ドイツ連邦共和国
Federal Republic of Germany
     
  トンでもない話
針葉樹の植林は甘いモノのため
傷にトネリコ(Fraxinus excelsior)
ビールにハンノキ
居酒屋の義務と特権
カシワの木
ドイツ林業の歴史
戦争に負けただけではなく
不況対策の森
さくらんぼ戦争 
  Wriezenのサクラ Koyenuma-Masters
海岸林inドイツ
町中に果樹を
世界最初の鉄道防備林
入会権に首を突っ込むマルクス
無くした十字架とバラ
折り紙の発祥地?
   
 
トンでもない話
中世のドイツの話です。
王様と諸侯との結びつきは、トンこと、ブタだったのです。豚が諸侯と王様の橋渡し役だったのです。
「お主に、これだけのブタを与えてくれよう」
「ははぁ、ありがとうございます。」
ブタがこれだけとは、ブタを飼うことの出来る森をくれると言うことで領土をこれだけ与えてやるという意味だったそうです。

ブタの数で、その諸侯の力が分かったとか。

法律の中では、ネールヴェルトと呼ばれ、家畜を飼う森の意味があり、森の価値は、ブタの頭数で計算されていたそうです。


   
    針葉樹の植林は甘いモノのため
中世のドイツでは、せっせと針葉樹を植えていました。その理由は、養蜂、ハチミツを取るためだったのです。ニュルンベルク付近が一大産地で、新大陸発見後のサトウキビによる砂糖の大量輸入までヨーロッパの甘味を支えていました。

養蜂官は、ツアイドラー(Zeidler)と呼ばれ、裁判権や、ドイツ国内での自由な買い物が、無税で購入できるなどの特権を与えられたのです。

また、蝋蜜からは、ロウソクの原料や、封蝋に用いられたいうことで14世紀頃から、針葉樹の植林が大々的に始まったとか


傷にトネリコ(Fraxinus excelsior
南ドイツの話
復活祭前の金曜日(聖金曜日)に切った枝は、傷に効くと信じられていて、樹皮や歯を煎じて飲むと慢性リュウマチや足首の痛風に効くとか。

秦皮(しんぴ)は、樹皮を採取して天日干しした物の生薬名。これを煎じて使えば、下痢止め、解熱に効能有り。さらに、利尿作用から痛風や結石にも効くとのこと。ついでに、洗眼液にも使えて結膜炎にもと、いろいろ使えるんです。有効成分は、クマリン配糖体

また、6月24日に切った木で傷口にすり込んだら直るとか


   
    ビールにハンノキ
ビールが大好きなゲルマン人の話。
ローマ人の記録によれば、宴会の時はビール。そして、宴が終わるのは、ビールの飲み過ぎから始まるケンカで、人が怪我して騒げなくなったらとか
・・・宴に死人は付き物だったとか・・・

大麦やカラスムギで造られたビール。そこに一つアクセントをということで、ハンノキ(Alnus spp.)の小枝を浸していたとか。

ポップの登場とともに消えていったとか。苦みが欲しかったということなんでしょうかね。


居酒屋の義務と特権
中世ドイツの話
人口が急増したドイツでは、北に向かって、大移動というか入植

その先導がドイツ騎士団

そしてその入植地の中心が居酒屋
居酒屋は日用品を売る雑貨屋でもあり、旅人の宿でもあったんです。すべての情報は宿兼居酒屋に自然と集まるんです。

そんな地の利を生かして、不穏な動きを探って報告、経済の情勢という情報を提供する一方で、森林における伐採権、豚の放牧権、魚の漁獲権の特権が与えられたそうです。


   
カシワの木
古代ゲルマン人の森林崇拝
その最高峰の木はカシワ(Quercus robur)

