鳥取県  
  県木:ダイセンキャラボク
Taxus cuspidata var. nana
県花:二十世紀梨
Pyrus serotina var.culta  
 
森を作った人・守った人    
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  亀井武蔵守茲矩       
  石谷源左衛門      
  大呂甚平      
  船越作左衛とその妻&養子達      
  佐々木甚蔵      
  判九郎兵衛      
  原勝      
         
         
産業育成のためにはタイ米(長粒米)を導入した
ロマンティスト
亀井武蔵守茲矩
(かめいこれのり)
因幡国鹿野城の城主、戦国時代に活躍した武将。尼子氏の再興に戦い、秀吉の鳥取攻めに参加し、功を上げ鹿野城主に任じられ、着任しました。荒れ果てた鷲峰山に、九州から杉の苗木を取り寄せ植林しました。

林業以外に、開墾、土木、産業育成を行い、鹿野の発展の基礎を作ったんです。

湖山池の干拓,大井手用水(7年の歳月をかけて建造した、総延長22kmの農業用用水路です)の開設等の功績があり、朱印船を東南アジア各地に派遣しと産業育成に力を入れました。1596年には、産業育成として、そして保護も兼ね、禁木を指定したんです。
  ・桑
  ・楮
  ・雁皮
  ・あさかい
  ・漆
  ・山椒
  ・柳
 等
これは、和紙の原料や、柳行李、漆、絹といった地場産業に欠かせられないモノです。

 
石谷源左衛門
今から約160年前のころ智頭の大庄屋石谷源左衛門は「沖の山」のブナ林中に天スギが混生している様子を見たとき、ふっとひらめいたのです。これで藩の財政再建に貢献できると(天然のスギを略してテンスギ、カラマツはテンカラ、ポプラはテンプラと呼びます。)

スギの植林は、この地域の自然にマッチしているということで、天然スギの挿し木造林をし、天然杉の良い遺伝子を智頭の60あまりの庄屋達に、土地とスギ苗を与えて、家のまわりや谷間などに植林をさせたそうです。

この大庄屋の他、中庄屋長石覚十郎、大河原四郎平もこの運動に参加し、智頭林業の基礎となるスギを植えていくのです。

スギの木の枝の先っぽを切って、地面に挿すと、そこから根がでて大きくなるんです。これを挿し穂といいます。

技術者
大呂甚平
智頭地方のスギ苗木は、天然スギの伏条から採取した挿し穂を特徴としてきているのですが、やはり、安定して根を出すことは重要です。
そんな技術を改良したのが、大呂甚平で、智頭林業の基本である赤挿苗木の養成体系を確立した人といえるでしょう。

船越作左衛とその妻&養子達

湖山砂丘を開拓した米子の商人
1785年(天明5年)、それまで何度も米子と鳥取を商人として往復した作左衛は、一度風が吹くと、進むに進めぬ飛砂に悩まされていました。そして、商人が安全に往来が出来るようにと、妻と共に、湖山村に移り住んだのです。

藩の許可を得て、幅40メートル、距離にして2キロにわたる茶屋一本松から湖山村二本松までをクロマツとハマスゲで植林して、飛砂を防ぐよう努めるが、ダメ。1817年(文化14年)に成果を見ることなく没します。3年後の1820年(文政3年)に、共にがんばった妻も追いかけるようにあの世へ。ハマスゲの強い根が、砂の移動を押さえる機能を持ち、ウラジロを使って、松を植えたそうです。その方法自体は、間違いではなかったようですが、なにせ、結果が現れるには、時間がかかります。

これまでに約10万本を植林し、根付くところまで来たんです。しかし、彼らには子供もなく、後を引き継ぐ者がいなかったんです。

こんなキチガイ沙汰につきあう村人はいません。地元の協力もなく、ダメになるかと思われた矢先、甥の次郎左衛門が移住してきます。で、湖山本村の木下嘉助を養子に迎え、開拓事業を継続。しかし、養子を迎えた3年後の1828年(文政8年)にはあの世へ、

再度、湖山村の奥村吉助を養子に事業を継続

そして今はスイカの有名な産地になっています。

佐々木甚蔵
1866年に鳥取城下の武士の子として生まれたのですが、版籍奉還のために失業し、親は農業を福部村ではじめるんです。佐々木甚蔵は農業を手伝いながら、幼少を過ごすが、その後、質屋で商売人のもとで修行

1903年(明治36年)多鯰ヶ池南麓で開拓に専念し、ナシを中心に果樹栽培で成功し、地域住民の信望と財力を蓄えていきました。

1918年(大正7年)に地区の人々と協力して砂防垣を作り、砂を止めて植林を行うが、風の強いところの植林であったため、風と雪にやられて苗木は全滅、人々は散り散り。やる気のある地区の人を集め「湯山報徳社」という組織を作り再度、チャレンジ。

1926年(昭和元年)に8ヘクタールの植林が成功。15ヘクタールの農地が出来ました。享和年間に鳥取砂丘の拡大を防ぐために立ち上がった人々の代表格。そして、福部村は、今はラッキョの一大生産地

ここでついでに書いてしますのですが、この鳥取砂丘。観光客が減少して、せっかく植えた防砂林を切って砂丘を広げようとしているとのこと。そうすれば観光客が来るとでも思っているみたい。しかし、観光で人がこないのは砂丘のせいではなくはっきり言って、観光客を呼ぶアイデアが無いからです。

ホテルが高い、食事が高い、砂丘内のいろいろなサービス料金が高い等。改善の余地があると思うのですが、昔のままではダメなのに人を呼ぶ方法は、色々あるはずです。団体割引はあっても、家族割りなど無いですからね。

先人の努力を認識すべきです。
大東亜戦争中、敗戦後も金のない中、植林事業を続けてきたところです。あと、変な先入観は捨てるべきです。海岸にあるのはマツでなくてはならない理由はないんです。今、虫害にやられ、植え直したりしています。でも、ここらで、松以外の樹種も入れるべきです。ヤマモモとか、色々あると思います。そうすることによっていろいろな樹種が地力を高めてくれるからです。

元々、海岸にあった植生は、マツではなかったといわれています。人の活動が森林の質を変え、マツ林にしたんです。木を植えるにしてもマツしか育たないほど疲弊した土壌だったからだから、マツ林なのに、






畑の方から見ると、小高い丘に
丘の向こうは、海です。

畑はラッキョです。
判九郎兵衛
1831年(天保2年)に藩の命令で浜坂村の飛砂を防ぐため植林。柳茶屋の砂防林を造成

原勝
 砂丘利用研究の先駆者。明治28年(1895年)生まれ。
大正13年(1924年)に、鳥取高等農業学校に、北海道大学農学部林学科を卒業後、林学担当の唯一の教官として赴任。海岸砂丘緑化に取り組むが、文献の少なさに驚き、結果、自身で充実させることになります。

 文献が無いなら、研究して文献を作るため、県内の主な砂丘の実態調査から始めます。砂の研究から砂の性質が分かり、その性質を理解した上で、砂を防ぐ方法を研究します。潤沢な研究費があったわけではないので、機材や人手など不足分は私費をつぎ込んだとのこと。

 この研究期間はおよそ8年といわれており、昭和7年(1932年)に、研究を纏めた論文「砂丘造林に関する研究」を投稿し、林学博士になります。

 この研究成果は、戦後から本格的に始まった日本中の海岸林造成の重要な参考資料になりました。

 また、海岸林造成の成功のお陰で、ラッキョウ栽培も可能となったのです。

 昭和56年(1981年)没