日露戦争のきっかけに伐採権が
朝鮮半島の森林荒廃の理由
嫁入りにナツメの実
ヤナギ細工の悲しい話
朝鮮半島(ここでは韓国)の松枯れ
貴族の帽子はシラカバ
シーソー遊び、いえ神事です。
重たい松茸
木を植えた大統領 朴大統領
浅川巧という人
お茶も発酵
出会いは柳の葉
KIMUCHIもともとは山椒の辛み
近代化の陰で泣いた火田民
マツの食べ方
土地を奪ったのはチャッパリのせいだぁ
ソメイヨシノは韓国原産
英雄憎けりゃ木まで憎い
古民具はマツの木
洗濯棒で反撃?
ニセアカシアは薪のため    
 
お茶も発酵
ソルパラムチャとかモドゥダチャ。さすがキムチの国だけあって、お茶も発酵させるんです。山野草(イチゴにタンポポ、ヨモギ等)61種類を発酵させたのが、モドゥダチャ。

湧き水にマツの葉をつけたものがソルパラムチャ。発酵過程でアルコールが生まれるとか。

変わったお茶は干し柿茶。スジョングァといって干し柿を冷やした生姜水に入れて寝かせます。

基本的には薬湯というかハーブティーの世界。緑茶は仏教とともに中国から来たそうですが、李朝の仏教排斥で姿を消しました。仏教憎ければお茶まで憎しかどうかはわかりませんけど、民族の行動パターンから拒絶したはずです。緑茶は贅沢品だったので、大半の農民には無縁。気候的な要素もあったんでしょうが、飲まれるというか作られることも無し。薬用植物を蜂蜜で苦みを取って煮出して飲んでいたとか。だから、お茶といいつつ果実や穀物を使っていたんです。

だから、韓国料理屋では緑茶がないんです。






出会いは柳の葉
李校理(りかうき:名を長坤)という李朝の文官で有名な人。第10代の燕山君(えんざいくん)の時代の話です。燕山君というのは、文官を多数殺したことで、有名。バカ殿だったんです。(T T)
李校理は、この色気違いのバカ殿に、美人の妻を差し出す羽目になるんです。(その後宮廷から戻った妻は、自らの命を絶つんです)。このままでは殺されるということで、バカ殿がいなくなるまで、身を隠します。その身を隠した場所が、誰も見向きもしない柳器匠の家だったんです。甲子士禍の難という1504年の出来事。

なぜ、柳器匠の家で身を隠すことができたのか。その出会いが、柳の葉だったんです。愚極という名に変え、地方をさまよっている時、のどが渇いて乾いてしょうがなかったんです。話によると、糞混じりの麦飯を食べて飢えをしのいだとか。そういった事が続いたので、相当やつれていたそうです。で井戸を探していると、柳の木の下で水汲みをしている少女に会うんです。その時、水を恵んでくれと懇願するんです(身分的に落ちぶれていたから丁寧に話しかけたんだそうです)。すると瓢に水を汲んで渡そうとしたんですが、何を思ったのか、柳の葉を数枚、瓢に落としたんだそうです。娘の理由は、あわてて水を飲むと当たる事があるので、葉を浮かべていると吹きながら飲むのでゆっくり飲めると。李校理は、なんと品のある気遣いのある娘と思ったんだそうです。(やはり滅ぼされた王朝の末裔と思ってしまうんですけどね)
で、この出会いから娘(鳳丹)の家に居候。そして結婚。でも読書しかせず、働かなかったとかで、娘の両親からは疎まれ、食事の量が減らされたりしたそうです。それでも、何とか生き延びることが出来たんです。3年半ほどですが、妻の支えがあったから生き延びれたんです。
なんだかんだのうちに、燕山君が追い出され中宗王に取って代わられると、役人も一新されるんです。で、李校理の逃げていた全羅道に新しく赴任した役人(監司)は昔からの知り合いだったんで、ノルマが課された柳細工を納めにいった時に正体を明かすんです。その後、李校理は中宗王に取り立てられ、身分の違いを超えて正室として迎えることになったんだそうです。

