オランダ王国
Kingdom of the Netherlands
     
  敵に木を売るオランダ商人
ココアの誕生
お茶の初上陸
オランダを支えた柳
カブトはチーズ桶
神の地の履き物
日本が奪ったお茶文化
緑の宝庫な国ヤパーン
       
 
敵に木を売るオランダ商人
オランダとスペインとの戦争の最中の16世紀のこと。オランダ人(商人)の考えることは分からない。

せっかく集めた木材。
目的は、敵国スペインの無敵艦隊を破るための、艦隊に集めてきたのに、スペインが高く買うと言ったらあっさり販売。

木材だけでなく、武器、弾薬を売った者もいたそうで、スペインとオランダの独立戦争は、結構悲惨な殺戮が行われていた傍らで、敵に塩を送って贅沢をしていた商人がいたんです。スペインと貿易していたアムステルダムの商人であるベイラントが有名。

何を考えているやら。

「ペイラントの自由(ベイラントともいう)」とは、貿易は万人にとって、自由でなければならず、戦争によって妨げられてはならないと主張し、裁判で無罪を得た商人がいっぱいいたとか。この背景には、宗教に縛られずに自由に生きようとした商人と、スペインのおかげで生計を立てている商人の2グループがいたからということでしょうか。挙げ句の果てには、このベイラント、「悪魔と商売して利益が出るのなら、船を地獄へ乗り入れ、マストが焼かれようと商売する」と。

当時のヨーロッパでは、海軍のためにせっせと造林をして資源の保護に走っていたのに、森のないオランダ人は・・・

ホント何を考えているのやら

1665年のイギリスとの戦争でも、イギリスに木材を売ったんです。オランダ商人は・・・・・・
結局は負けて、栄光にすがる羽目になったんです。強力な軍事力はなくなり、イギリスに世界の座を譲ることになって落ち目へと。


まるで、どっかのマスコミみたいですね。隣の国のことを気にしながら、ヨイショして、自国の元気がなくなることばかり書いたりと。これは、報道の自由と言うことなんでしょうかね。報道する自由、報道しない自由は、マスコミの権利でしょうか。マスコミの義務とはあるんでしょうかね。票が欲しいがために意味もなく経済難民に参政権を与えようとする政党(与党は公明党、野党は民主党に社民党等)もそうです。オランダの教訓というか歴史を勉強しろよな。本当に悲しすぎる。まぁ、支持してくれる人がいない、いなくなる現状を何とかしたいのは、ご飯を食べるためだとわかりますが。でも、参政権を渡せば、選挙に勝てると思っているのでしょうか。
特に、オランダはイスラム系の移民を受け入れて治安の悪化、生活保護費の負担増大。真面目なオランダ人は税金が払うだけ。移民導入を嗾けた連中は、こんな国は嫌といってとっとの他国に移住。事実を映そうとしたとしたゴッホの末裔の監督は、殺されるし。我が儘な人が多いんでしょうかね。今、日本で移民を受け入れろという人は、移民が来て治安が悪化すればどっか別の国に逃げますよ。








ライデンの城塞(ブルヒト)
ここで1573年にカトリックのスペイン軍を撃退(信じにくいのですが、ここに1年間籠城したんです)したんです。餓えと戦いながら。その傍らで木材を売るアムステルダム商人。
    ココアの誕生
アステカからスペインに渡ったショコラ。しかし、口当たりは脂っこくイマイチということで、改良する必要が。オランダ人に美味しい物というのは、ちょっと意外ですけど。

そんな中、オランダ人のクンラート・ヴァン・ホーテンが誕生します。彼の行ったことは、チョコレートから脂肪分を分離して脂っこさを排除したんです。で、このときに出来たチョコレートパウダーをココアと呼ぶようになりました。

カカオ(Theobroma cacao)のペーストから油を圧縮する方法をダッチングというそうで、今日のチョコレート、カカオの原型になったんです。1828年に特許を得たんだそうです。

ということで、チョコレートを作っているメーカーでは、余ったチョコレートパウダーをココアにして販売しています。チョコレートのお菓子メーカーでココアを出していないところは??



