日本の場合明治以前
日本の歴史もあります森林破壊の歴史

神話時代
神話にも登場します。森林破壊の事例が

それは、ヤマタノオロチ
これは、たたら製鉄(天叢雲剣という鉄の剣が象徴しています)のために燃料として、山の木が切られ利用されたんだと思います。
山から木が無くなることで、保水力が落ち、洪水が発生し里の田圃(櫛稲田姫)が荒らされたことを物語っているのです。やまたのおろちは土石流かも知れません。呑み込むという表現は、埋まる意味だったんでしょう。砂鉄から鉄を生み出すには、大量の炭が必要です。その材料の木が必要だったんです。
素戔嗚尊が退治したというのはおろちを退治することは植林だったのです。

相当ひどい森林破壊だったから木を植えることで解決しました。素戔嗚尊は和歌山の熊野神社の植林の神様ですから。山を荒らしてきた歴史の証明がこの神話なのです。破壊と再生=植林による対応だったのです。

身近なところでは鎮守の杜。神社は、その地域の守り神。そんな神社の裏には森があります。平地ではあまり感じませんが、後ろに山を持った神社には、鎮守の杜が水源林の機能をもっているんです。
森を荒らすと、水が枯れる。水が枯れると農業が出来ない。水だけでなく土砂が流れ込まれても農業がダメ。

だから、森を残すことを経験的に覚えたんです。森林破壊を体験した反省からなんです。


日本の夜明け
古い時代は、奈良、大阪、京都といった都の周辺で起こりました。巨大な寺院の建築用に木が伐られ、禿げ山があちこちに発生しました。

森林破壊の最大のイベントは、東大寺の奈良の大仏造り。銅を溶かすために大量の燃料が必要→山の荒廃。
お寺を造るのに巨木は柱に化けたんです。滋賀県の田上山は今も治山事業が続けられています。

同じ頃の関東平野。
朝鮮半島から逃げてきた人達が住み着きました。渡来人のことです。戦乱や政治混乱から逃げてきたのです。半島に残っていれば、一族郎党みんな殺されるのが落ちですから。今いる多くの在日の人達が貧困からの脱出(豊かさを求め、仕事を求めて)、朝鮮戦争等から逃げてきたのと構図は同じ。生きるために国を捨てたんです。戦争中に日本人として徴用された元日本人は第3国人となってちゃんと帰国しましたから。その痕跡は、狛江市や高麗川といった地名。(神奈川県の山の名にも朝鮮半島の痕跡があるとか)。有能な技術を持っていた人々は、京都などに住んだんですけど、そうでない人々は、都とから遠くに追いやられた(多分)のです。渡来人達は、生き延びるために焼畑と家畜の導入したのです。家畜のためにススキを常に用意する必要があったのです。餌として。
焼畑すれば、森に帰ります。
でも森に還れば、ススキが採れない。採れないと家畜が困る。常にススキを採れるように植生を改良したのです。江戸時代になって江戸の人口を養うための薪を採るため、食料を安定的に採るために植林が始まり、雑木林が作られました。見渡せば、木のない、森のない関東平野に。多分、騎馬民族、草原の民だったDNAがそうさせたんだと思います。

あと、白河上皇の言葉で、ままならぬ物が、サイコロの目と鴨川の洪水というのがあります。これも山が荒れていたから=都への薪の供給だったんだと思います。

遷都の理由
都が出来れば、人が集まります。人が集まれば、煮炊きのための燃料も必要です。暖を取る必要もあります。役所などの建物に必要な大径木は、少し遠くにある木を伐って持ってきても問題ありません。しかし、燃料になる燃材は身近な場所からの調達となります。

都周辺の丘陵地は、格好の燃材採集の場所です。落葉落枝を集めているうちは問題ありませんが、人口が増えれば、不足してきます。枯れた木を使おうというルールがあれば、生きてる木は使えないけど、枯れた木を作れば良いとなります。次第に、過伐となり、都周辺は禿げ山となります。

梅雨の長雨や台風が来れば、都に土砂が流れ込み、洪水被害だけでなく、水はけが悪いと蚊を媒介とする伝染病などの発生源になります。

怨霊のせいというのは、病気の蔓延も考えられます。都周辺の森林がなくなることで、水源涵養機能が無くなり、水不足も発生します。水不足は、水争いを呼び、人心が荒廃します。


この様に遷都を繰り返した背景には、森林破壊の結果ともいえます。他の文明が崩壊したと同じようにです。規模は小さいですが。

その結果、天井川が都周辺に誕生します。

 
   
天井川の配置状況
森林破壊の結果は、天井川という形で登場します。山が荒れることで、土砂流亡が起こり、川の河床に土砂が堆積します。すると、堤防がなければ、洪水が発生。堤防を作ることで、洪水(越水)を防ごうとします。しかし、次から次へと土砂が入ってくるので、河床の上昇→堤防の嵩上げ→河床の上昇→堤防の嵩上げの繰り返しです。

