な時間が少ないという点、また保存が簡単で、しか も長期の保存にも耐えうるという点で例外的な植物である。もし、そういう利点がなくても、トウモロコシは総体的な利用ができるという点で他の穀物より優れ ている。つまり、トウモロコシは、人間や動物の食料として無駄にするところがなく、全てを利用できるからである。
 
 収獲したばかりの、もしくは乾燥したトウモロコシの葉や、穂についた葉は、食材を包んだり調理 するため(タマレスの場合のように)に利用される。トウモロコシを熱湯でゆがいた後の残り湯は、利尿作用のあるお茶として飲用された。実の入っていないト ウモロコシの穂はオロテスと呼ばれ、燃料として利用されていた。トウモロコシに寄生するキノコ、「huitlacoche」「cuitlacochin」 や、穂の中で成長する「トウモロコシ虫」と称されるうじ虫さえも食材として利用されていた。これらの食材は、煮込んだり焼いたりしてトルティージャで包む タコスの具となった。トウモロコシで一番重要なのは穂の部分で、柔らかくしたり乾燥させたりして食べられていた。乳のように柔らかい部分は焼いたり、煎っ たりして食べられた。柔かいトウモロコシの粒はそのまま蒸したり、石うすですり潰した後、タマレスやアトーレなどに混ぜて使用された。乾燥させたり、穂か ら外された粒は以下に述べる3つの方法で下ごしらえが行われた。
 
 
1)小麦粉やピノーレ、アトーレにするため、トウモロコシの粒は煎った後すり潰される。アトーレの場合、柔らかいトウモロコシで作ったものと比較すると、味や生地にも違いが生じる。
2)トウモロコシの粒で「ニスタマル」を作り、それに水を加えて生地を作る。その生地からは大量の食品、トルティージャやタマレスをつくることが出来る。
 
3)トウモロコシの粒を、パンパンと音を出して弾けるようになるまで煎ると、今日、ポップコーンと呼ばれている食べ物を作ることができる。ポップコーンは当時でも好まれる食品のひとつだった。 
 
 当然のことかもしれないが、トウモロコシを取り扱う上でひとつ禁止されていたのは、結実前の穂 「xillotl」あるいは若芽を食べてしまうことであった。当然のことだといったのは、確かに結実前ではあるが柔らかいので、どうしても結実を待たずに 食べてしまうことが多かったからである。結実前に食してしまうと、穂が充分に成熟しなかったり、若芽の発芽が遅れたりする影響が出てきていたのである。そ のため、穂が成熟するまでは細心の注意を払って監理が行われていたのである。 
 
 前述したように、トウモロコシは食用として棄てるところもないほど利用できる植物であるが、こ のイネ科の植物の擁護する人々の口からは、不思議でとんでもない(理由はわからないが)利用法が語られているのである。ここで紹介しておくべきだろうが。 トウモロコシの乾燥した茎を家壁や天井に利用したり、医薬品として重宝される部分もあるそうで、使いみちがなく棄てられたものは肥料として効果的だという から驚きである。 
 
 では、トウモロコシの話はちょっと中断して、トウモロコシで作られるタマレスとトルティージャについて述べてみたいと思う。 
 
 前述したように、タマレスは、柔かいトウモロコシあるいは粒状のトウモロコシをつぶしてできた 「ニスタマル」を原料として作られる。最初に「ニスタマル」の説明から始めることにする。乾燥したトウモロコシ粒を洗いながら不純物を取除いた後、石灰を 入れた水で煮詰める。沸騰するまでゆっくり煮詰めるが、焦げ付かないように頻繁にかき混ぜる。時期を見計らって、指で押さえて硬さを確かめるのだが、上皮 組織が楽に剥がれる状態になったら、火を止めて蓋をかぶせ、約1日そのままにしておく。そして、水洗いと充分な水切りをした後、女性の手を使って、水を加 えながら、生地が柔かく、均一な状態になるまで石板上で砕き続ける。この作業でできた生地が「ニスタマル」で、この生地を使ってタマレスやトルティージャ を作るのだが、前者の場合、後者用の生地を作る時に比べ、より長い時間をかけて煮詰める必要がある。 
 
 上記の生地を小さく千切りにして、前もって水洗いしておいた新鮮な、または乾燥したトウモロコ シの穂に付いていた葉の上に伸ばしながら置いていく。生地を包み込むような形で葉を締め、それを蒸気で蒸すのである。タマレスの中には生地と一緒に、鳥の 肉、魚、煮込んだインゲン豆、生地とチリソースを混ぜたもの等を包み込んでいく。タマレスの中身がトウモロコシだけのこともあるし、サイズや形も作る人に よって様々である。
 
 フランシスコ ベルナルディノ デ サーグン司教は、7種類のタマレスについて次のように説明している。「タマレスも色々な食べ方があった。白いタマレスがあって、『ページャ式(生地が丸く なるように上から押さえつけたもの)』や、形が丸くもなく四角でないものもあった...他にも白いタマレスがあったが、生地があまりにも薄かったような気 がした...生地が硬いのもあったし...そう言えば、色のついたタマレスを食べている人もいた...できたばかりのニスタマルを2日間ほど天日や焚き火 で乾かし、チリ唐辛子を加えてこねるのだそうだ...白くもなく、ちょっと色のついたタマレスだけを食べている者もいた...中に何も詰めてないタマレス を食べている人もいる...アマランサの種やカプリンチェリーを詰めて食べていたり..云々。」
 
 サーグンは魚、蛙、小さく切った鶏の肉などを詰めたパイについても記している。「鶏肉のパイは、鶏がそのまま一羽詰めたようなもので、まるでタマレスのようであった..云々。」 
 
 もし、メソアメリカ古代文明圏の人々にとってトウモロコシが食材の王様としたら、トルティー ジャは王女様、王様お気に入りの娘と表現したらいいのだろうか。トルティージャは、メキシコに古くから住む住人の基本的食料であったからだろうか、スペイ ン人たちはトルティージャのことを「原住民たちのパン」と表現していた。ディエゴデランダ司教は、「パンの食べ方も様々で、健康にもよいみたいだが、冷え たパンだけはいただけない。」と記している。(確かに、現代もそうだが、当時のスペイン人たちが口にしていたのは、小麦粉で作ったパンで、作った後じゅう ぶんに冷ましたパンであった。)ランダ司教の記録は次のように続く、「原住民たちは1日に2度もパンを作っている..云々。」ランダ司教の記録の通り、ス ペイン人占領時代以前の女性たちは、石版の前にひざまづいてトウモロコシを挽きながら1日、いや人生の大半をを過ごしていたのである。 
 
 
 女性たちは「ニスタマル」を上手にこね、できたばかりの美味いトルティージャを会食者に提供す るだけでなく、サーグンが記しているように、多くのことが女性には求められた。「美味い料理を作れること...働き者であることそして丸くて美味いトル ティージャが作れなくてはならなかった...また、ソペスやメメラス用として細長い形のトルティージャ、ピカディージャ用に折り目のついたトルティー ジャ、チリ唐辛子を上手く捲いたトルティージャも作れなくてはならなかった...。トルティージャを上手く作れる女性は煮物の味見でも卓越しており、美味 いか不味いがすぐ分かり、見た目きれいに、かつ美味しく仕上げることができるのである...云々。」伝統的に、女性の役割は調理と食材の下ごしらえをする ことと考えられており、古き時代のメキシコ人にもその伝統は引き継がれていたのである。つまり、煮物料理を旨く作れない、トルティージャを作れない女性 は、「汚く不潔で、食べてばかりいて怠け者。トルティージャも旨く作れず、料理をしても薫製になってしまい、塩辛くて食べられたものではない。とにかく何 をやらせても役立たずのばか者」と評価されてしまうのである。
 
 古くから、そして今日でもメキシコ料理の基本であるトルティージャを作るには、できたばかりの ニスタマルを少しちぎり、手のひらにに挟んで、リズミカルに音を立てながら、薄くかつ丸く仕上げていくのがコツで、出来上がったトルティージャは、焚き火 の上に載せたコマルという鉄板の上で焼いて出来上がりということになる。 
 
 
第27図. スペイン人占領時代以前の女性たちは、人生の大半を石版の前でトウモロコシを挽きながら過ごしていたのである。 
 
 
 メメラス、トラユダス、ソペス、チャルパス、ペジスコス、ゴルディータス、モロテスなど我々が 今日知っている料理の種類によってもトルティージャの形は違ってくる。年代記編纂者が「長いロールパン」と呼んだトラコーヨスは、現在でも作られており、 生地の中央に煮込んだフリホーレスや他の具を詰め込み、飛行機の胴体状に長く伸ばしたもので、これもまた鉄板の上で焼かれていた。サーグンも多くの種類の タコス料理について記している。 
 
「...totonqui tlaxcalli tlacuelpacholliは、白くて温められたトルティージャを意味し、ueitlaxcalliは大きなトルティージャのことである。大変白く て、薄く、幅が広いとされているので、今でもオアハカ地方で作られているトラユーダスというタコス料理だと思われる。 ...quauhtlaqualliは、白くて、厚みがあり、大きく、表面がザラザラしている(ニスタマルを潰して作られており、石板の中では丹念に砕か れなかったようである)。tlaxcalpacholli(色のついたトウモロコシで作ったトルティージャの意味)という褐色の美味なトルティージャーも あり、tlaxcalmimilliというトルティージャ料理は、形状は丸くないが白くて、手のひらほどの長さのロールパンである(これはチリソースを生 地に加えて作ったメメラスやトラコーヤスに類似する料理である)。tlacepoalliと呼ばれる料理は生地を薄く延ばして作ったものだが、食べ方が難 しく、味はゴルディータみたいで...云々。」
 
