宮城県  
  県木:ケヤキ
Zelkova serrata
県花:ミヤギノハギ
Lespedeza thunbergii
 
森を作った人・守った人    
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  佐々木君五郎       
  百姓半兵衛      
  和田因幡の守      
  川村孫兵衛      
  喜安良悦      
  山口顕喜      
                
当時、誰もその意義は理解出来なかった。
佐々木君五郎
江合川の洪水を防ぐため,上流の山に200万本の杉の苗を植え、勘当山と呼ばれる山を作った人。親(呉服屋)の仕事を手伝っていた1891年(18才)の時に、売上金80円を親の許可無く、黙って山を買いました。
もちろん、結果は、勘当されます。

そして、東京で時計屋で仕事を覚える傍ら、林業に関する知識を深めていきます。6ヶ月後、母親の説得で、勘当が解かれ、地元に戻り、時計屋を開業します。その時計屋の儲けた中から、半年前に買ってしまった山に植林を始めました。最初は、気違い扱いされたそうです。(きっと長年にわたってでしょう。資金繰りに困る事態を迎えるわけですから)
江合川がたびたび氾濫し、子供心に洪水を防ぐことに一生を捧げようと思ったのでしょう。その後、資金難から家具を差し押さえられたこともあったそうですが、今は、水源涵養保安林、土砂流出防備保安林に指定されています。

植林を行って洪水を防ぐという事業は、絶対最初は理解されません。結果がでるまでの30年とか50年とか経たないと理解されないというのは悲しいことですね。

いったん、水害が発生すると、お役所を批判したり、その一方で、洪水対策の公共事業をしようとすると、自然破壊とか言って足を引っ張っている人がいっぱいいます。一般の人に受け入れられないような事をすることが、実は公共の福祉に役立つことになるのでは佐々木君五郎の行動を見ると、そんな気がします。

防災対策に果たして、反対住民の声をどこまで聞く必要があるのか疑問を持っているのは私だけでしょうか
確かに、公共事業には利権が絡みますがね

ついでに書いてしまいますが、今批判されている干拓事業。至る所で計画されていて、自然破壊や時代に合わないという批判を受けていますが、つい数十年前は、食糧難の国だったんですよね。ほんのちょっとの幸運(朝鮮戦争やベトナム戦争、冷戦)のおかげで経済発展できて、世界に類のない豊かな国になったと思います。このあと、食糧難になってから田畑を作っても間に合わないだろうにと金のあるうちに作っていれば、あとで困らないだろうなと思うとマスコミに叩かれている現場の人の心境は、佐々木君五郎と同じなのでは・・・・・・・
自給率の低いこの国で食料をどうするかについては、バカが多すぎるんです。アメリカ追随反対を叫ぶなら、もっと開拓事業を行って食糧自給率を上げること。すなわち環境破壊をしないといけないんですよね。でも、そういった人に限って、公共事業は無駄だとか、自然破壊反対って農業政策に反対するんですよね。

みなさんはどう思いますか


 
百姓半兵衛
気仙郡の百姓で、詳しいことは分からないが、元禄10年(1697年)藩の命令のもと、熊野スギの実を渡され、私費で65万坪に植林をしたとの記録あり

 
和田因幡の守
1570年から1601年まで仙台湾に植林した領主

他の資料では、高砂村蒲生の領主であった慶長5年(1600年)に正宗公から命を受け、潮除須賀松林という海岸林を作った人となっています。この時、遠州浜松から黒松の種を取り寄せたそうです。


 
川村孫兵衛
石巻湾に植林した藩士
1681年から始まり18886年まで続く大事業のトップバッター

北上川の洪水対策から、北上川から石巻港に至る運河のための水路整備と仙台平野を豊かな平野にした人として有名です。農作物保護のためにも石巻湾に植林したのもその一環だったのでしょう。

彼の志は、養子の孫兵衛元吉に引き継がれました。その後も、多くの人の手で植林されました。


 
喜安良悦
杜の都仙台の名付け親かは分かりませんが、関ヶ原の合戦後、荒れていた仙台藩の緑化に貢献した洞仙寺の住職。

領内で狩りを楽しんでいた伊達政宗公が、休憩のために牡鹿郡桃ノ浦(石巻市)の寺に寄ってお茶を一服しようとしたのに、寺からは何の返事も無し。そこには、一生懸命種まきをしている良悦和尚がいるのみ。返事をしないお坊さんに、正宗公が質問をするなり、「国土が荒れて、緑にしなければならないのに、遊び人の相手などする時間は無い」といったかは分かりませんが、その後、仙台藩は、木材資源の豊かな藩になります。

慶長15年(1610年)には、仙台城大広間の完成披露式に招かれ、、杉の育種、林産物による国家百年の富藩強兵策を述べたそうです。この結果、杉、漆、桑、赤松、桐、竹、ナラ、クヌギなどの植林が奨励されました。また、私有林であれ伐採許可制を設けるなど、自分の山すら勝手に伐れない森林経営を進めることにあったのです。御留山という留山制度、いざという時(軍事用材の調達予備地)にしか伐れない森林経営区も作りました。

良悦自身、良い苗を確保するため、和歌山の熊野まで苗探しに行ったりと、仙台藩の木材資源確保に尽力した人です。結果、仙台藩は木材において自給自足が出来る藩となりました。今の、宮城の林業の基礎を作った人と言えます。

お寺自身も、緑化事業の功績によって、二代忠宗(義山公)より『仙人図』(狩野玄徳筆)を賜っていたりします。





洞仙寺 http://tosenzenji.org/


 
山口顕喜
江戸時代後期の天保4年(1833年)から天保10年(1839年)にかけて、東北地方を中心におこった天保の飢饉。主原因が冷害など自然災害と言われていますが、農作物の収量低下を問題視したのが、山口顕喜だったのです。

 収量低下の原因を潮害、霧害によるものと分析したんです。そして、その原因は、海岸林の劣化(伐採しすぎ)であると睨みました。このため、伐採を制限させ、海岸林の質の向上に努めます。これが、嘉永6年(1853年)のこと。

仙台藩の林政を担当していたようで、藩山林要略にも関わっていたようです。

それから、この海岸林を整備することで、外側(海側)から陸地を見えなくする目的もありました。外国船の情報収集を阻害するためにです。海防林の役目も持たせました。