鹿児島県
  県木:クス
Cinnamomum camphora
県木:カイコウズ
Erythrina crista-galli
県花:ミヤマキリシマ
Rhododendron kiusianum
森を作った人・守った人    
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  宮内良門とその子孫と、木場三太郎       
  大久保利通      
         
                        
吹上浜に緑を戻した人
宮内良門とその子孫と、木場三太郎
薩摩藩家老「弥寝八郎右衛門」の家来である「赤松次郎右衛門」の命を受け、住まいを砂丘の中に移し、植林に一生を捧げた偉人です。

彼が幼い頃、延宝2年(1674年)に吹上浜一帯の森林が大火によって消失し、飛砂の影響で、農作物の収量の低下を招き、藩内でも有数の貧困地帯になりました。

薩摩藩は、この地域の農民を救済するため、植林対策を練っていたが宮内良門も同様な考えが一致し、海岸林造林の責任者として潟取締役に任じられ、藩、農民の協力のもと、植林が行われたんです。

その功績が認められ、3代にわたって潟取締役の世襲が許されたとのこと。

しかし、4代目の世襲はなく、潟取締役制度が廃止され、植林活動も停止となりました。そして、松林も元の砂丘に還ってしまい・・・・・・・・・・
油断大敵とはこの事でした。

けれども、1859年に宮内善左衛門という子孫(良門没後およそ170年後)が仲間の木場三太郎によって、私費を投じ、再植林に全力を挙げました。

その後、時代が変わっても県や地元の住民、そして、国によって砂丘造林が引き続き行われ今に至っています。

たぶん、荒廃した場所に植林=一斉林(同齢林)だったので、枯れるときも同じ。寿命が同じだったのです。もともと、駄目な場所に植林ですから、育った松も、ストレスを抱えていたのでしょう。早死にというか、同時期に枯死したため、再度植林。同齢林から異齢林に移行したのでしょう。しかし、松食い虫による予想外の事態で、抵抗性品種を植えつつ、次は、混交林に移行していくしかないのだと思います。

今、 世界中で日本のNGOをはじめとする善意ある人によってあちこちで植林が行われています。別に、植えること自体を非難するつもりはありませんが、管理の面 が抜け落ちている例が多いそうです。せっかく植えてもらったので、枯らすわけには行かず、管理すると意外と手間とか、金がかかる。全然、面倒見てくれない という声があります。吹上浜も、管理にお金を注ぎ込まなかったため、再度巨額な投資を行う羽目に管理面の重要性の良い例ではないでしょうか





松食い虫で被害にあったあと





ちょこっとだけ、生き残っています。
 

海水浴のために道が出来ます。
道に沿って風が入り、砂が入ります。
徐々に、徐々にと気付けば、砂に埋まってしまう。




マツノザイセン虫に抵抗のある苗
1本500円ほどするとか

松食い虫のすごすぎる被害
本来なら、一面、松林だったのです。数本残るだけ



ザイセン虫に負けないように注射をします。
白いのは、注射した年を記入します。


 
大久保利通
文政13年8月10日(1830年9月26日)生まれ、明治11年(1878年)5月14日に暗殺された「維新三傑」の一人。

欧米視察後に富国強兵を国是に、欧米の植民地化を防ぐため、明治8年(1875年)に、内務省の「本省事業ノ目的ヲ定ムルノ儀」を建白するんです。その中で、殖産興業政策を推進して、官営事業の創設や牧畜、農林業などの官営諸施設の創設などを行い、今の日本へと繋がっていくんです。

その中で、重要分野の一つに林業を位置づけ、明治11年(1878年)に、森林官吏の教育と国内外の樹木の適応試験をするため、東京府北豊島郡滝野川村西ヶ原に樹木試験場を開設。翌年には、林産物に関する山林局直轄の林業試験場も開設しました。

私財をなげうって、農学校を寄付。今の東京大学駒場キャンパス。

明治8年に大阪の浜寺公園の松を開発から守った事も有名。そのときの一言が「「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」」