 トルティージャはそれだけでも充分食材としての役割を果たしているし、他の食材と組み合わせる こともできるが、食器として、またフォークやスプーンなどテーブルセットの一部としての役割も有している。トルティージャは食事のベースであり、他の料理 を引立てる調味料でもある。トルティージャを使った代表的な料理は次の通りである。チラキーレス、エンチラダ、エンフリホラダス、タコス、パヌチョス、パ パテュレス、ソパス等などで、そのほとんどがスペイン人到着以前の時代を起源し、その後スペイン人たちが導入した調理法を受入れながらアレンジを繰り返し ていった料理である。こうした新しい調理法を受入れ出来上がった料理の代表が、一般的なタコス料理に、小さく刻んだ玉ねぎ、シラントロを入れた朱紅トマト とチリ唐辛子のソースをかけて食べるタコス デ カルニータであろう。「タコ」という名称は、詰め物をしたトルティージャを意味する「tlatlalolli」から派生したものとされ、トルティージャを 捲いて作られる。コヨアカンでのテノチカス族征伐を祝う祝宴で、コルテスは彼の軍隊を、既にスペイン人風にアレンジされていたタコス デ カルニータとワインで厚くもてなしたのである。  
 
 食生活に関連した習慣の大半は、現在においてもそのまま引き継がれているのは確かである。これこそが文化であり、時間と共に多くの世代に受け継がれていくのであろう。
 
 
 多くの種類の穀物や種が食事の下ごしらえ用として利用されたが、飲み物としても姿を変えていた。これらの飲料はアルコール系、および非アルコール系に区別することができる。
 
 これまでのトウモロコシに関する説明の中で、食用として広範囲に利用されてきたこの穀物は飲料 物、特にアトーレとしても利用されてきたことを述べてきた。この非アルコール系の飲料水は「ニスタマル」の生地を水に溶かし、それを沸騰させて下ごしらえ が終了する。そうすると、濃縮されたソースが貯まる。そのソースを煮詰めて、冷やすか暖めて飲用する。マヤ族の人々は午前中に暖めたアトーレを飲用するこ とを習慣とし、残った分に水を加え「力を与える水」として長い1日の間に水の代りとして飲用したのである。 
 
 
 アトーレはニスタマル生地、つまり調理したトウモロコシを原料として作られている。トウモロコ シを煎って、砕いて、水に溶かして、あるいは砕いた生のトウモロコシをそのまま水に溶かして飲用されていたようである。生のトウモロコシを使用したアトー レは気分をとても爽やかにする飲み物であった。 
 
 フランシスコ エルナンデス医師のメキシコ植物に関する著書や、年代記の中にもトウモロコシをベースに作られていたアトーレについての記述が多く見られる。蜂蜜を添加し たもの、白色のアトーレ、チリ唐辛子、フリホーレスを混ぜたもの、芳香植物アリタソウを入れたものなどその種類は様々である。中には水に溶かす際に、アマ ランサスの種に水を添加しながら挽いてできた生地を混ぜたアトーレもあった。このアマランスの種は、前述した通り「michihuauhatoli」と呼 ばれ、爽快感を与えてくれ、栄養価も高かったので「michihuauhatolli」と呼ばれ親しまれていた。また、アマランサスを加えたアトーレも存 在していた。 
 
 アトーレの他にも、新鮮なフルーツをベースにした清涼飲料水もあった。グアヤバ、チリモヤ、タ マリンド、サポテ等のフルーツが利用され、フルーツ自体の糖分で、または蜂蜜を加えるなど甘くして飲用していた。「チア」というサルビアの種で作った飲み 物は大変な人気で、メソアメリカ古代文明圏全域で作られていた。「チア」は、メキシコ原産の植物で、その種を煎って、砕くか、もしくは水に濡らしただけか のどちらかの方法で作られていたのだが、いずれの場合でも、粘着性があり清涼感をもたらしてくれる飲み物となっていた。
 
 メキシコ独特の飲み物で有名なものとしてチョコレートが挙げられる。作り方は、二つの方法があ る。一つは、カカオの果実の種が「汗をかく」まで天日に干し、その後、石うすで挽くというものである。もう一つの方法は石うすで挽く前に煎るというもので ある。何れの場合でも、挽いたカカオの種に水を混ぜてペーストを作り、それを煮込み、泡が出るまで入念にかき混ぜると出来上がりである。イエズス会の神 父、ホセ デ アコスタのように年代記編者の中には、この泡を見ると吐き気がすると記しているものもいる。ヨーロッパ人に紹介され、受入れられた時点で、彼が評価した 「不味い飲み物」という考えを打ち破るような改良は予想もされていなかった。 
 
 チョコレートは美味しく、強壮剤としての役割も持っていたため、好まれる飲み物であった。モン テスマ皇帝お気に入りの飲み物で、蜂蜜を加え、金色の杯で少しずつ飲んでいたそうである。メソアメリカ古代文明圏では、水に溶かし、冷やしたチョコレート の苦味を味わいながら飲むのが一般的であった。リュウゼツランの蜜を入れて甘くしたり、チリ唐辛子を入れて香りを高めたり、バニラや香りの強い花を添えて 飲用することもあった。食後の飲用が一般的であった。 
 
 アステカ族、マヤ族、サポテカ族、ミステコ族をはじめ、メキシコの多くの原住民族は、チョコ レートを高貴な飲み物として利用しており、ナウアッツ族の場合、媚薬としての価値があると考えていた。トウモロコシのペーストを混ぜて飲用することもあっ た。この飲み物についてランダ司教は次のように述べている。「ユカタン地方では、トウモロコシと挽いたココアを使って、泡を立てて作る美味しい飲み物があ り、祭りなどで飲用されていた。カカオからはバターのような油が抽出され、この油とトウモロコシを使って、美味しくて皆に好まれた飲み物が作られてい た...。」この引用文の中に記されている油とは、現在、白チョコレートの名で知られ、砂糖煮製造や化粧品、その他の商品製造のベースとなっているカカオ の乳脂に間違いないと思われる。
 
 
 チョコレートの語源については様々な説がある。ナワトル語で苦いをを意味する「xococ」 に由来するという説があり、「atl」は水を意味するので、「苦い水」ということになる。チョコレートは、挽いたカカオが水に触れる時に発生する「チョコ −チョコ」という音を真似た擬音語で、「atl」は、カカオを挽く石板「metlatl」に由来しているという説もある。アロンソ モリナ僧が16世紀に編纂したナワトル語の辞書では、カカオとトウモロコシを混ぜて作った飲み物のことを指していると推察されるが、「xocoatl」は トウモロコシから作られる飲み物と書いてあるだけである。しかし、年代記編纂者が記録しているように、ここから次のように様々な言語に派生していったもの と思われる。英語ではchocolate、仏語でchocolat、伊語でcioccolata、オランダ語でchocolade、独語で schokolade、ロシア語で shokolad、そしてスペイン語でchocolateとなる。 
 
 
 他の食材でも同じであるが、カカオの起源についての多くの伝説が残されている。その内のひとつ によると、神ケッツアルコアルは、人間に化身してトルテカ族の町テューラに派遣された。彼はトルテカ族を愛していたので、他の神様が所有していた植物を彼 らにプレゼントしてした。ところが、その植物からは神様だけが飲めるとされていた飲み物を抽出できたのだった。彼は、町の女性たちに、植物の種を煎らせ、 挽かせ、それを水と混ぜてシェイクするとチョコレートができることを教えたのだ。それを知り、激怒した他の神様たちは、神ケッツアルコアルの敵であるテス カトリポカに商売人に化けてテューラに向かうように命令した。商人は神ケッツアルコアルに楽しくなる飲み物だと嘘をついて、神ケッツアルコアルに飲み物を 与えた。テスカトリポカの嘘を信じた神ケッツアルコアルは、プルケをのみ、ベロベロに酔いテューラの住民に悪態をさらしてしまったのである。恥ずかしい思 いで彼は町を去ることにしたが、その時、彼は、カカオの樹がすべて枯れてしまっているのを目にした。彼は海 (現在のタバスコ地方の海とされる) に向かい、海岸で、彼のもとに残っていた最後のカカオの種を海に放り投げ、そのまま姿を消してしまったのである。それ以降、カカオは中央台地地域で花をつ けることがなくなり、神ケッツアルコアルが最後の時間を過ごした地域だけで花開くようになったと言われている。しかし、神様たちの飲み物チョコレートのこ とは、後世の人々に語り継がれるようになったのである。 
 
 アルコール系の飲み物も、スペイン人占領時代以前から、お祭りなどで社会的にも重要な役割を果 たしてきた。発酵した果実から多くの種類のアルコール飲料が作られていた。その一例としてウチワサボテンの赤い実を発酵して作る飲み物が挙げられる。この 実は地中に埋めて保存されていたが、水に入れて沸騰させると、何ヶ月ものあいだ保存可能な糖蜜菓子に変化した。マヤの人々は、その地方特産の木の樹皮を蜜 蜂の蜜と一緒に発酵させて「バルチェ」という名のアルコール飲料を作っていた。 
 
 今では有名となっているテキーラは、リュウゼツランの「実」を煮込んで作られるアルコール飲料 であるが、「tiquillos」族の人が発明したとされ、そこからテキーラの名前がついている。チキーロス族は現在のグアダラハラの北に住み、できたテ キーラを司祭や古老宛に限って出荷していた。
 
 司祭や古老に限ってアルコールの飲用を認めるということは、スペイン人占領時代以前において一 般的な習慣であり、庶民のアルコール乱用は厳しく取り締まられていた。アステカ人の間には、生まれながらにして酒乱の傾向があるものは司祭や古老には成り 得ないという考え方さえ存在したのである。しかし、この種の飲み物に対する規制がいつの時代にも存在したわけではない。 
 
 女神マサウエルと神パテカトルが創造したとされるプルケについても、同じように神様、司祭、古老の飲み物とされてきた。司祭や古老は、社会でそれぞれの責任を果たしたのだから、好きなだけ飲んでもよいという許可が与えられていた。 
 