※両班というのは、文官(文班)と武人(武班)の2つの班をあわせて両班というのです。でも、武術や戦うことは、朝鮮族(貴族や官僚である文班からみて)にとって見れば、愚かな行為だったので、武班は軽蔑で見られていたんです。だから両班=文班=文官ということです。
医者や陶工など職人をバカにし、腰を曲げることを極端に嫌ったとか。一般的には、腰を曲げるのは、作業する人だったからとか。顔を洗うのに腰を曲げずにしたそうです。

KIMUCHIもともとは山椒の辛み
朝鮮漬けとも呼ばれるキムチ。発酵文化の象徴なんですけど、歴史は400年ぐらいの食べ物。朝鮮族の歴史5000年を振り返れば最近の食べ物になるんです。
コロンブスの新大陸から広まった唐辛子。日本を経て朝鮮半島に伝わるんですけど、それまでは今のようなキムチは存在しなかったんです。当たり前ですが。17世紀後半になってからとか。しかし、いっぺんに普及するわけにはそれなりの理由があります。実は、それなりの食べ物があったんです。沈菜(チンサイ)と呼ばれる塩に野菜を沈めたモノ。漢字の通りです。トンチミ(水キムチ)と呼ばれる大根を塩水につけたモノ等がもともとの食べ物で、辛みのもとは山椒だったんです。これがベースにあったので、唐辛子が伝わった時、スムーズに広がったとか。
一説には、山椒だけでなくコショウも使っていたとか。それまでは、日本を通じてコショウが入っていたが、秀吉の明国制圧のための足がかりであった朝鮮出兵以降、貿易の窓口が無くなったから。そのころ日本は肉食が主流でなかったので、コショウを必要とせず、肉食だった朝鮮では保存用にコショウが必要で、コショウが来ないのはつらかったのでは。だから、コショウとか山椒を使っていたので辛いのに慣れていたからともいわれています。だから辛いモノが自分のところで作れる(唐辛子が栽培できるという意味)というので、いっぺんに広まったという説もあります。


KIMUCHIの功罪。
その1
朝鮮民族にとって無くてはならない食べ物。キムチの登場は、最高の食の誕生だったんです。だからそれ以上は美味しいモノは出来ない。これさえあれば、もう何もいらないということで、キムチの登場以来、美味しい食べ物を作る気にはならないとか。
(石焼きビビンバとかありますけどね)

その2
日本では漬け物とご飯がセット。だから漬け物はあまり個性を強調しないんです。ご飯のおいしさが失われるから。そこが本場のキムチと違うんです。朝鮮族にはおかず扱いとなるんです。だから漬け物のような日本のキムチはキムチではない。で国を挙げて日本のキムチバッシングを始めるんです。完璧でない漬かりの浅い、発酵が若いモノはキムチではないと。でも、これって在日の人達が日本の気候や風土に合わせて改良したモノなのに。まぁ敵国日本で生活をする連中は朝鮮族ではないのかも。(棄民扱いの割にはいろいろ注文が多いのは?)
で、最近中国から大量のキムチが韓国に輸出されているんです。でも、これもキムチではないという論調が。でも作っているのは漢民族だけではなく、東北部にすんでいる少数民族である朝鮮族。同胞が作っているんですけどね。

その3
レストランでキムチは注文するモノではないようなんです。理由はテーブルに着くと何も言わずに小鉢が出てくるんです。日本のつきだしは有料。でも朝鮮料理屋では普通はサービス。
(是非海外で広まってほしいサービスです。)だから、海外で注文する時にキムチも頼むと怪訝そうな顔をされるんです。ドイツ料理屋でザークラフト(キャベツの酢漬け)を頼むのと同じ事。







近代化の陰で泣いた火田民
火田民の存在は、山の荒廃の持続。もともと貧しかった農民は、生活の糧を山に求めていました。もっと貧しい人達は、焼畑だけで生計を立てていました。
何処まで山が荒れていたかというと、日露戦争の朝鮮半島の写真を見れば、ある程度分かると思います。
すったもんだの末、日本が併合した朝鮮半島。何をするかといえば、日本による統治。ということで検地をしたんです。土地所有を明確にするための土地調査。この結果、申請しなかった人達(日本の事例から推測すると税金を払いたくなかったから?)がいたんです。
そういった申請されなかった土地は、国に編入。国有地にしたんです。で、日本の企業に払い下げたりするんですが、手続き上は問題ないこと。でも、そこで追い出された人達がいたんです。奪われたと。未だに叫んでいますけど。法律に基づいて焼畑を禁止させたんです。火田民の火入れは放火。だから逮捕、そして強制移住。で、警察と衝突する羽目に。おらの土地を返せ。でも法的には国のモノ。申請しなかったモノが負け。