天井川は、自然の力で出来るのではなく、人工的に出来るため、奈良、京都を中心に多いのは、それだけ山が荒れた状態だったのです。一番の被害者は、滋賀県なんですが。京都1000年の歴史の中で、燃材用に木が伐られ、荒廃した森林が出来てしまった結果の81もの天井川(全国の37%)なのです。



メカニズム






都道府県 河川数 河川名 
滋賀県 81 姉川、高時川、旧草津川 、百瀬川、家棟川、野洲川、愛知川
京都府 23 不動川・玉川(木津川)、弥陀次郎川
大阪府 天竺川・高川・糸田川(神崎川)、寝屋川
兵庫県 武庫川、芦屋川、石屋川、住吉川
奈良県 大和川、
和歌山県 富田川
全国
(29)
217 常願寺川(富山)、大明神川(愛媛県)



キノコの証言
京都周辺の話になりますが、平安時代末期に書かれた今昔物語には、ヒラタケの記述があるそうです。ヒラタケは、湿気の高い、地面に日光があまり届かない環境で育つ木のことです。鎌倉時代初期の宇治拾遺物語では、丹波の国篠村には、たくさんのヒラタケがあったが、ちっとも採れなくなったとの話もあります。

源平盛衰記では、木曽義仲が、ヒラタケが手に入らないので、木曽から持ってきたという記載もあります。

だんだん、陰樹から陽樹に森林の構成が変わってきました。

鎌倉時代の藤原定家の日記である明月記には、松茸狩りの話があります。最初のマッタケは、手に入らなかった。2回目には宴会にたくさん使ったような内容です。

それだけ、森林の劣化が進んでいったことの証明です。林床が暗く湿っていた照葉樹や落葉樹が姿を消し、日光が地表に届き、乾燥した土壌になったために、ヒラタケからマッタケにキノコも変わったと言うことです。

食べ物系ブログは、今に始まったというわけではないと言うことですね。でも、こんな記述が、貴重な情報として今でも残っているというのは、すごいことですね。埋没している日記も多数あると言うことなんだと思います。
   
    戦乱後の平和
織田信長の登場で有名な戦国時代。日本各地で戦いの度に森が焼かれたそうです。敵が隠れていたりしたからだと思います。
例えば、駿河湾の海岸林
武田の軍勢は北条の軍勢が隠れる可能性がありと、すべて焼き払ったとか(後に武田勝頼が植えたという話もあり)

豊臣秀吉の後、徳川の時代に突入。
すると戦乱が無くなり、人口が増えた(戦いで人が死ななくなった)ため、農地が拡大。山の森を削って、段々畑、棚田を作ったのです。立派な棚田、千枚田は、森林破壊の結果なんです。そこまでしないと生きてゆくための食料が得られなかった。そんな時代だったのです。
人口の拡大→農地の拡大=森林の減少→扶養人口の拡大→農地の拡大

山を切り開いて今に至っている例が、瀬戸内海の島々で見られる段々畑。今はミカンですが、元々は、飢饉に備えてサツマイモを植えた名残だったそうです。

商業の発達も森林を荒廃させる原因でした。代表的なのは塩です。製塩業が活発になったのです。そうなると煮詰めるための燃料として薪が使われたのです。このため、製塩のために瀬戸内海の森は禿げ山にアカマツしか育たない環境にまで酷使。一方、日本海側の藩も金儲けに製塩を開始。みるみるうちに砂丘の広がり。(植林を行う羽目に)

愛知県の瀬戸市や岐阜県の多治見市。ここは焼き物で有名で、製陶のために燃材として森の木を伐採。陶土を取るために採掘して表層が露出して雨風によって洗われ、浸食が加速して禿げ山の登場。

国土の荒廃が各地で起こり、待ってましたとばかりに各地で篤林家が登場。日本各地で、官民(当時は幕府、藩)あげて植林が行われ、今に至っています。

この辺の持続的な生活を目指した話は「日本農書全集」(社団法人 農山漁村文化協会)が詳しいので参考にしてみてください。

塩田開発による海岸林の消失
赤穂浪士は、塩にまつわる市場の争いの結果とも言われています。製塩技術が未熟だった吉良が、効率的に塩を生み出す入浜式塩田法の技術を巡っての争いだったとか。塩は、必需品ですから、安全保障の意味でも、自分のところで確保したいものです。

それらの塩は、最終的には、燃料が必要です。江戸時代には、諸般で塩作りが行われました。ある意味、自給自足ですから、外部からの購入は、お金の流出です。

塩田周辺では、燃料のために、木が伐られていきました。まだあるよねと言っていたのに、気づけば、何もない状態です。天然の海岸林も、農地の拡大と言うことで、開発されていきました。結果、海岸林の造成が始まるのです。森が亡くなったために、飛砂による農地へのダメージ、農作物の収量低下、塩害、居住地の悪化等々、いいことはありませんでした。