 プルケはリュウゼツランから得られる最高の飲み物である。樹齢10〜12年のリュウゼツランの 芯部に深い穴をあけ、そこに両側を切断し、空洞にした長瓢箪(アココテスあるいはアコホテスと呼ばれる)を差し込み、口で吸い込みながら汁液を抽出するわ けである。液体の蒸発を防ぐため、汁液の抽出が終了するたびに、穴の表面は削られ塞がれていく。リュウゼツランは4〜5ヶ月に渡り、汁液を発散し続け、約 200〜500リットルの樹液を放出した時点で枯れてしまうのである。この汁液はそのまま清涼飲料水としても飲用できる。しかし、喜ばれるのはプルケとし ての飲用である。プルケを作るには、上記の液体をある植物の葉と根と一緒に発酵させるのである。液体中に含まれる糖分はアルコールに変化し、アルコール飲 料、プルケ(octli)となってしまうのである。ナワトル神話で、プルケの創造神とされる女神マサウエルと神パテカトルは、プルケの効果的な作り方を発 見したのである。つまり、マサウエルが液体を発散しているリュウゼツランを見つける役目をし、その一方でパテカトルが、根を見つけたり発酵の方法を研究す る役目を担ったのである。 
 
 
 プルケは大まかに3つのタイプが存在する。「マチョ」「エンブラ」それにこの2つのタイプを混 合したタイプである。銘柄も「blanco(白)」「nuevo(新)」「espumoso(泡立ち) 」「el teuoctli(エル テウオクティル)」「pulque de los dioses(神様のプルケ)」と様々である。色のついたプルケも見られるが、これはハーブ、カカオ、果てはチリ唐辛子で味と色を付け加えたものである。  
 
 プルケはお椀を用いて飲用され、呑みすぎると酩酊状態になるが、ビタミンや蛋白が豊富に含まれているため健康飲料として持てはやされている。 
 
 プルケが抽出されるリュウゼツランの樹は、神が与えた最高の木と考えられていた。スペイン人占 領時代以前に最高のアルコールを抽出できる木であったというだけではなく、トウモロコシと同じような考え方から、そう信じられていたのである。つまり、 リュウゼツランの木全体を利用できるからである。食料として、リュウゼツランの実はお菓子として食され、水蜜は飲み物として、またこの水蜜からは蜜と酢が 作られた。柔らかい葉は「mixiote」という料理に利用されていた。葉の中に寄生するうじ虫は焼いて塩をつけて食べていた。その他にも色々な用途が あった。紙、衣服、コート、草履、かごなどを作ったり、家屋の天井、糸、薪としても利用され、葉の先についた刺は縫針として重宝された。また、利尿、下痢 止めなどの効能を持つ医薬品としても活用されたのである。 
 
注)テキーラは、リュウゼツランの絞り汁の発酵したプルケを、蒸留したお酒。
スペイン人がヨーロッパから持ち込んだ蒸留技術で16世紀以降のお酒
 
 
 古くからメキシコ人は、食材を調理するための、様々な技術、道具、味付け方を持ち合わていた。 そのことは手の込んだ料理を作り上げる実力を有し、「精選された美食家」という評価を受けるにふさわしいものであった。
 
 
 
 一般的に、テノチトランの住宅は、台所、寝室、お祈りをする部屋の3つの部屋から構成されてい た。浴室やトイレは別棟であった。置かれてある家具は少なかった。食事の準備と食事をする台所には、テーブルと椅子、かまど、必要な料理道具が置いてある だけだった。料理道具といってもその種類は少なく、市場で購入することはできたのだが、家長が準備するのが普通であった。これらの道具は石、木材、泥土、 動物の甲羅、綿織物、野菜の繊維質などで作られていた。
 
 当然のことながら、調理道具は、使用する食材と密接な関係があった。最初に必要とされたのはトルティージャ、チリソース、プルケ、それにチョコレートを作るための道具であった。 
 
 石板と石鍋はスペイン占領時代以前の調理道具の基本であった。この2つの道具は、灰色もしくは 黒色の玄武岩系の岩石からできており、食材を砕いたり挽いたりするのに使用されていた。石板は、四角形の石で、中央部に掛けてわずかながらへこみが見ら れ、同質の石で作られた脚(前部に2本、後部に1本)の上に鎮座していた。後部の脚は、前側のそれよりも少し長く、石板全体に角度がついており、作業がし やすいように工夫が加えられていた。石板の表面部はわずかだが凹凸があり、その上に挽いたり砕いたりする食材を載せ、同様に石で作られた石板の「手 (metlapil)(metlatl=石板、pilli=息子)」をロールのように使って石板の上を前後に転がしながら、食材(一般的に穀物)を挽いて いくのである。石板の上で、トウモロコシの粒を2〜3回挽いては水を加えて再度挽き、その作業を繰り返してニスタマルというトウモロコシのペースト(生 地)作りが行われた。また、貴族向けのチョコレートを作るために、煎ったカカオを挽いたり、モレの下ごしらえとしてチリ唐辛子や他の食材を挽いたりする作 業が行なわれた。石板の下、女性の膝の側には、「tepextatl」というトレイが置かれ、その中に挽いたトウモロコシが落ちるようになっていた。
 
 スペイン占領時代以前の調理道具の中で、二番手に挙げておかねばならないのは石鍋である。石鍋 (molcaxitl、molli=ソース、caxitl=鍋)は石板よりサイズは小さいが、石臼のような機能を持ち、メソアメリカ文化圏全域に普及して いた。材質は石で、その表面には凹凸があり、その中で、ソース作りに使用されるスパイスを挽いたり、朱紅トマト、トマト、チリ唐辛子、ハーブなど柔かい食 材を小さく砕く作業を中心に行なっていた。実際のところ、基本的にはチリソースを作るための道具であった。 
 
 基本的な道具として、基本食材の下ごしらえをするために、今日でもラテンアメリカ、少なくとも メソアメリカ文化圏からアマゾン地域の各地域で使用されている素焼きの薄皿を三番手に挙げておくべきであろう。この薄皿は、湿った土をこね、イグサやシュ ロの葉を混ぜて泥土にし、薄いディスク状に仕上げたものである。こうして出来た薄皿を、同じように泥土を使って作られた料理道具と一緒に特別なかまどに入 れて焼き上げる。焚き火を中心に3個置かれた石の上にこの薄皿を置いて煮炊きに使用されるのである。薄皿を使って、穀物粒、種、チリ唐辛子など焼いたり、 炒めたりの作業が行なわれたが、主に、トルティージャを温めるために使用された。トルティージャを温めている間、植物の葉など、繊維質の材料で作ったふい ごで風を起こし、火の勢いが衰えることがないようにしていた。ふいごの材料には主に葦の葉が使用されていたが、サポテカ族は七面鳥の羽根を使用していた。  
 
 数千年の長い間、この3種類の道具が使用されていたことは、メキシコ料理の歴史を研究してきた 人たちを驚かせた。特に、石板の場合、使用されていた痕跡を探っていくと約5000年前の世界まで遡らなければならないのである。また、ニスタマルという 生地を挽く作業が我国に導入された19世紀以降を調べても、完全に姿を消してしまった調理法は見受けられないのである。 
 
 
 上記の基本的な調理道具のことをはじめとし、スペイン占領時代以前から現代までの間に、調理道 具がメキシコ料理を語る上でいかに重要な役目を果たしたかを表現した、散文作家でもあり詩人であるサルヴァドール ノボの、美しくもありまた確信をついたとも言える次の文章を皆で鑑賞することにしよう。トウモロコシ挽きを任されたナワトル族の女性は、「ニスタマルを抱 え降りてくる。ニスタマルからは真っ白な泡が流れ出し、まるで夜の暗い海に漂うごとく...、一度、二度、三度、優しくこねる....一方、薄焼皿の下で 焚き火はパチパチと燃え盛る。そして濡れた小さな両手で生地をとり、リズミカルに両手を打つ。音は次第に高くなり、手のひらの中にあったトウモロコシ生地 は、形を変え、少しずつ薄くなり、丸く大きくなっていき、そして立派なトルティージャが出来上がる、正に今生まれたばかりの子供のように、火の神様キシウ テクトルに見守られ、三つの聖なる石に支えられた素焼きの薄皿上にじっとその身を預けている.....云々。」
 
 我々の主食であるトルティージャについて語る前に、もうひとつ、どうしても記述しておかねばならない容器がある。テナテまたはトンピアテと呼ばれるイグサで編んだ小さな籠で、綿の布で包んだ温めたばかりのトルティージャを冷めないように入れて置くために使用される。
 
 多種類のトウモロコシのタマレスをゆがくのに、「comitalli」と呼ばれる泥土で作った深鍋が使用される。この鍋は蒸し器としても使用され、鍋の底に少量の水を入れ、その上にトウモロコシやバナナの葉で包まれたタマレスを置いて蒸していくのである。 
 
 調理にはその他にも様々な種類の道具が必要である。深鍋をはじめとし、煮込鍋、形やサイズの異 なる素焼きの器などである。その多くが、粘土質の土で出来た素焼きのもので、前述した薄皿と同じ工程を経て作られるものである。しかし中には、動物の甲羅 などで作られた器も見られ、その一例として、アルマジロの甲羅で作られた器がある。最初に甲羅を焼いて内部の脂質を取り除き、その後きれいに磨いて出来上 がりとなる。木製あるいは亀の甲羅で出来た、かき混ぜ棒、へら、スプーンなども使用されていた。海亀の甲羅がさかんに利用されており、スプーンは、熱い チョコレートをかき混ぜるのに重宝されていた。チョコレートをかき混ぜ、泡立てるには他にも特別なかき混ぜ器、円柱状の木製かき混ぜ棒が使用されていた。 かき混ぜ棒の場合、両手の間に挟んで、前後に回転させてかき混ぜるという方式だった。  
 
 飲料水を保存しておくために、素焼きの大きな瓶が使用され、それを地中に埋めておくことにより、水などの液体をいつまでも冷たく保存できるという効能が得られた。同じような瓶でプルケを保存するものもあった。 
 
 
 瓢箪で作られた濾器、素焼きのトレイ、その他 籠、チキウイテス、リュウゼツランの繊維で織った布など食料を保存するための容器などがあれば、料理道具一式が揃うことになる。
 