1929年には甲山火田民事件という警察が火田民の村を焼き払う事件まで発展。

でも、これは一次資料がないし、証言もないので、何ともいえないのですが、この直前に大洪水が発生。洪水の原因は、大雨だったにしても、保水力の低下=森林の劣化=土地無し農民の伝統的ではない焼畑だったのでは無いだろうかと推測します。わざわざ、森林を劣化するのを見過ごすわけにはいかない。わがままな住民を排除したのではないだろうかと思うのです。

土地を明確にするという近代化への一歩が生み出した痛みの産物なんです。

マツの食べ方
江戸時代に救荒作物について書かれた本が参考にした朝鮮半島の食糧本。その中にはもちろんマツの食べ方も書いてあります。
「忠州救荒切要」という書物の中では、松葉を食べれば、生き延びることが出来る。その食べ方、料理方法は、まず松葉を摘み取って搗く。すると汁を含んだグチャグチャの固まりに。これを乾燥させるんです。日向にそのままか、布に包んで干すんです。そして乾いたら、また搗いて、今度は米粉とまぜてのり状に固めるんです。

この固まりを4等分して、一つは胃腸を整えるのに飲むんです。2つは食料として口の中へ。最後の一つは米で作った糊を混ぜた飲み物を飲む。
こうすると、餓えの際でも生き残れると。

これ以外に便秘の時は根に近い、松の木の下部に生えている太い松葉を3枚ほど良く噛むと快通すると。

また、松の実は高級食材。仙人の食べ物ともいうマツの実。強請、長寿の食品として重宝。
金剛饅頭には白あんとマツの実が中に入っているとか。
またお粥にもマツの実
また、松の花粉と蜂蜜を練った松花餅。これは貴族の食べ物だったそうです。

土地を奪ったのはチャッパリのせいだぁ
何かにつけ、日本(蔑称:チョッパリ)のせいにする元日本人達。そうしないと精神的に安定できない?
属国時代が朝鮮の人民の土地を奪ったのは日本のせいという主張があります。ある日本にいる朝鮮民族(多分、経済難民)の本によると、次のように書かれています。本人の名誉のために書籍名と著者を伏せておきますが。

その本によると、1908年1月に道家充之山林技師が朝鮮の森林法を作ったんです。オリジナルは、1897年に作られた日本の森林法。これを参考に作ったんだそうです。ただ、日本の森林法以上に強権だったそうで、第19条には、土地所有者は施行後3年以内に地籍と面積などを大臣に提出すること。そうしないと国有林にするとのお達しが。あと5条には必要とあれば、水源涵養や航行目標等の森林は保安林として指定するなど凄い法律(日本の森林法以上にという意味で)だったんです。

1910年に併合した際、こんな森林法は悪法だという意見もあって破棄する動きもあったそうですが、いろいろ議論の末そのまま執行したんだそうです。で、国土の1/7の面積が私有林として届けられただけ。残りの入会地を含む森林は国有林→総督府所有林になったんです。法律をそのまま継承した結果なんですけどね。国有林になる=住民から土地を奪う基盤は、日本人が来る前からの話だったんです。

以上の話は副題「日米の朝鮮経済侵略史」によればですけど、立て読み、斜め読み、逆さ読みしても奪ったのは日本じゃないでしょう。ちゃんと歴史を認識しろよなとつい思ってしまう。まぁ、朝鮮人のいう歴史なんてこんなもんなんでしょうね。嘘で塗り重ねられているから。この本も何処まで信じて良いやら。しかも出典資料は日本の調査物。日本のことを悪く書きつつ、日本の資料に頼るというのはどういう神経なんですかね。ある意味可哀相すぎますが。

ソメイヨシノは韓国原産
3月下旬から4月上旬に行われる鎮海(韓国の慶尚南道に位置する港)の桜祭り。その数16万本ともいわれるサクラ。
サクラと言えば、日本の象徴なのに、なぜ韓国にあるかと言えば、それは原産地だからなのです。

