群馬県    
  県木:クロマツ
Pinus thunbergii
県花:レンゲツツジ
Rhododendron japonicum
 
森を作った人・守った人    
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  船津伝次平      
  大谷休泊       
 
静岡石垣イチゴの指導者でもあり、上毛カルタの「ろ」の人でもあり、明治の三老農の一人
船津伝次平
船津伝次平は天保3年(1832年)。勢多郡富士見村原之郷に誕生。幼いころから父に学問の手ほどきを受け、地元の先輩であるニュートン以上の天才数学者関孝和の算術を勉強し、20歳で免許皆伝、27歳で名主となり、赤城山南麓の原野にクロマツ(Pinus thunbergii)を250ヘクタールほど植林しました。

推測ですが、幼年期に天保の大飢饉を経験したせいか、農業の安定を防風林を作ることによって目指したのかも知れません。それ以上に草場だった場所に、水源涵養機能のある森林を作ることで、水争いを終わらせようとしたのが、動機ともいわれています。赤城山の山麓は、赤城山の噴石や溶岩などで、保水力の乏しい地だったのです。このため、雨が降っても流れるだけ。保水力が無かったと言われています。そのような背景があったそうです。

これで、11月から3月にかけて吹くあれる赤城おろしと呼ばれる強い北西の季節風を弱め、村の農業を始め富士見村の存続必要不可欠の存在となっています。ちょっとオーバーかな

東大農学部に招かれ、巡回指導者として、全国(沖縄をのぞく)を行脚し、農業技術の向上に寄与した人物で、明治の三老農の一人として日本の基本づくりに大きく貢献しました。(大久保利通のおかげなんです)

その成果の一つが、太陽光線で石が暖まるのを利用したイチゴづくりが静岡の石垣イチゴだそうです。

伝次平が亡くなったのは明治31年のことでした。
ちなみに、旧富士見村(現:前橋市)の村の木は、クロマツでした。

群馬県畜産試験場には、当時の松が現存していますが、それ以外の場所では、松食い虫の被害に遭っていました。
森林再生は、時間がかかるというか、永遠に続く作業です。






富士見村→前橋市
 http://www.city.maebashi.gunma.jp/
 
富士見村は、前橋市に黙って独立していました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatorik/


 

富士見支所に銅像があります。

 
造林地の一部は、松食い虫被害に
松以外の樹種も生育できる環境になっているんですけどね。抵抗松を植えていました。

大谷休泊
この人なしでは、船津伝次平は誕生していなかった?可能性が大の人です。
室町時代。第12代将軍足利義晴の頃
大永元年(1521年)の生まれで、天正6年8月29日(1578年9月30日)、57歳没。上杉憲政に仕えた人です。開墾に従事したが、上杉が逃げてからも、新田開発に従事。農政家です。

新田の水の確保=水源林の造成ということで、永禄2年(1559年)から21年間に150万本の松を植栽。その面積518町(518ha)で、防風林の意味もあったそうです。

その前に8万本の松の苗を日照りで枯らしてしまうこともあったそうです。でも、あきらめずに、時間をかけて根気よく植林をしました。初めはキチガイ扱いから始まり、最後は、資金難で撤退やむなしになった時には、村人総出で引きとめるまでに。植林後には、用水路を作り新田開発が完成となったんです。

地元では、休泊防風林として、多々良沼の東側に残っています。(昔は12kmもの防風林帯があったそうです)

多々良沼の「多々良」は、たたら製鉄から来ていると言うことで、製鉄で灌木まで使い切った荒れ地だったそうです。そんな環境下での植林。400年前の木と言うよりは、3世代にわたって維持されているところですが、松食い虫の被害が出始めています。
隣接する埼玉県の松食い虫対策が、貴重な防風林を守る鍵になります。それと、管理が館林市なので、館林市が、どこまで本腰になって対策をとるか。貴重な先人の遺産を守ってほしいです。




右端の木は、松食い虫の被害木です。


金山という場所から苗木を運んだそうです。周辺は荒れ地で、苗木作りに必要な母樹すらなかったことを意味しています。荒れ地を回復させるというのは、大変です。