カシワの木から得られた火を神様に捧げるとのこと。6月24日前後の聖ヨハネの祝日に捧げる火は、カシワとモミをこすって作る火だともいわれています。

病気がはやったら、その炭を食べるといった慣習があり、家畜が病気になったら、このカシワで火を起こし、焚いた火の上を家畜に跳ばせたそうです。

浄火とかって「Nodfyr」と古代ゲルマン語
英語で「need-fire」、ドイツ語で「Notfeuer」

ドイツ林業の歴史
1350年 区画輪伐法(面積平分方)が実施
1368年 人工造林開始
1713年 プロイセン国有林が成立
1759年 材積平分法が択伐林で適用
1796年 ハルティツヒによって間伐が試みられる
1810年 国有林の森林測量、森林経営管理機構の整備が行われる
1826年 フンデスハーゲンが法正林理論を提唱
1840年 皆伐作業が全盛
1847年 グルノーにより照査法が試みられた
1849年 土地純収益法が展開される
1852年 バイエルン森林法が制定される
1860年 森林生態学が誕生する

1869 年頃の林業目的は、バイル「林業経営目的は、最大にしてもっとも利用価値のある材積収穫ではなく、最高の土地純収益獲得にある」(1822年)、プレス ラー「合理的森林経営とは、土地純収益が最大になるように森林を造成し、経営することである」(1865年)、ユーダイヒ「林業の目的は、林木の育成に供 せられた土地の最も有効な利用である」(1871年)
このように林業は土地生産業としてみていたのでした。

そし て、明治維新に数多くの人材がヨーロッパに留学。そのうちの一人、長州藩出身の松野間(石扁に間)なんです。もともとは医学を志したそうですが、明治3年 (1870年)に留学(北白川美也能久親王の留学の随行員)、明治5年(1872年)ユーデルスワルデの高等山林学校に留学。(一説には国家経済学を勉強 したかったらしい)。帰国後は、森林行政、林学、技術者に奔走するんです。


戦争に負けただけではなく
大正7年(1918年)11月11日。ドイツが連合国と休戦協定を結ぶんです。第一次世界大戦の終了。
このときに敗戦国ドイツに課せられた莫大な賠償金。結局、これがナチスの登場を産む土壌になるのですが、この時にも、森が無くなったのです。理由は賠償金のため。お金になるモノなら何でもよかったんです。だから、木を伐って売ったのです。増伐傾向になったんです。
1919年のこと。しかし泣きっ面に蜂という言葉があうように、マツノキ蛾の大発生。
材木価格の暴落と市場の大混乱。破産者が大量に誕生したんです。

不況対策の森
1929年10月24日。ニューヨーク証券市場で始まった株の大暴落。世界的な大恐慌で、ドイツでも600万人の失業者を産むことになったんです。

余剰した働き手を吸収するには、戦争が一番。でも、この時のドイツ政府は戦争を選びませんでした。森林の間伐を失業者にさせたのです。そうしなければ、都市に失業者が溢れ、社会不安に繋がります。ひったくりから強盗にへと。生きていくためには、何でも有りになってしまうんです。

こういった事態を防ぐため、国有林を職の場として提供したんです。まぁ、戦後の引き揚げ者を吸収した日本も同じですけどね。


サクランボ戦争
18世紀のプロシアを代表する王、フリードリヒ大王。この王様はサクランボが大好き。
で、王様が大切にしていたサクランボのなる木を熟れて食べ頃になった時に、スズメがチュンと食べちゃったんです。大王は発狂してスズメを退治。翌年は憎きスズメがいないと言うことでサクランボをたらふく食べられると捕らぬ狸の皮算用。

結果は全滅。
スズメという天敵がいなくなった為に毛虫が大発生。そしてムシャムシャ食べちゃったんです。王様号泣。

次の年から、スズメを大事にし、サクランボを折半することになったんです。

この話の対が、中国の毛沢東による雀全滅作戦。結果として次の年には農作物が虫にやられて餓死者続出。1955年の「四害追放運動」のことです。