鎮海(ちんかい)は、日露戦争でバルチック艦隊を受けて立つために集合していた重要な地。日本海軍の軍港でもあったのです。もともとは乃而浦(ネイボ)という寂れた漁村だったそうです。その日本と言えば、木をあちこちに植えることで有名。街作りをしながら、緑化(海軍のマークは桜に錨)のつもりでサクラ(この他にもポプラにニセアカシア、ウメにヤマモモ)を植え始めたのがきっかけでした。日本時代にはサクラの名所として、有名だったんです。1910年頃の話です。

が、1945年にアメリカに負けた日本の置き土産を朝鮮人がそのまま残しているわけがありません。日帝のものを壊してしまえと。もちろん日本海軍の作った軍港は壊しませんけど。
でサクラをバッタバッタを斬り殺したんです。多分、生活苦による燃材&樹皮を食べるための伐採>憎悪の伐採だったと思います。思いっきり貧しい国でしたから。それまでお花見を楽しんでいたにもかかわらず。

しかし、植物好きな学者は、その光景に涙しました。切り倒されるのは忍びないと。しかし口実がないとキチガイに刃物で手の施しようがありません。仕方なく彼は嘘をついたのでした。「これは、済州島原産だと」
1962年のことでした。(多分)

済州島原産(済州漢拏山)と叫んだのはパクマンギュという植物学者だとか。どんな心境だったかは分かりませんが。(ちなみに中国では日本軍が植えたサクラを切ろうとした時に、植物好きな学者が反日を忘れないために残せ、サクラを伐るなといってて伐採に抵抗しました。今では花見の名所です。)

なんだ、原産地だったのかと言うことになれば、再植林。お花見は翌年から再開。ある資料では16万本、他の資料では22万本に、32万本。

このサクラは、王桜(ワンボッコとかワンポッナム)といいます。日本名はソメイヨシノ。

済州島起源というのは、1923年に論文としてに発表したのは京大教授小泉源一だったそうです。国立遺伝学研究所の創設に関わり、細胞遺伝部長だった竹中要は、本当かどうかを探しに行くのですが、そんな木は無し。雑種のみが1本あったそうです。1962年に、ソメイヨシノは、エドヒガンとオオシマザクラの雑種であるという説を発表しました。染井村の植木屋さんではなく伊豆半島で自然交配してのが起源なんだそうです。その後、DNA鑑定で雑種ということが証明されました。上野公園から挿し木で広がっていったのが、最近の研究で明らかになっています。

ちなみに1966年から再植林したサクラは、昔住んでいた日本人や在日の方々が、せっせと苗を送ったんだそうです。もちろん、日本からです。このような事実は無かったことになっており、ソメイヨシノは韓国の済州島が起源といっています。種はどうなっているのか、天然更新しているのか不思議ではありますが。

春先の観光案内に載っています。
是非釜山方面へ観光する際には寄ってみてください。


英雄憎けりゃ木まで憎い
近代国家に導くために奔走した朴大統領。この功績の一つに植林があったんです。でも、共産主義に染まったバカ大統領の部下、兪弘濬(ユ・ホンジュン)文化財庁長の信じられない行動は、「朴政権時代の親日の残骸」といって、全北大学博物館の庭園にあった木を伐ってしまったんです。伐られたのは、樹齢30年あまりのヒマラヤスギ。何もない冬に常緑の針葉樹を植えただけなのに、何が気に入らないのか伐るこの神経。

英雄が憎いので伐るのか、2005年の日韓友好年だから記念に親日の行動を消そうとするのか分からないけど、こんな民族と日本が仲良くなることは、政治レベルでは無理でしょうね。

古民具はマツの木
朝鮮の古民具の木材は、マツの木。材料はマツの木なんです。その理由は、マツしかなかったから。
国土保全に関心がなかった李氏朝鮮時代では、山が荒れるに任せるばかり。だから荒れた地でも育つマツぐらいしかなかったんです。

洗濯棒で反撃?
中国人が恐れる高麗棒子(朝鮮人の別称であって蔑称ではない?)は、唐隋が朝鮮半島に攻め込んだ時に、民衆が立ち上がって洗濯棒で追い返したことから来ているとか。

この洗濯棒は、カバノキ科のオノオレカンバ(斧折樺:Betula schmidtii)という、斧が折れるほど堅い木で出来ていているんです。日本でも0.95という比重で、一番堅い木。