秋田県  
  県木:秋田スギ
Cryptomeria japonica
県花:フキノトウ
Petasites japonicus
 
森を作った人・守った人    
杜(森)の話
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  佐竹義宣、渋江政光       
  長尾祐達 越後屋渡辺太郎右衛門、
栗田定乃丞 大間武兵衛、伊藤東四郎、
湊伊兵衛、加藤(賀藤)清右衛門景林、景琴
豊田弥五右衛門、越前屋村井久右衛門
     
  小貫小助      
  石川善兵衛、佐々木孝一郎      
  藤村彦六定継      
  荒谷忠兵衛      
 
秋田藩藩祖
「国の宝は山であり、山の衰えは国衰である」
佐竹義宣、渋江政光
「国の宝は山であり、山の衰えは国衰である」
山林保護に熱を入れた秋田藩の藩祖
この一言が、秋田藩の山の管理の伝統を作り、幕末までしっかり守られました。

ゴーストライターは家老の渋江政光。藩主の林業と鉱山で行くという藩主の方針に基づき林業の方法を模索して作り上げた言葉だそうです。

用材は、大阪に売り払って、藩の財政をまかない、銅山と、冬の藩士(暖房)のための燃料として炭作りを始めたんです。

雪深い秋田では、冬農民の仕事がないため、その雇用対策も兼ね、秋田炭を生産していました。
ここで面白いのは、藩士へは、無料で配っていたのではなく、製炭費に当たるお代を給与天引きしていたんです。これによって、市場経済による値段に生活が脅かされることなく、生活できるように配慮されていたとか

あと、庶民には決して良い制度ではなく、勝手に炭を焼いたり利用すると死罪だったとか


「国の宝は山であり、山の衰えは国衰である」

この言葉を多くの人に知ってもらいたいです。
貧困などで、援助を行うとき、医療や食料という目に見える分野はたくさん行われます。しかし、長い目で見たとき、どのような援助がよいのかというと、やはり森作りではないでしょうか?成果を出すまでに時間がかかり、目に見えにくいこと
援助を受ける側の政治家も票につながらないということで農業や医療を求めます。また、援助する側もすぐ見える成果を求めてしまう為、20年、30年、いや100年も待たなければならないような気の長くなる援助をなかなか採用しません。

日本の山も荒れています。
間伐という作業を必要としているのです。
公共事業が必要としているのに政治家も票につながらないのであまり、声にしません。

もう一度、山に注目してもらいたいものです。


 

風の松原の他、秋田の森を作った人々
長尾祐達 越後屋渡辺太郎右衛門 栗田定乃丞 大間武兵衛、伊藤東四郎、湊伊兵衛 加藤(賀藤)清右衛門景林、景琴 豊田弥五右衛門、越前屋村井久右衛門


風の松原と呼ばれる防砂林は、能代市海岸の幅1キロ、延長14キロ、 面積760haにわたり、約700万本の松が植えられています。主に150年生までのクロマツで構成されています。

1600年代に海岸砂留策を唱えた能代の医師・長尾祐達にはじまり、自費でクロマツを植えた祖父から続く越後屋太郎右衛門とその子孫、佐竹藩の郡方砂留吟味役・栗田定之丞、能代木山方・加藤景林、景琴親子たちの心血を注いだ努力のたまものであります。

しかし、心血を注いだ栗田定之丞は、当時の農民には嫌われ、火の病(伝染病)で死ねといわれるほど、妬まれていたそうです。しかし、彼の死後5年が過ぎた 天保3年(1832年)に藩儒奥山君鳳に碑文「栗田君遺愛碑」を書いてもらい、村人の手によって建立されたそうです。さらには、その公徳を後の世にまで語 り継ぐため、栗田大明神を祀る社を安政4年(1857年)に作りました。
彼の残した防砂林の効果が目に見えるまで分かってきたからでしょう。

そして、農民が植林し育てた杉などの樹木を、農民に利用権を与えるということで、農民を参加させ、農民の心理を巧みに操ることによって、砂防林の保全に導いた秋田藩の林務官の港伊兵衛、豊田弥五右衛門の2名が代表的な人々です。

1670年 能代の医師、長尾祐達、海岸砂防策を唱える
1711年 回船問屋、越後谷太郎右エ門の祖父、自費で黒松植栽
1716年 港伊兵衛、豊田弥五右衛門が連署で藩の林政改革に乗り出す。
1724年 当時の能代中心部が飛砂で埋まる
1797年 郡方砂留吟味役、栗田定之丞(1767-1827)、約50キロの海岸に20年かけて黒松を数百万本植える
1822年 賀藤景林、能代木山方兼務。砂防林造成も担当
1833年 賀藤景林、70万本以上を植林
1858年 景林の子、景琴この年まで30万本を植林



砂の飛ばない砂丘に柳を植え、その陰にグミの木を植え、根付いたところに黒松を植えるという方法で次々と防砂林を作っていきました。技術の体系を作った栗田定之丞の技術は、今の「衝立工」の基礎になっています。

衝立工は、竹などで垣を作り風を防ぐ方法
今でも、日本の海岸のあちこちで見られます。


昭和の話はこちらです


能代市のホームページ
http://www.city.noshiro.akita.jp/
 
小貫小助
あまり資料がないのですが、天王砂丘に1819年から1829年にかけて植林を行った藩士
マツ、グミ、ヤナギを植栽に用いたとか

 
石川善兵衛、佐々木孝一郎
これまた資料がないのですが、本荘の砂丘を植林した人々。1778年から1846年まで植林をした人が、石川善兵衛。この人は、農民だったそうです。3代 80年あまりで、1千万本植えたとのこと。岩城藩主の命令のもと、数多く、飛砂を防ぐために海岸に植林にチャレンジしたが、ことごとく失敗。

こういう時には、純な性格で勤勉かつ意志が強い人だった石川善兵衛。ムギやアワと一緒に松を植える、チガヤ、グミ、ネムと一緒に松を植える等々
度重なる失敗にめげず、松林を着実に作っていったそうです。

大正時代に植林をしたのが村長の佐々木孝一郎
現在の西目町、40年間ほど、村の発展に
がんばったそうです。
1912年から1925年にかけて植林したそうです。

 
藤村彦六定継
樺細工の創始者?
もともとは、木地師や山伏の仕事を産業化し、下級武士の収入源にした角館を拝領した佐竹北家の人。


 
荒谷忠兵衛
大葛(くぞ)金山の山主で、防塵マスクを用意して坑夫の健康を配慮したりと、文化8年(1811年)「金掘病體書」の中で珪肺の症状を正確に記述し,烟毒の原因を石粉の吸入と推定し、 対処方法を医者に求めるなど、対策に奔走した大人物で、労働衛生の分野では超有名人。

その鉱山の発展は、大量の木材の消費が付きまといます。ここも例外ではなく、禿げ山の出現。

文化年中(1804〜1817年)に、この事態を解決するため、、藩に、自費植林の免許を申請し、許可を得た後、不毛の地赭禿の山にスギとクリの二種類の苗を植栽したんです。

スギは、燃材に、クリは坑木に利用されたんですかね


 
金子兵左衛門
八竜砂丘を植林した人
大口村の肝煎の5代目

 
原田五右衛門

 
村井兵政

 
野呂田八郎右衛門