お茶の初上陸
お茶を飲む習慣は、大航海時代に至るまで、ヨーロッパで知られていなかったとか。たとえば、東方見聞録にも記録がないそうです。ということは、マルコポーロ(1254〜1324年)は、お茶を飲まなかった?ということでしょうか。1517年に中国と貿易を始めたポルトガルは特にお茶に興味を示さなかったそうです。

最初にお茶を公式に運んだのが、オランダだったんです。マカオで買い付けしたんです。1610年のこと
運んだのは、市場を独占し、価格をコントロールしていた東インド会社。
ちなみに、輸入量の伸びは
  中国茶 日本茶
1637年 ちょこっと ちょこっと
1650年 22壺 5箱
1685年 20,000壺 -
1734年 885,000壺 -
1壺=1ポンド
1734年頃までは緑茶を輸入していたそうです。1750年からは紅茶が主役に






オランダを支えた柳
神がこの世を作ったけれど、オランダを作ったのはオランダ人。そのオランダは、堤防を築き、海水を捨て、干拓していったから。その作業は、石を積み上げていく方法だったんです。しかし単に石を積み上げても、安定しません。安定するためのクッションとして柳の枝を束ねて石の下に敷いたのです。

何故、そんなにしてまで干拓をしたのか。それはオランダ人だから。というのが模範解答かどうかは分かりませんが、飢饉がオランダ人に農地を増やす必要性を迫り、その解決方法として他国にせめて土地を奪うのではなく、海に進出し、土地を増やさせたのです。

ということで、あちこちに柳が植えられているんです。




カブトはチーズ桶
自由に生きるというのは、宗教からの解放。船で死にそうになっても、カトリックは司祭がいないと天国には行けない。プロテスタントなら、別に司祭がいなくても天国に行ける。誰でも司祭でもあるという考えからだそうです。
交易する船に存在意義のない司祭を乗せるのは、タダ単に一人分の食料を多く積み、生活空間を与え積み荷を減らすだけの存在。商売の邪魔だったんです。
だから、ネーデルランドの人達は、合理的精神の元、自由を選び、カトリックを押しつけるスペインと戦うんです。

その時、銀製の甲冑に身を包んだスペイン兵と戦った市民は、身近なモノを身にまとって戦ったんです。

それが、木桶
お隣のベルギーと違って質素な食生活のオランダ。その食生活を支えていたのが、チーズなのです。そのチーズ作りに必要だった木桶をかぶって戦ったんです。





 


材料になるポプラはいっぱいあります。
  神の地の履き物
国土の1/4が海抜0m以下。干拓で国土を広げてきたオランダは、この世を神が作ったとしても、オランダはオランダ人が作ったと自負するんです。そんな国土には、多くの湿地帯があちこちに。
木靴の歴史は、世界中にあるんですが、基本的には生長の早い木を使います。白木といって、日本では桐が有名。オランダは、ポプラ&柳といった白木(早生樹)なんです。水に強いというか、表面がぬれても中が暖かい。そして加工しやすいんです。オランダでは木靴(クロンプKlomp)といいます。
湿気に強いということで、主として、農夫や漁民が日常的に利用していたそうです。そして、絵付けは冬の農婦の内職だったそうです。
 
完成は、型が出来てから3ヶ月後
理由は乾燥させるためです。

生木を使って加工するんです。その方が簡単だからです。その後乾燥させて軽くなるんです。



日本が奪ったお茶文化
ミルクティーの起源はオランダと呼ばれるくらいお茶が大好きだったオランダ人。でも、今日ではコーヒーが主流。
その理由は、日本のせい。だから未だに日本を憎んでいる人がいるほど?