 スペイン人占領時代以前の食卓の様子について、バルトロメ デ ラス カサス僧は次のように記している。食卓はいつも「立派で美しいテーブル掛け」で被われており、その上には、彼らにとっては「食器」なのであろう、色々な器 が並べられていた。ヘルナン コルテスは彼らが使用していた器の種類の多さ、その品質の良さに驚き、「様々な様式で製造された陶器類。その品質は、スペインで最も優れた器と遜色がない くらいのものだ。」と述べている。塩を入れておくためのテコマテという名の素焼きの小さなコップ、カボチャで作られたブレスという名の水差し、メキシコの 工芸家の手によって彩色されたと思われる素焼きのコップ、ソーサー、皿などたくさんの器が見られた。これらの器の中には、瓢箪で作った「xicalli」 という器があり、これはプルケやチョコレートを飲用する時に使用するのが一般的である。この容器は、ユカタン地方で「xicalli」(容器の名前はこの 樹木の名前に由来している)と呼ばれる樹木の果実の皮層で作られたものである。実を2つに割り容器として使用され、中には彩色が施されたものや、蓋まで付 いているものもある。この件に関し、ディエゴデランダ僧は、「丸いカボチャのような実をつける樹木があって、原住民たちはこの実を利用してコップを作って いる。 大変立派で、彩色した器も見られる。この地域では、別の小さく硬い果実を使って別のコップも作っているが....云々。」と記述している。
 
 アステカの人々、貴族たちの食卓は、常に食欲をそそり、バラエティーに富んだ食材で満ち溢れ、 立派な食器に囲まれ、ジャカーの皮の敷物に置かれたカボチャ製のピッチャから注がれたチョコレートを、亀の甲羅でできたスプーンでかき回しながら...そ ういった穏やかな生活を送っていたのである。
 
 
 
 一般的に、調理とは食材に熱を加え他の性質に変化させることである。 事実、食材を他の性質に変えることを発見したのは人間であり、他の動物と違い、人間だけに許されたことである。火を利用することを学んだ人間は、着実に新 しい調理法を編み出していったのである。食材を焼くことは最も原始的な方法で、その第一歩として、生のものをそうでないものに変えてしまうのである。その 後、調理法のひとつとして、容器・器を利用して、食材の性質を変えてしまうという方法を発見したのである。
 
 料理の基本として、煮る、焼く、揚げるの3つの技術があるが、既に古代メキシコ人はこの技術を習得していたのである。
 
 煮るとは、液体(一般的に水)を一緒に使って煮詰める調理法のことを言う。食材を水またはお湯 に入れて沸騰させる調理法や、食材を蒸す調理法もこのタイプに分類される。鳥、魚、蛙、メキシコサンショウウオ、蟻、食材となるその他の動物、並びに野 菜、青物類、豆類を調理するための、チリ唐辛子をベースとしたソース、出し汁の大半は、素焼きの煮込み鍋を使って、この調理法で準備される。例えば、豆類 の煮込み料理を意味する「tlemolli」あるいはクレモレは、どんな料理をも引立ててくれるトマトとチリ唐辛子のブイヨンスープである。ニスタマル は、トルティージャやタマレスを作るのに欠かすことのできない生地だが、これもまた、水の中に穀粒を入れ、石灰石からとれた石灰を加えながらその水を沸騰 させて作る。そのため、スペイン人占領時代以前の調理に生石灰は必欠かすことのできない必需品のひとつであった。フリホーレス、ウチワサボテンをはじめ、 多くの野菜類の下ごしらえも水を沸騰させて行われ、食材を柔らかくするためにテケスキテが添加された。テケスキテは硝石、炭酸塩ソーダのことで、乾期にな ると、主にテスココ湖などメキシコ渓谷にある湖の沿岸に多く見られたのである。 
 
 熱湯で蒸すという調理法は、メソアメリカ文化圏内で広く用いられた方法で、特に食材を何かで包 んだもの、例えばトウモロコシの葉やバナナの葉で包んだりした食材、あるいはミクシオテにこの方法が使われた。熱湯蒸しは、大きな土鍋を使って行なうのが 一般的で、鍋の底に水を張り、その上に組み合わせた細長い棒を渡し、乾燥した葉っぱや藁を敷く。事前に包んでおいた食材を、細長い棒と葉っぱ、藁でできた 「ベット」の上に並べて置き、その上からトウモロコシやバナナの葉、もしくは乾燥した葉っぱ類で蓋をして点火し、鍋の底部に張った水が沸騰して食材が蒸し 上がるのを待つばかりとなる。   
 
 
 熱湯で蒸す料理法が使用される代表的な食材は、柔らかい、もしくは乾燥したトウモロコシの葉で 包んで作られるタマレスで、熱帯の地域ではトウモロコシの代りに新鮮なバナナの葉が使用される。新鮮な魚も、蒸し焼きの方法で調理される食材のひとつであ るが、この場合、食材の下に置かれる葉っぱ類の間にアクヨという芳香性植物の草本を混在させるのが習慣化していた。エルナン コルテスは、この料理に適した植物を見つけて「聖なる植物」と称したが、今でもその名前は生きている。アクヨの葉で包んでタマレスを作ることもあるが、他 のタマレスと同じ方法で調理される。
 
 この方法で調理された食材からは、充分な量の塩分とビタミンを摂取することができるとされてい た。これと同じ方法で調理されていたのが「ミクシオテ」である。「mixiotl(ミクシオテ)」はナワトル語でリュウゼツランの葉の表皮を意味する単語 で、食材の梱包材もミクシオテと呼んでおり、上記と同じ方法で調理されていた。葉やミクシオテの中心に、予めチリ唐辛子などで味付けをした鶏やウサギの肉 を置き、小さな袋を作る要領で食材を包み、上部をしっかり縛って出来上がりである。タマレス同様、蒸し上がった時点で中身だけを食するのである。
 
 2番目の調理法として、アステカ人のみならず、マヤ人が使用していたのは、食材を焚き火の上に 置いた薄手の素焼き皿にのせ、あるいは残り火に直接当てて、もしくは地中に埋めて焼くという技術だ。既に述べてきたように、主食のトウモロコシで作ったト ルティージャは常に薄手の素焼皿の上で焼くという調理法がとられていた。また、チリ唐辛子、朱紅トマトをはじめ、種類や調味料となる他の多くの食材をこん がり、あるいは焦げ目を入れて焼く時にもこの方法がとられたのである。この方法で調理した場合、当然のことながら食材の味もそれなりに変化してくる。例え ば、蒸し焼きされたチリ唐辛子の味と焼いたチリ唐辛子のそれは異なっている。熱した灰の中に食材を埋めて焼く調理法も古代メキシコ人の間ではよく行われた 方法で、メキシコが世界に誇れる調理、「地中窯」という方式で調理されるものである。この調理法は、メソアメリカ文化圏の全域で行われていた方式で、文化 的にも発展していたアステカ族、マヤ族だけでなくチチメカ族も同様の方式を採用していた。チチメカ族に関し、フランシスコ エルナンデスは次のように記している。「チチメカという名の民族は、メキシコの町からさほど遠くもない北部地域に住む、どう猛、野蛮、かつ不従順な原住民 で、体の一部を皮で覆っただけの姿で野山を放浪し...狩りや偶然見つけた野生植物の実を採取して生計を立てていた。彼らは肉を調理する時、地下に穴を掘 り、焼けた石を中に置き、その上に原住民の穀物と呼ばれるトウモロコシで包んだ肉を載せ、焼けた石と土をかぶせた。完全に煮えるまで時がすぎるのを待っ た...云々。」直火ではなく間接的に火に当てる調理法は、脂なしで、その上肉汁もそのまま確保されるという利点があり、マヤ族が発明しナワトル族に伝え られたものと思われる。マヤ語で「pib」と呼ばれる料理はバルバコアという名で親しまれている。エルナンデスの記述によれば、深い穴を掘り、その中に石 を置き、そして焚き火を入れ、石が赤くなるまで完全に燃やし、その時点で、薫製を作るわけではないので焚き火だけを取り出し、真っ赤になった石の上にリュ ウゼツランや、バナナの葉で覆う。その上に食材をおき、その上に再度、リュウゼツランやバナナの葉っぱを敷き詰めて、土を載せておく。この方法での調理 は、中身が充分柔らかくなるまでに数時間を要する。
 
 トウモロコシは上述の何れの方法で調理しても構わない。水で炊いたり、トウモロコシをそのまま 食したり、実だけ取り出して、他の調味料と一緒に炊いたり、直火で焼いたり、取り出した実だけを直火炊きしたり、実が飛び出して「ポップコーン」になるま で煎ってみたりと調理法は様々である。このことからも、古代メキシコ人にとっても、現代のメキシコ人にとっても主食であるトウモロコシの万能性が再認識で きるのである。
 
 
 調理技術として最後に述べるのが「揚げる」という技術である。スペイン人がやってくる以前の時 代、食材を揚げることは極めて希なことであった。ピーナッツ、チア、カカオなどの植物の果実やカボチャの種から植物油、ツノイノシシ、七面鳥、アルマジ ロ、マナティから動物脂が抽出されていたことはよく知られている。年代記編纂者は、カカオの油が煮込み料理に使用されたり、治療や化粧水として、特に唇の ひび割れ防止に使われていたことについては記しているが、それ以外にこれらの油が日常生活でどんなふうに利用されていたかについて確かな証言は得られてい ない。マヤ族はカカオの脂をトウモロコシと一緒に水で溶いて、濃くてドロドロとしたチョコレートを作って飲用していた。
 
 動物脂は食材を揚げるために使用するというよりも、むしろ脂を含む食材に味をつけるという観点から行われていたようで、焚き火の上であろうが、薄焼き皿の上であろうが、バルバコーワや「pib」のように独自の脂と肉汁で調理していたようである。
 
 食材を揚げるという調理法は、スペイン人侵入直後から一般的な調理法になった。
 
 
 
 おそらく人間が知り得た初めての食料保存法は、食材を調理することで得られる保存の方法であっ た。食肉の場合でわかるように、調理することにより、寄生していたバクテリアを抹殺でき、それによって肉が傷むのを抑えることができるのである。事実、料 理を芸術的見地から見ていった場合、いかに腐敗の進行を抑えるかというのもひとつの技術として捉えられる。調理した食肉は生のままの肉よりも日持ちの点で 優れているのである。
 
 食料が欠乏する時期のために食料を備蓄しておく必要があったが、逆にそのことが食材腐敗の原因 となる細菌・微生物の増殖を抑え、長期の食料保存にも耐えうる効果的な方法を開拓する要因となった。食材の保存加工の方法としては、塩漬け、乾燥、薫製、 保存処理、酢漬け、砂糖漬け、冷蔵など様々である。しかし、何れの場合でも、塩、砂糖、氷など保存作用を促すための触媒材が必要である。
 