瀬戸内海沿岸が、壊滅的にならなかったのは、九州で見つかった石炭のおかげです。安永7年(1778年)頃から周防の塩田で、石炭釜による製塩が始まります。赤穂は、文政初年(1820年)頃、備前の牛窓は、弘化年間(1840年代)、味野は、安政年間(1850年代)。まぁ、逆に言えば、身近に燃料となる松の木は無かったからです。宝永年間(1750年頃)は、塩田のうち、一部は休ませると言うこともあったそうです。

そのため、あちこちで海岸林造成が始まるのです。松食い虫の被害を受けるまで、津波の被害を受けるまで、立派な海岸の松林は、このような負の歴史の結果なのです。




燃料として芝を運ぶ男性(左側)


江戸時代の塩田風景(塩とたばこの博物館より)




再植林しなかった結果の積み重ね(イメージ)
参考写真:よみがえる国土 ―写真で見る治山事業100年の歩み―

緑肥をとるために、根こそぎ採った跡です。樹根掘取りというそうです。備前国(岡山県)では、松が出てくると、緑肥や牛馬の飼料として、伐採して、禿げ山に近い状態に保つ努力をしていたそうです。良いか悪いかは別として、その日を暮らす地域の農民にとっては、禿げ山でないとだめということです。
しかし、児島地区では、牛馬の飼料より、製塩用の燃料材の方が、収入が良いと言うことで、30年まで松を育て、販売していたそうです。でも、松林が残っていたところは、本当にわずかだったそうです。
金儲けの寺院の存在
明治維新が成功したことの一つが、宗教から金を奪ったことです。財力を奪ったため、良い社会が出来たと言えます。京都や滋賀にある国有地は、もともと社寺有林だったところが多いのです。京都の清水寺の後ろ、天竜寺から見える嵐山は、国有林です。理由は、宗教の力をそぐ必要があったからです。

寺の運営に、煮炊きをするにも、燃料が必要というので、江戸幕府は、社寺有林を与えました。

しかし、実態の寺は、幕末時には、金貸しに走り、挙げ句の果て、明治維新で焼き討ちに遭います。廃仏毀釈の嵐は、そのような背景があったからです。

社寺有林も例外ではありません。農民に金を払わせて、薪や落ち葉を採らせていました。しかし、植林を行いません。山は荒れるに荒れていったのです。有名どころでは、栗東市にある天台宗の金勝寺です。左の写真も、近くの風景です。

一方、藩有林は、地域住民に利用はさせますが、利用制限していました。木材として金になる木、スギやヒノキ等は、藩が利用。しかし、薪や肥料としての落ち葉は、使用料を取るものの、自然が壊れるようなことはしませんでした。ちゃんとメンテナンスをし、植林していたのです。行政は、持続するのが前提。宗教は拡大するの前提。持続させるために、メンテナンスする、そんな後ろ向きな考えは、持っていません。宗教というのは焼き畑商売みたいなものです。

絵を見て判断
浮世絵や絵の中で、松林が見える場合は、ほとんど収奪された山を意味します。

国有地になった社寺有林は、基本、禁伐です。利用を控えます。その結果、潜在植生が復活するのです。それまで、落葉した葉は肥料やたき付けに使われるため、地表は、1000年近く収奪されていたため、非常に土壌がやせて、松しか生えない状態だったのです。しかし、明治時代の国有地編入の結果、その松葉が堆積し、灌木の葉も落葉してくると、土壌が出来てきます。

今では、痩せ地にあったアカマツは、尾根沿いに点在するのみ。紅葉で有名だったのに、照葉樹林になるにつれ、秋の風情を感じさせない緑の山。冬も緑です。

すごく劣化した山林が、都市近郊林だったのです。なので、決して、今のような緑豊かな国だったわけではありません。他の国と違い、それだけ多くの人の努力の結果でもあるのですが。




清水寺の後ろにある高台寺山国有林。かつては清水寺の所有地で、アカマツと山桜で有名。それだけ、収奪されていたんです。今は、禁伐で本来の植生であるスダジイなど照葉樹林の森林になってきています。少し前までは、松茸の取れる、紅葉の楽しめるアカマツと落葉広葉樹の混交林だったのです。



安永9年(1780年)に、京都の書林吉野家から発売された「都名所図会」の清水寺
都名所図会「音羽山清水寺」(国際日本文化研究センター所蔵)


江戸時代の様子。
自然資源を山(森林・草山)から調達していたのが判ります。
結果、草地だらけ。林野庁というのは、この様な草山も対象だったので、「野」という字が使われています。

日本の場合明治以前
きこりのホームページ http://www.kikori.org