その理由とは、日本が奪ってしまった、失ってしまった植民地との関係。ジャワティーを飲んでいたオランダ人からお茶を奪ったからなんです。350年近く続いた植民地支配が昭和17年(1942年)3月の8日間の戦闘で終わってしまい、その後の独立戦争で負けてしまったから。お茶なんか飲んでられるかという心境だったんでしょう。

オランダといえばココアというイメージを持っています。

   

オランダの有名な庭園
Paleis Het Loo
ヘット・ロー宮殿
http://www.paleishetloo.nl/
アンペルドールン
300年以上オランダ王室に愛された庭園
オランダ式バロック庭園

Amersfoortseweg 1, 7313 AA Apeldoorn
TEL:+31(0)55-5772400
アペルドールン駅からVADバス102番または104番で所要14〜17分。
De Wiersse
デ・ウィルセ荘園
http://www.dewiersse.nl/
現在の庭の設計は、第二次世界大戦時にドイツ軍の捕虜となった領主が収容所時代に考えた物らしい。「絵を描くように庭を造る」がモチーフ

Wiersserallee 9, 7251 LH VORDEN
TELl:+31(0)573-451409
Kasteel Middachten
ミダフテン城
http://www.middachten.nl/
アーネム近郊のデ・ステーフ村
イギリスから持ち込んだ植物のための温室が有名。バラ園として有名

Landgoed Middachten, 6994 JC De Steeg
TEL: +31(0)264952186
Huis Bingerden
ビンガーデン館
http://www.bingerden.com/
ヘルダーラント州
庭園の噴水の低木がカエルの顔として刈り込まれているので有名?
丘の庭は18世紀のドイツの庭建築家ヨハン=フィリップ・ポッチ作のイギリス風景式庭園

Bingerdenseweg 21,6986 CE Angerlo.
TEL: +31(0)313482824
FAX: +31(0)313475573
info@bingerden.com 要予約
Kasteel de Haar
デ・ハール城 
http://www.kasteeldehaar.nl
ユトレヒト州の樹齢40年から60年の7000本というあらゆる種類の樹木を移植。現在では樹齢150年以上となった成熟した木々のなす森となっている。
Kasteellaan 1 3455 RR Haarzuilens
TEL: +31(0)306773804
ユトレヒト駅からタクシーで15分、もしくはバス127番で所要30分
Arcen Castle
アルセン城 
http://www.kasteeltuinen.nl/
10kmの遊歩道を持つヨーロッパでも最大級の庭園

Lingsforterweg 26, 5944 BE Arcen
TEL:+31-(0)77-4731882
Huize Warmelo
ワルメロ邸 
http://www.kasteelwarmelo.nl/
シャクナゲのある17世紀の庭園

Stedeke 11, 7478 RV Diepenheim
TEL:+31(0)547351280
Hof van Walenburg
ワーレンブルグ庭園
問い合わせはオランダ庭園協会
http://www.tuinenstichting.nl/
Nederlandse Tuinenstichting
Herengracht 476, 1017 CB, Amsterdam
TEL:+31(0)20-6235058
FAX:+31(0)20-6385851

Longbroekerdk A29, 3947 BC Langbroek
TEL:+31(0)345-5671439
  緑の宝庫な国ヤパーン
日本が世界一の緑の宝庫とイメージが生まれたのは、オランダ人のプラントハンター達の築き上げた結果だそうです。
アンドレアス・クライアー(1634〜97年)という長崎出島の商館長は、せっせとオランダ本国にツツジなどの植物の標本や植物画を持ち帰ったからだとか。彼の友人の一人、アムステルダムの市長で博物学者であったニコラース・ヴィッテェン(Nicolaas Witsen)は、アジア(=中国と日本)についての知識は彼からのおかげといっていたとか。この頃は、日本の町人文化(元禄文化)の影響で、一般向けの様々な絵画が出回っていたんでしょう。

当時の静物画には、ホオヅキやアジサイ、アゲハチョウ等が描かれています。

それらの収集物が、権力を誇示する手法としてもてはやされた庭造りに使われていたそうです。きっと、気候的に日本の植物が適応したんでしょう。熱帯の植物は、温室が必要ですからね。

江戸時代の交易の中で、植木職人の生み出す様々な品種が魅了したんでしょう。大航海前と後では、オランダの庭園は、全然違うそうです。貧しい質素な庭園から成金の派手な庭園へ