 
 古代のメキシコ人たちは、乾燥、塩漬け、薫製、砂糖漬けの方法を利用していた。乾燥法は、自然 食材が保有する水分を蒸発させ、細菌の増殖に適し、発酵や腐敗の原因である湿度を抑えようとするものである。乾燥法は特に魚類の保存に用いられた。沿岸部 から遠く離れた中央台地地域(というより皇帝モンテスマ)は飛脚が運ぶ新鮮な魚介類を口にすることができたのだが、一般の人々にとってそのような贅沢なこ とはできなかった。そこで、予め三枚に開いた魚を天日に干して乾燥させ保存する方法を編み出したのである。
 
 マヤ族は狩りで捕獲した動物の肉を次の方法で処理し、保存していた。動物、特に鹿の場合、屠殺 した時点で、肉をオレガノなど芳香性植物と塩、ベニノキの種を混ぜて作っておいた液体の中に浸しておいた。ベニノキの種は同名の樹の果実から得られたもの で、赤味を帯びた物質を出し、食材に味を付け、赤くする作用があった。広げた肉を石で叩き、その後天日干しされ、「dzik」という名の鹿の挽肉として仕 上げられたのである。しかしこの方法で処理された食材は、上述の保存するという目的は果たせるものの、塩漬け保存された食材ほど長い期間にわたって保存す ることは難しかった。
 
 塩は調味料の中心的な存在であり、(石灰やテケスキテ以外に)鉱物から抽出される希少なもの だったが、食材の味付けに使用されるだけではなく、保存のための触媒材としての役割も持っていた。太古の時代から、人間の食生活において必要なものであ り、例えようもないくらい重要な役目を果たしてきた。
 
 エルナン コルテスはメキシコ峡谷に点在する湖で塩を産出する場所を見つけ、「塩が出る場所はいくつでもあり、湖水からも塩がとれ、湖水が濡らす土を何らかの方法で 煮詰めると塩のパンが得られ、住民は村落の内外で売買している。」と記している。この「塩のパン」とは塩をぎっしり固めたものだと思われる。ベルナルディ ノ デ サグーン師は、湖水からの塩の作り方について、「塩を作るには最初に土を集め、そして固め、その土に十分水を注ぐと、水は濾過され、それを大きな瓶で受け るのである。それを天日に干して、あるいは焚き火に載せて水分を抜くと塩のパンができる」と記録している。
 
 塩は、チアパス州、ユカタン州、メキシコ湾沿岸をはじめ、中央台地地域でも産出されていた。メ ソアメリカ文化圏全域で必要な量を賄うには充分なものではなかったが、調味料として、また保存処理の触媒として珍重された。保存のために、肉類、魚類をは じめ多くの食材の塩漬処理がなされていた。塩は防腐剤として細菌の成長に不適な環境を作る機能を有しているのである。塩は食品の中から水の中に染み出し、 上述したような細菌の増殖に適した環境に生み出していくのである。塩漬け加工は最も歴史があり、単純な処理法の一つで、メソアメリカ文化圏で広く利用され ていた。
 
 氷を保存用に使用していたという実証は得られていないが、灰の中で熟成させる方法や、薫製によ る保存法は実際に行なわれていたようである。灰中での熟成法について、マヤ族は冷めた灰と一緒に、ある特定の果実を地中に埋めて、腐敗せずじっくり熟成 し、糖分が自然に凝縮するように、数日間そのままにして待っていたと記録されている。薫製による保存法は、魚や猿の肉の保存用として用いられた。充分に肥 育された猿の毛をむしり、骨を取り去った肉を焚き火で薫製とした。肉が乾燥し、薫製となるまでには相当長い時間が必要とされた。猿の薫製は保存肉として、 またチリソースで味付けして食されていた。
 
 スペイン人占領時代以前の人々が保存のために使用していたもうひとつの方法に、砂糖漬をベース とした保存法がある。砂糖は塩と同じように防腐剤としての作用を持っている。古代メキシコ人は、砂糖きびからできる砂糖が不足する時期は、様々な種類の蜂 蜜を料理に混ぜたり、長期間にわたる保存が可能な砂糖煮や果実酒をとり、その不足を補っていた。 
 
 リュウゼツランから抽出される砂糖水を水分が蒸発するまで沸騰させると黒色の水飴ができるが、 それがリュウゼツラン蜜である。トウモロコシの蜜は、茎の部分から採取されるが、それについてコルテスは「砂糖のように甘美で甘い」と評している。その他 に飼育していた蜂や蟻からも蜜を採取していた。 
 
 この時代、蜂蜜がよく使用されていた。毒針を持たない野生蜂は地下や、樹の穴、石の空洞部など に巣を作っていたが、飼蜂の場合は村落周辺の穴の空いた樹幹を選んで巣を作っていた。マヤ族はこれらの樹木の樹皮に蜂蜜を塗り、「balche」という発 酵酒を製造していた。マヤ族が暮らす地域には彼らの言語で「kab」という種類の蜜蜂が多く生息しており、彼らにとっては重要な資源であった。数は少ない が、スペイン占領時代以前のマヤ族の生活について綴ったコディセスには、蜜蜂のことが頻繁に記されており、蜂の神様「bakabs(バカブス)」に関する 記述も見られる。ランダ司教はヨーロッパの蜂と比較し、その特徴について次のように記している。「2種類の蜂が生息している。どちらもヨーロッパのそれと 比較するとサイズは小さい。巣を作って生息する蜂のサイズは大変小さい。ヨーロッパの蜂と違い巣を作らず成長する蜂がいるが、この蜂の場合、蜜蝋のような 蜜で満杯になった小さな袋を持っている。蜜を採取するには、前者の場合、巣を切り裂いて採取するが、後者の場合は、採取に適した時期を見計らって、小さな 袋を楊枝のようなもので突き刺すと蜜が流れ出て、蜜蝋を取り出すことができる...この蜂は刺すことがない...云々。」
 
 蜜の採取源に関する上記の記述の中で、後者の「蜂」は蜜蟻のことで、腹部に袋を持ち、その袋を大きく膨張させて蜜を蓄えているのである。 
 
 リュウゼツランや蜂の蜜を利用し、サポジラ、チコサポテ、チリモヤ、カプリンチェリー、および その他の果実をベースとした砂糖煮が作られていた。砂糖に水を加えて煮詰めることによりシロップとなるのだが、蜜自体が天然のシロップであるため砂糖を使 わず、果実に垂らし火を加えるだけで砂糖漬けができる蜜は理想的であった。  
 
 
 
 
 
 調味料は、食生活のポエムでありミュージックであると表現した人がいた。事実、完璧な味を追求 するために様々なことが試みられてきたが、その中で、一番に取り上げられるのは調味料である。食習慣の歴史を語る上で、人間が最初に行なった大改革といえ ば煮炊きを始めたことで、その次に来るのが、料理に塩で味付けするようになったこと。そして、最後に、料理を美味しくするために調味料を使いはじめたこと である。
 
 古代メキシコ人は、完璧な調理法を追求する過程の中で、香草やスパイスなど植物の世界から得ら れる調味料を広く愛用するようになっていった。香草として葉や花を、そして、スパイスとして果実や種を利用していた。両方とも植物性で、食材の味付けに使 用されたが、スパイスの方が香草よりも香り・辛さの点で優れていた。
 
 使用されていた芳香性植物のうち、いくつかのものについては、聖なる葉といわれるアクヨをはじ め、前述した通りであるが、その他にもアボガドの葉、オレフエラ、パパロキエテ、アリタソウなどが使用されていた。アリタソウはソースや煮込み料理の味付 けに使われ、特にキノコ料理、フリホーレス、カボチャの花には少々苦味を染み込ませるのに役立っていた。スペイン人たちはアリタソウのことをヌエバエス パーニャの薄荷と呼んで愛用していた。サグーンは香りの異なる15種類の香草のことについて記録し、それぞれにナワトル語での名称を記している。 
 
 スパイスについては多くの種類のあるチリ唐辛子が代表的であるが、その他にもベニノキ、胡椒、瓢箪やカボチャの種が挙げられる。チリ唐辛子以外のものはソースやモレ料理の味付けに使用されていた。 
 
 メソアメリカ文化圏をその起源とし、世界中でチリ唐辛子の次に良く知られ、おそらく、アメリカ 大陸でも2番目に重要なスパイスとされているものにバニラがある。これはメキシコを原産地とするつる性の植物で、果実の形が小さい鞘に似ていることからス ペイン語の小さい鞘を意味するバニラという名前がつけられている。ナワトル語では、枯れた時に果実が黒くなるところから「tlilxochitl (tlil=黒)(xochitl=花)」と称されている。主な用途としては、お好みのアルコール飲料やチョコレートに芳香料として添加していた。
 
 
 スペイン人占領時代以前の食生活に重要な役割を持っていた食材について何らかの伝説があるよう に、バニラにも同様の伝説が存在する。その中のひとつ、トトナカ地方の伝説はトトナカ国王、テニツトリの美しい娘たちのうちのひとりで、トトナカの女神へ の信仰にその生涯をささげた女性のことが語られている。実は、この娘に一目惚れをした若い皇子がいた。 ある日、彼は彼女を誘惑し、二人で一緒に山に逃げ込んだ。そこに怪物が現われ二人に戻るように諭した。この行動は裁かれるべきもので、恋する二人を待ち受 けていたのは斬首の刑であった。彼らの遺体は、女神の祭壇に棄てられた。しばらくして、同じ場所に潅木が芽を出し、あっという間に枝葉で一杯となった。そ の潅木の脇に蔓性の植物が芽生え、そのつるは女性の腕のように潅木に巻き付いていった。この植物には黄色く香りの強い花が咲き誇り、その後は長く細い鞘に なってしまった。これを見て、潅木はあの若き皇子の生まれ変りで、美しく香りの強い蔓性植物は皇女の生まれ変りであったと噂された。この2つの植物の結び 付きは一途の愛を象徴するものであった。
 
 食材の味付けにのみ気を配っていただけではなかった。料理は、香りがよく、美味しく、そして見 た目の良さも求められていたため、古代のメキシコ人は料理に色を施していた。チリ唐辛子は、料理の色付けに最高の食材であった。赤、黄色、オレンジ、茶 色、黒と様々であった。ベニノキやオレフエラは赤く、サフランは黄色に料理を染めてくれた。花弁には、ハマイカの花のようにバイオレットや赤など、より個 性的な色を求めることができた。
 
 
 
 
 全てのメキシコスパイスの中で、チリ唐辛子は料理に不可欠な要素として重要な役割を担ってい る。チリ唐辛子は、トウモロコシ、フリホーレス、カボチャと並び、スペイン人占領時代以前の四大基礎食料となっていた。しかし、これらの食材の栽培はそれ より以前から行なわれていた。考古学者や古代植物学者は、既に4000〜5000前にはチリ唐辛子が栽培されていたことを証明する痕跡が残っていると語っ ている。また、遺跡からはチリ唐辛子の種と思われるものが発掘されている。
 
 チリ唐辛子は、コロンブスとその配下のものたちがヌエバエスパーニャで船を下りて初めて目にしたもののひとつである。チリ唐辛子は当時「アヒ」と呼ばれており、これはスペイン人たちがチリ唐辛子を初めて目撃し、試食したハイチ島で付けられた名前である。
 
 
 原産地がメソアメリカ文化圏であることも手伝って、チリ唐辛子は、既にスペイン人占領時代以前 には、今日ラテンアメリカと呼ばれているメキシコからブラジルまでのほぼ全域で、その存在が知られていた。胡椒やバニラと共に、チリ唐辛子が新大陸原産の 食材のうちで世界的な調味料の開発に最も貢献した食材のひとつであることは紛れもない事実である。
 
 チリ唐辛子は古代メキシコ人の食事で日常的に使用され、バルトロメ デ ラス カサス師の記録には、メキシコ人にとって、チリ唐辛子なしの食生活は考えられなかったと記されている。フランシスコ エルナンデスは次のように語っている。「食欲増進、調理の味付けを目的とし、毎日チリ唐辛子を利用しており、不幸にもチリ唐辛子の置いていない食卓を見つ けるのは困難であった。」チリ唐辛子は同名の植物の果実で、ナワトル語では「chilli」と呼ばれていた。
 
 チリ唐辛子の品種は100種類にも達すると考えられているが、その内の約40種類はメキシコ原 産のものである。これはスペイン人による占領時代以前の原住民たちが継続して栽培していたことと、異なる品種を掛け合わせ新品種の種を採取していたことに よるとされている。サーグンは市場で売られていたチリ唐辛子について記しており、そこからは当時使用されていた唐辛子についての詳細を知ることができる。 彼の記録によれば、「あまり辛くない赤唐辛子、ピーマン、すごく辛い青唐辛子、黄色唐辛子、クイトランチリ、テンピルチリ....コンチリ、アウマド、メ ヌディートス、デアルボル、 細唐辛子、青唐辛子、先の尖った唐辛子など様々の種類の唐辛子が売られていた。....云々。」科学者フランシスコ エルネンデスはメキシコ原産のチリ唐辛子について分類作業を行ない、名前はナワトル語で表記されているが、その中には、現在でも食卓で親しまれている、チ レピキン、ハラペーニョ、チポトレ、モリタ、デアルボルなどの品種も含まれている。
 
 チリ唐辛子は他の野菜類と同様に、湖を造成して作ったソチミルコ、イクスタラパなどの地域をは じめ村落の畑で栽培が行なわれていた。チリ唐辛子はトウモロコシ、フリホーレスなどの基本食糧や他の産品と共に、メソアメリカ文化圏の住民が帝国に主要な 上納品のひとつであった。貢ぎ物について記録している年代記コディセスでも、チリ唐辛子は貢ぎ物として献上される産品の中でも、重要な位置を占める産品で あったとされている。
 
 チリ唐辛子の辛さは、噛むことを意味するギリシャ語「kapto」に由来する、学名「Capsicum」でカプサイチンと呼ばれる成分の含有量に左右される。カプサイチンという成分はチリ唐辛子の果実部に含まれている。
 
 しかし、チリ唐辛子は品種によって、ひりひりする辛さだけではなく、味にも違いがあり、メキシ コ料理では、辛さと味、この2つの要素を上手く組み合わせて調理することが女性の仕事とされていた。極端に辛い唐辛子は料理の味を隠してしまうため、料理 の味に相応しい辛さが活かされるようなレシピを考えることが大切であった。
 
 料理の他にもチリ唐辛子は様々な用途を持っていた。咳止め、消化器系や聴覚系の病気の治療薬としてだけではなく、分娩補助剤としても使用されていた。一般的に言われているのとは逆に、薄皮を剥いで食するのであれば消化にも良いとされている。 
 
 チリ唐辛子の葉を使って食材の味付けをすることもあったが、主な用途は果実の部分を生でそのま ま、もしくはソースやモレとして煮込み、食することであった。「Molli」はソースを意味し、これがモレの由来とされる。チリソースにも様々な種類があ るが、主成分として石板で挽いたチリ唐辛子、生あるいは煎ったチリ唐辛子のいずれかが使用されている。これに、朱紅トマト、トマト、挽いたカボチャの種、 トウモロコシ生地、ピーナッツ、アリタソウ、プルケ、チョコレートなどの材料を加えてチリソースは作られるのだが、何れのチリソースでも朱紅トマトだけは 欠かさず使用されていた。サーグンは、使用されているチリ唐辛子の品種にかかわらず、(黄色唐辛子、青唐辛子、アウマドや他の品種など)「チリポター ジュ」あるいは「chilmolli(chilliとmolli=チリソース)」と総称していた。チリソースは鹿肉や七面鳥の薫製に味付けしたり、その中 に色々な種類の肉や野菜、豆類を浸すなどして使用されていた。スペイン人占領時代以前の味付け用チリソースのレシピをひとつ紹介すると、まず、石板で挽い た赤唐辛子にベニノキ、塩あるいはテケスキテ、リュウゼツランからできた酢、チアの油を加え下ごしらえをする。これを煮鍋でじっくり煮込み、この中に肉を 浸して味付けをするという手順となる。 
 
 今日、我々が好んで料理にするものに「モレネグロ」があるが、今では、スペイン人占領時代以前 には使用されていなかった材料もふんだんに使われている。一方、モンテスマ国王には特別なモレ料理が振る舞われていたらしく、その様子が次のように記され ている。「モンテスマの公邸につくと、チョコレート、色々な種類のチリ唐辛子、スパイスを煮込んだモレ料理の香りが漂ってきた。モンテスマは、モレで煮込 んだ七面鳥の肉を少し取り、折り曲げたトルティージャの上に載せて、それをほおばった。その味が気に入ると、距離を置いて立っていた4人の大臣のひとりに 食べるように薦めた。大臣は光栄に浴し、感謝の意を込めてその申し出を受けるのである。」 
 
 
 
 スペイン人占領時代以前のメソアメリカ文化圏の社会では、社会的・経済的な階層の違いがはっき りしており、それは重要な要素であった。この社会は2つの社会階級に識別することができた。プリンシパレスと呼ばれる貴族階級とマセワレスと呼ばれる庶民 階級である。ナワトル語では前者を「pipiltin(複数)」あるいは「pilli(単数)」、後者を「macehualtin」あるいは 「macehualli」と言い、そこからマセウアレスとスペイン語化されたようである。
 
 貴族階級、ピピルティンがこの社会で占める割合は極めて低く、その中には王様をはじめ、その流れをくむものが含まれるが、庶民階級は彼らを崇め、横柄な態度もとらず、ましてや彼らの顔を拝むことさえ許されていなかった。 
 
 マセウアレス、庶民階級のほとんどが労働者、特に自己の土地を持たない農民によって占められており、貴族階級、ピピルティンに貢ぎ物を献上する義務が課されていた。
 
 個人の社会階級は先祖から受け継がれ、個人は、この世に生をうけた時点で貴族、もしくは庶民階級に属し、別の階級に代わるという可能性はないに等しいものだった。
 
 経済的・政治的な観点からに見ても、社会階級の違いは、この社会での生活全般に影響を及ぼして いた。住宅・衣服・生活様式など全ての面で、階級間の違いは明白であった。食生活の面でも、貴族階級と庶民階級の違いが見られた。貴族階級が食する食事の 種類・量・質がバラエティーに富んでいたのに比べ、庶民のそれは然るべき形で変化をつけるだけであった。
 
 先史時代から階級によって食事の内容に差があったことは実証されている。モレロス州、チャルカ ティンゴでの調査で、考古学者と人類学者は、遺跡から形成期に存在した社会階層の違いを証明するサンプルを発見したのだ。個人の社会階層によって、遺体と 一緒に埋葬される添物が異なっていたのである。社会的に高い階層にいたと思われる死者の場合、宝石など貴重品が添えられていたのに対し、低い階層の死者の 場合、何も添えずに埋葬されていたようである。遺体の骨質について、ひとつひとつ調査していったところ、階層の高い人の遺骨に含まれるストロンチウムの量 が、低い階層に属していた人の遺骨と比較し少ないということを調査官が発見したのであった。本書の第1章で、人骨に含まれるストロンチウムの量から、食事 に占める肉類、野菜類の相対的割合を確定できるということを書いた。人骨内の含有ストロンチウムが多いほど、肉類の消費が少なく、含有ストロンチウム量が 少ない場合はその逆である。このことから解るように、社会的に高い階層にあった人の遺骨からは、庶民のそれよりも、少量のストロンチウムが検出されたので ある。ということは庶民階層と比較し、社会的に高い階層の人の方が肉類の消費が多かったことを意味している。これから、肉類は価値の高い食材のひとつで、 調査の対象となった地域の全階層の人が平等に手に入れることができる食材でなかったことが推測される。
 
 
 簡単に言えば、富める者と貧しい者の間に存在した消費する食材の違いは、他の要素にも影響を与 えている。その中で、最も重要なのは、食材の中に手に入れること、口にすることが困難なものがあったということである。優れた食材の入手が困難であること は度々であったようで、裏を返せば、入手が困難であるから優れた食材と考えられるという結論に辿り着く。愛好者が多いとその価格は上昇し、裕福な者だけが 入手できるものに変っていってしまう。古代メキシコ社会でも同じことが起きていたのである。貢ぎ物という名目で多くの食材がテノチトランに献上され、中に は遠隔地からの珍しい食材や収穫量の少ない食材などが含まれており、これら全てが貴族階級の食卓を賑わしていたのである。
 
 過去の、また現代の裕福な者のそれと同じように、当時の貴族階級が消費する食材はバラエティー に富んでいた。富めるものと貧しい者の差を決定付けるもうひとつの要素は、食材の量よりも、食材の種類の多さだ。貧しい者が使用する食材の種類は限られて くるが、高い階層の人は数多くの代替食材を持ち合わせていたのである。
 
 
 忘れてならないのは、メソアメリカ文化圏の貴族階級並びに庶民階級それぞれの食習慣に特徴が見 られるということである。食習慣は、「食事のパターン」といわれるものを形成するが、このパターンにしてもそれぞれの社会階層によって異なっている。社会 階層それぞれに消費する食材には特徴的な傾向が見られる。サーグンによれば、貴族階級は他の階級と比較すると、味が濃くて辛い食事を好む傾向にあった。同 様に、食材の中には、庶民の食材として分類され、貴族階級には卑下されるようになったものもある。蛙の場合がその例である。蛙は貴族階級に好まれた食材で あったが、おたまじゃくしは貧民が食するものと考えられていたため、貧民層が口にするだけであった。
 
 食材の多様性・量・質は、どちらの社会層に属していたかの指標である。食卓に多くの食材を使っ て調理された料理や、簡単に入手できない食材を使用した料理、新鮮な食材でじっくり味付けされた料理を提供できるものは社会的に高い階層にあることを示す シンボルである。富裕で、教養もあり、権力があることを誇示するのである。
 
 庶民の食事は、あまり変化に富むものではなかった。トウモロコシ、フリホーレス、チリ唐辛子、 カボチャの四大食材を主流に、果実、胡桃、葉っぱ、木の根、昆虫など採取したものや、捕獲した鳥類の肉、野菜、香草を組み合わせた食事が一般的であった。 まわりの自然環境から得られる食材を上手く利用していたのである。そのため、これらの食材が不足する時期は、質よりも量的に欠乏する状況が発生していた。
 
 スペイン人占領以前の時代には、農業危機に起因し、食糧が欠乏した時期が何度も発生した。旱 魃、霜害、雨期到来の遅れをはじめ、多くの気象変化により危機的な状況が発生していた。農業を基盤とした社会であったため、気象状況の変化は、直接食糧不 足という結果を招いていたのである。この影響をもろに受けたのが貧民層で、彼らにとって、然るべき方法で食材を節約する以外に別の方法は残されていなかっ た。
 
 平常時、民衆の食事は、簡素で飾り気のないものであったが、貧相な食事をしていたわけではな かった。夜が明けると、彼らは朝食抜きで日常の仕事を始めた。最初に食事を口にするのは、仕事を開始して3〜4時間経過してからで、アトーレと呼ばれるト ウモロコシで作ったおもゆであった。昼食は、彼らにとって一番大切な食事で、朱紅トマトとチリ唐辛子で味付けし、でき上がったばかりのトルティージャとフ リホーレス、野菜類がメインとなり、湖岸で捕獲した動物や魚類も添えられていた。夜には、3度目の食事をしていたが、その内容は昼食に類似していたが、比 較すると量的に少なかった。夜食の一例として、タマレスとアトーレを組み合わせて食べていた。マヤ族の間では、夜食よりも昼食に重きを置くのが一般的で あった。昼食と夜食に必ず食されていたのが、質素でも栄養価の高く、メキシコ中央台地に点在する湖に生息する多様な食材を利用して簡単にできる魚介類スー プだった。
 
 メソアメリカ文化圏の住民が毎日どんな食生活を送っていたのか、より具体的に知るために、次の 文章を引用する。「トウモロコシは色々な方法で使用されていたが、メインはトルティージャにして食べる方法だった。そのために、原住民は石を使ってトウモ ロコシを挽き、素焼きの大きな皿を使って焼き上げていた...補助食糧として、そら豆に似たフリホーレス、チリ唐辛子があり、柔かくて小さなウチワサボテ ンの葉を塩でゆがき...ソコノチトル「xoconoxtle」と呼ばれ、年間を通していつでも収獲できるテューナ...これらの食材を、アマランサス 「アリタソウ」の煮込み料理の要領で煮込んだ料理など...味付けにはソコヨリンという香草が利用され...スベリヒユを使った料理もあった...またカ ボチャやその花を使った料理、キノコ料理などもあった...穂が付いたままトウモロコシを牛乳に漬け、その後で火の上で焼くか、炒めるか...トウモロコ シの穀粒を挽いて、原住民たちがアトーレと呼んで愛飲した様々な種類の飲料も作られていた...云々」 
 
 一方、マヤ族も、鹿、野生や飼育された鳥の肉、魚を使って多様な煮込み料理を作っていた。
 
 トラテロルコでは、住民の誰もが市場に設営された屋台で調理された料理を調達することができ た。屋台の売り子たちは、朱紅トマトやチリ唐辛子で味付けした多くの種類の料理を販売していた。サーグンによれば、これらの煮込み料理やなべ料理は全て女 性の手により調理されたものだったとコメントしており、次のように記している。「トマトやチリ唐辛子で味付けした料理には、チリ唐辛子、カカオの実、小型 トマト、青ピーマン、トマトをはじめ、旨味を引き立てるための調味料が使用されていた。焼いた肉や、地下で蒸し焼きにした肉、各種のチルモリを専門で売る 屋台や煮込み料理専門の屋台もあった。」 通りでは、現代と同様、焼いたトウモロコシや、チリ唐辛子をつけて食べる蒸したトウモロコシを買うこともできた。
 
 
 また、飲み物、特に冷たい、あるいは温かいアトーレを販売している屋台も見られた。サーグン自 身、通りで販売されているアトーレについて記しており、温めて売られているアトーレは、「トウモロコシを挽いたり、煎ったりして作った生地や小さく千切っ たトルティージャ、あるいはトウモロコシの箒(穂のついたままのトウモロコシを指す)を焼いて、挽いた後にフリホーレスを加え、チリ唐辛子を入れた酸っぱ い(発酵した)トウモロコシ水(チレアトーレ)か、蜂蜜を加えた石灰水に入れたものである。」 冷たいアトーレは、間違いなく清涼飲料水のようなもので、アマランサスの種を挽き、それにチリ唐辛子や蜂蜜を加えたものだった。つまり、好みに応じた味の アトーレ、辛くしたり、甘くしたり、好みに応じて味付けされたアトーレを通りで買うことができた。マヤ族の場合、午前中は温かいアトーレを好んだが、他の 時は冷たいアトーレを飲用した。
 
 メキシコ貴族階級には卓越した食材、精選された煮物料理の確保が保証されていた。これに貢献し た要因のひとつとして、テノチトランに、貴族たちの食卓を満たすことを目的とし、貢ぎ物として届けられていた各地の優れた食材の存在が挙げられる。貴族た ちは、多種多様のものを食していた。肉、魚、果物、野菜、穀物など彼らが欲するものについては充分精選された上、多量の食材が届けられた。
 
 
 他の多くの社会同様、食事はアステカ人にとっても、重要な役割を果たしており、ただ単に食する という行動それ以上の意味を持っていた。例えば、誰かを丁重に扱ったり、敬意を表したい場合、その相手が、神であれ、位の高いものであれ、また他の人物で あっても、食事でもてなすことが一般的であった。コルテスとその配下の者たちが自分の領地内の海岸に到着したことを聞かされた時、国王モンテスマは様々な 贈り物の他、彼らのために特別に何種類もの料理を準備するよう命令した。領地の征服者となる彼らが受取った料理のメニューは、中身がそれぞれ異なるタマレ ス、できたばかりのトルティージャ、鳥を茹でた料理、ウサギの煮込み料理、多種多様の果物、それに挽いたチリ唐辛子であった。スペイン人はこれらの料理を 喜んで食べたが、それ以降、彼らは新大陸の巨大なる富を全てその手中に納めたと感じるようになったのである。
 
 裕福で力のある古代メキシコ人だけの食べ物で、他の階級の人々は口にできないものがあった。 「amilotl」という白身の魚は大変美味く、珍重された。黒蟻の卵やさなぎはピピアンという料理で使用された。メキシコサンショウウオと蛙。この2つ の食材は焼いて調理されるのが一般的で、トウモロコシの女神、シンテオトルに感謝する祭りに献上される料理のメインとなるものであった。淡水エビも精選さ れた食材のひとつで、1年の18ヶ月目に行われる「Izcalli」という祝宴には必ずブイヨンベースの中で煮込み、タマレスと一緒に食卓に並べられた。
 
 アステカ人は、サイズや形の違うトルティージャを使った様々な料理を楽しんでいた。チャルパ ス、ソペス、メメラス、ピカダス、トラコヨス、トラユダスなど今日でもメキシコ人が食する料理の数々である。また、色々な種類のタマレスも調理されてい た。詰め物のないセンシージョス、フリホーレスや鶏肉を詰めたタマレス等など。また七面鳥の煮込み料理、魚、蛙、メキシコサンショウウオ、蟻、海産物など は、いつも色や辛さが異なる多くの種類のチリ唐辛子を使って味付けがなされていた。鳥料理もバラエティーに富み、焼く以外にも多くの調理法があった。
 
 メソアメリカ文化圏の貴族階級や男性たちだけが口にすることができたものにチョコレートがあ る。カカオの実を石板で挽き、同じように挽いて作ったニスタマルとを水の中で攪拌して作る飲み物で、その味は絶賛されていた。沢山の泡が出るようにするに は、充分に攪拌し、水を余計に使わず、トウモロコシの生地も過分に加えないようにしなければならない。香りをつけるために、バニラもしくは花を添え、リュ ウゼツランの蜜を入れることもある。一杯のチョコレートは金持ちや権力者の食事の終わりに欠かすことのできない飲み物であった。
 
 彼らの毎日の食事でさえこれほど贅沢なのに、特定の日に行われる祝宴の規模は例えようもないく らい立派なものだった。収獲への感謝、神への敬意を表すため、あるいは、アステカ商人の祝宴のように、他の勢力に対し富と権力を誇示する事を目的とし、ま た富と権力を与えてくれた神への感謝の意を表わすため、年間を通し、数多くの祝宴が張られた。
 
 
 この「ポチェテカ」という商人階級は、権力と富を有すると共に、貴族階級のメンバーでもあった ため、テノチトランから遠く離れた地域との通商制度を組織する役割も任されていた。巨大なる富を享受していた頃、彼らはよく祝宴を催したが、そのためには 多くの食材を保存しておかねばならなかった。トウモロコシ、フリホーレス、チア、トマト、チリ唐辛子、七面鳥、犬、うずら、カカオなどありとあらゆる食材 が含まれていた。祝宴には貴族、親類縁者、友人をはじめ、近隣村落の全ての商売人、家畜商人が招待された。数多くの人々を招待し、贅沢な祝宴を催すわけだ から、それにかかる食材の保管がどれだけ大変なものであったかは想像を絶するものがある。祝宴の数日前から、音楽、踊り、歌の宴が催され、参加者は、食事 と飲み物で厚くもてなされた。招待客は、色とりどりの羽根や宝石で装飾された木綿の衣服を身にまとい祝宴に馳せ参じた。祝宴は、招待客が手を洗うところか ら始まる。手を洗った招待客には食事が給仕された。食事が終了すると、再度手を洗うよう求められ、そしてチョコレートが振る舞われ、最後に一服の煙草で祝 宴は終了する。その後、招待客には花や贈り物でいっぱいに飾られた木綿の毛布が贈呈される。全てが終了すると、商人たちの富と権力を賞賛するため、招待客 のひとりが全員の前で次のような謝辞を朗読する。「強く、勇敢な皆様方。皆様方は体を張って危険と立ち向かい、何事にも恐れを知らず立ち向かい、疲れも知 らず、絶えず仕事に精進され...云々。」そして、招待役のポチェテカが鳥の羽の飾り房がついた杖をとり、おもむろに退席する。
 
 マヤ族たちも彼らに後れを取ることはなかった。彼らも贅沢で出費のかさむ祝宴を開催していた が、彼らの場合、一度祝宴を開催すると、招待客のひとりに次の祝宴の開催を要請するという習慣があった。そのため、祝宴の開催が開催される毎に、一年以内 に開催される返礼の祝宴が増えるということになっていた。彼らの祝宴では、じっくり味付けされた鹿肉、鶏肉、魚、野菜類が準備され、チョコレートもふんだ んに口にすることができた。祝宴の最後で、招待客たちはお土産として、木綿の毛布、椅子、上品なコップを受け取っていた。
 
 
 本書を終了するに当り、どうしても書いておかなければならないことがある。それは祝宴の席での 食事内容ではなくて、メキシコの最高権力者「Huey Tlatoanti」が、祝宴以外の時にどのような食事をとっていたかということである。エルナン コルテスやベルナル ディアスデル カスティージョによれば、モンテスマ2世の食卓にどのような食事が毎日運ばれていたか、それは実際のところ驚嘆に値するものであったという。最高級の食材 で調理された料理が所狭しと並べられ、贅沢な食器類を使用し、給仕も最高であった。
 
 モンテスマは次に述べる要領で昼食と夜食をとっていた。最初に彼が食事をしていた食堂について 記しておく。彼が食事をとるテーブルは、白いテーブルクロスで被われ、椅子と同じように余り足の長いものではなく、椅子には皮のクッションが置かれてい た。寒い時期には給仕が大きな香炉を焚いて部屋全体が暖まるようにしておき、煙でむせないように香りの強い薪を焚いていた。焚き火に直接当ることがないよ うに、金糸で細工された木製の屏風が置かれてあった。モンテスマが食事を始めると、誰もがその姿を目にしないように、前記の屏風の前には、金の屏風が立て 掛けられた。金の屏風が登場する前に、手を洗うための洗面器と手拭き布を持つ4人の美しく、清楚な女性が現われる。
 
 食事に使っていた食器はいつも新品で、チョルーラ地方の素焼きの器であった。チョコレートを呑 むための金の杯や素焼きの水差しも用意されていた。食卓の四隅には、同数の助言者である古老が、モンテスマの顔を見ることもなく黙って立っていた。食事 中、モンテスマは古老のひとりひとりと会話し、嫌いな料理になると彼らに与え、古老たちは敬意を表し、立ったままでそれを食していた。
 
 国王の1回分の食事に約30種類の料理が準備され、食堂に全て並べられていた。料理が冷めない ように煮込み料理には素焼きの火鉢が付けられていた。モンテスマは並べられた料理に近づき好みの料理を指定していた。多くの美しい女性が指定された料理を モンテスマの許に、慎ましく運んで来るのであった。食事の間、テーブルの脇に別の2人の女性が控え、最高級のトウモロコシを使い出来上がったばかりのトル ティージャを作り、白く清楚な布の中に包んでいく。
 
 モンテスマは最高のグルメであったと伝えられている。毎日、肉、魚、香り葉、野菜、果物を使用 したご馳走が準備されていた。モンテスマの「食卓」を賑わした肉料理のバラエティーの豊富さについて、ベルナルは「彼らはよく鶏、ガージョス デ パパダ(七面鳥の雄鶏と雌鳥を指す)、キジ、ヤマウズラ、うずら、鴨、野生がも、鹿、山豚(イノシシ)、ヨシ鳥、鳩、野兎、ウサギの煮込み料理をはじめと し、鳥やこの大地で育つ多くの生き物を様々な方法で調理していたが、その数があまりにも多いので、全てを記すのは困難だ...云々。」と語っている。沿海 地域から早足と呼ばれる男たちが運んで来る新鮮な魚介類を毎日食していた。沿海部からテノチトランまでの距離を考えると、国王の食事の数時間前までに食材 の魚を納めるには、足に自信を持つ相当数の男たちが荷を引き継いで行ったに違いない。
 
 最高権力者「Huey Tlatoanti」が食事を終えると、多くの種類の、それも大量の果物が食卓に出されたが、その中から少しだけ口に運び、金の杯に注がれたチョコレート を飲んで全てが終る。快適に食事ができるように、彼の周りでは音楽が奏でられ、踊りが舞われる。 モンテスマは音楽にも傾倒していた。すぐに、4人の美女が再度現われ、食器類を回収し、モンテスマの許には、美しく装飾された大きな洗面器が現われ、彼は それで手を洗う。そして、テーブルから、煙草の詰まった細く、まわりを装飾された筒を取り出し、古老たちがそれに火を付けると、モンテスマは休息に入って しまうのである。
 
 それから、やっとのことで、他の重臣、官僚、宮廷の関係者の食事が始まる。警備官、歌い手、給 仕、金細工職人、羽根を細工する羽根職人、貴族連中の髪を切る理髪師などをはじめとする宮廷で権力者「tlatoani」に関する各種業務に就く者たちの 食事時間となる。彼らは毎日、大広間、回廊、宮殿の庭に集合した。これらの人々の食事に使用される皿の多さについて、ベルナル ディアス デル カスティージョは、大袈裟ではなく、食事用の皿は1000枚以上あり、チョコレートのピッチャーは大小2000個以上、それに無数の果物があったと記して いる。
 
 これが毎日のようにモンテスマ国王とその官僚たちにもてなされていた食事の様子である。
 
 本書を通して解ることは、古代メキシコ人が豊かでバラエティーに富む食生活を営み、調味料や味 付けにも繊細で、美味しく、魅力的な食事を創造していたということである。素晴らしい調理、その結果として見事な食事を創り上げ、そのためには、豊かな創 造力も求められる。まわりの自然環境が与えてくれる豊富な資源を利用し、ただ単に栄養源としてではなく、人生を楽しむための何かに変化させてくれるのであ る。胃は創造の源である。しかし、この胃とて万物を創造できるわけではない。特定の社会に存在する文化を無視するわけにはいかない。創造は文化に左右さ れ、文化は自然環境に影響を受け育まれるのである。 
 
 この言葉通り、メソアメリカ文化圏はひとつの産物、トウモロコシに象徴される。トウモロコシの文化とはメキシコの文化を指している。同様に、米、小麦の文化とは、それぞれアジア文化、ヨーロッパ文化を意味するものである。
 
 フリホーレスやチリ唐辛子と共にトウモロコシは、様々な干渉、外国からの影響にも関わらず、太 古の昔からメキシコ人の基本食材であり続けたのである。しかし、トウモロコシだけではなかった。本書で見てきたメキシコ料理で使用する基本的な調理道具や 様式が、今日のメキシコの家庭にも根付いているのである。チリソースを創るための石板、毎日食べるトルティージャ、特定の日やお祝いの席で振る舞われるタ マレスやモレ料理をはじめとする様々の料理は、食べたくなってちょっと町に出れば、いたるところで目にすることができるのである。
 
 
 新しいミレニアム時代の科学に目を向けてみよう。スペースシャトルの中ではアマランサスの種が 発芽した。また、ヨーロッパの研究室では新しい溶接技術の開発が進められている。技術先進各国ではメキシコの薬用植物の研究が実施されている。ロシアの科 学者グループがコンピュータを利用してマヤ文字を解読する。アメリカ合衆国の宇宙研究機関が「原子時計」と呼ばれる道具の助けを借りてメソアメリカ文化圏 の暦を分析する。
 
 これこそ、人間が常に最新の知識と技術技術を駆使し、進化し続け、到達した現代の世界で繰り広 げられている現実の姿である。しかし、我々の祖先である原住民によって開発され、偉大な知識の潮流の陰に隠れ、4世紀の永きにわたり葬られてきた過去の技 術にも興味深いものがあることを忘れてはならない。
 
 事実、メソアメリカ文化圏では、数世紀を経た現代にも通用し、再認識が必要とされる数々の複雑な技術、道具、知識が創造されていた。